いわゆるやおい・ボーイズラブは苦手なのでほとんどパスしています。でも知り合いの女子中高生でやおい愛読者・コミケ常連さんたちはかなりいます。だからたまに覗かせてもらうけどやっぱりちょっと見ては「きゃあ」でおしまい。最近のものはまともに読んだことがほとんどありません。男性同性愛のものの嚆矢といえるんじゃないかと思う、そして私がまともに読んでいる竹宮恵子、中島梓氏は、彼女たちの作品は今のやおい物とはまったく質の違うものだとおっしゃっています。
やおい本はちょっと覗くと〔刺激〕ばっかり!という感じがしないでもありませんし、「やおい」という言葉になんとなく後ろめたいような、怪しいような、いけないことである感じは付きまといます。
この本は、男性同性愛小説の早いうちからの書き手である著者が、それを書かなければならない、書く必然性を持つ人間の立場からの考察と発言。文章硬いし、難しくて、読み進むのはちょっと苦労。好奇心と偏見の目で捉えられる主題だけに、あえて、こういうカタイ文体にしたのでしょうけれど。
この本によれば、ヘテロセクシュアル(いわゆる普通の異性嗜好)、ホモセクシュアル(同姓嗜好)などと並んで、トランスセクシュアルというややこしいものがあって、それはたまたま女性の身体を持ってしまったけれど男性としての自己意識を持ち(最近認知された性同一性障害というのですね)、それでいて男性が好き、というもの。そういうことになると、じぶんの女性としての身体で男性同士の関係に入っていくことは許せない。したがって、必要なものとして男性同性愛の小説類で昇華していくことになる…でいいのかな?
私の今までの「やおい」の捉え方というのは個人のセクシャリティに根のある問題というより、世界に対する違和感のあぶりだし方のひとつの方法というものだったので、これはちょっと驚きだった。
異性関係というのは、どんな関係であれ、男女間の縦=上下関係を伴わずにはいられない。それを排したところで成立し、しかも世間の基準にずれた恋愛関係は、人間誰もが抱えている世界への違和感、その中で人との結びつき、理解し合える関係を求める心を際立たせるための手段かしらんと考えていた。だからこそ、女の子が群がるのか、と。
自分の足元を見てみれば、同性愛というのは、おのれに直接かかわらなければ理解と許容を示せる現象である。
例えば「プリシラ」を見てゲイである彼らの悩みに共感し、苦しくてもそうあることが彼らの自然であるということはわかる。だけど、自分の兄弟がそうなったらほんとにショックだろうなあ。それを受け入れるのにむちゃくちゃ時間とたくさんの葛藤を経過しないと無理。それでこの本もぜんぜん身に迫ったものでなくて、結局、別の世界の風俗を見る眼でしか読めなかったようだ。
でも、こういう切実な「やおい以前のやおい」と、女の子が出ないポルノグラフィー的な読み方してる「ヨミセン」(コミケ用語らしい)の子達とは別だと思う。こちらはこちらで、別個に考察が必要でしょう。
実は正月に、いきなり「やおい」からもちょっと気がひけるので橋本治から書き始めたのでした。あとはル=グィンの名作「ゲド戦記」全5巻をなんとか自分的に納得してしまいたかったので通読してたけど、結局先送りになりました。ル=グィンといえば、考えてみると「闇の左手」もちょっとそれっぽいとこはあるかも~
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やおい本はちょっと覗くと〔刺激〕ばっかり!という感じがしないでもありませんし、「やおい」という言葉になんとなく後ろめたいような、怪しいような、いけないことである感じは付きまといます。
この本は、男性同性愛小説の早いうちからの書き手である著者が、それを書かなければならない、書く必然性を持つ人間の立場からの考察と発言。文章硬いし、難しくて、読み進むのはちょっと苦労。好奇心と偏見の目で捉えられる主題だけに、あえて、こういうカタイ文体にしたのでしょうけれど。
この本によれば、ヘテロセクシュアル(いわゆる普通の異性嗜好)、ホモセクシュアル(同姓嗜好)などと並んで、トランスセクシュアルというややこしいものがあって、それはたまたま女性の身体を持ってしまったけれど男性としての自己意識を持ち(最近認知された性同一性障害というのですね)、それでいて男性が好き、というもの。そういうことになると、じぶんの女性としての身体で男性同士の関係に入っていくことは許せない。したがって、必要なものとして男性同性愛の小説類で昇華していくことになる…でいいのかな?
私の今までの「やおい」の捉え方というのは個人のセクシャリティに根のある問題というより、世界に対する違和感のあぶりだし方のひとつの方法というものだったので、これはちょっと驚きだった。
異性関係というのは、どんな関係であれ、男女間の縦=上下関係を伴わずにはいられない。それを排したところで成立し、しかも世間の基準にずれた恋愛関係は、人間誰もが抱えている世界への違和感、その中で人との結びつき、理解し合える関係を求める心を際立たせるための手段かしらんと考えていた。だからこそ、女の子が群がるのか、と。
自分の足元を見てみれば、同性愛というのは、おのれに直接かかわらなければ理解と許容を示せる現象である。
例えば「プリシラ」を見てゲイである彼らの悩みに共感し、苦しくてもそうあることが彼らの自然であるということはわかる。だけど、自分の兄弟がそうなったらほんとにショックだろうなあ。それを受け入れるのにむちゃくちゃ時間とたくさんの葛藤を経過しないと無理。それでこの本もぜんぜん身に迫ったものでなくて、結局、別の世界の風俗を見る眼でしか読めなかったようだ。
でも、こういう切実な「やおい以前のやおい」と、女の子が出ないポルノグラフィー的な読み方してる「ヨミセン」(コミケ用語らしい)の子達とは別だと思う。こちらはこちらで、別個に考察が必要でしょう。
実は正月に、いきなり「やおい」からもちょっと気がひけるので橋本治から書き始めたのでした。あとはル=グィンの名作「ゲド戦記」全5巻をなんとか自分的に納得してしまいたかったので通読してたけど、結局先送りになりました。ル=グィンといえば、考えてみると「闇の左手」もちょっとそれっぽいとこはあるかも~
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