虫干し映画MEMO

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戦争に関する日記

2005年03月15日 | 日記・雑記
 山田風太郎の「戦中派虫けら日記」などを筆頭に、戦争中のいろいろな階層の人の残した日記・手記を読んできた。その中でも私の想像の範囲では、この人の人格を構成するものをわかりきらない、と感じる人がいる。宇垣海軍中将や木戸幸一など特に感じる。
 山田風太郎の日記はそんなことは感じない。優れて明晰な青年の戦争に追い詰められていく様子がただ痛ましく、恐ろしい。周囲の状況が切迫してくると、文体が文語文になる。普通の文章を書くにはやりきれない内容になったということなのだろう。
 文語文といえば、「戦艦大和の最期」を思い出さざるを得ない。どちらも、生々し過ぎるような凄惨な内容で、それを記すためには日常を遮断した文体が必要だったのだろうか、と思う。
 今は漢文さえも学生が触れる機会が少ないようだ。ということは、私たち日本人は思考回路を一つ失ったのではないかとさえ思える。外国語教育の普及はそれを埋めるものではないだろう。斉藤孝先生も漢文重視しよう運動はしてないかな。

 このことを考えたのも、「ローレライ」の影響なので、しつこく言及しちゃうけれども、海軍高官が自決を迫られるシーン。朝倉大佐の意思も描ききってはいないし、軍上層部も出した甲斐がないと思うのは私だけだろうか。おそらく宇垣中将のようなタイプの人なら、死なんて怖くないだろう。彼は自分も死ぬ気だからこそ若者を特攻に送り出した。そして終戦の詔勅後に特攻に出た。部下を連れて。人間的に高潔な人物のこういう意識こそが私には恐ろしい。
 
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