子どもの過ごす「時間」を「お金」で買うという感覚は、
習い事や子ども向けのサービスがあたり前となった現代では、
たいていの方が身に覚えのあるものだと思います。
どうせお金を出して時間を買うのなら、
お金に見合うような
目で確かめられるような成果を得たいし、
子どもの喜ぶ姿を見たいし、
将来に役立たせたいし、
家ではできないような濃密な価値のある体験をしてほしいし、
親の自分が不快な気持ちは味わいたくない、
と考えますよね。
でも、注意が必要なのは、お金で買う「子どもの体験」が、
親の財布のひもをゆるめるほど「親の満足度」が高ければ高いほど、
「子どもの成長に必要な何か」を奪っている
場合もあることなのです。
お金を払っている時間に、
もし子どもが泣いてばかりだと、
親は気が気じゃありませんよね。
チャリンチャリン~とお金を溝に捨てているような気になるかもしれません。
お友だちとケンカばかりしていても、
性質の異なるお友だちに邪魔ばかりされていても、
他の子のように積極的に参加せずに、
ぼんやり見ている場合も、同様の気持ちになるでしょう。
お金で購入した時間には、
親は「自分が価値があると思うもの」だけで埋めたいし、
親は「子どもに自分が取ってほしいと思う態度」だけ取ってもらいたいし、
親が「子どもに自分が抱いてもらいたい」と思う感情だけを抱いてもらいたい
と、思ってしまいがちなのです。
子どものためにお金を払って買う時間で、大人が満足するものは、
たいてい、
子どもが次のステージに進めるように
「最適な状態」に調理された体験です。
子どもの仕事は、魅力的にデコレーションされ、
食べやすく加工された料理を
「おいしい、おいしい」と口に運ぶだけです。
親は、効率的に栄養が取れているかチェックして、
体重計の目盛りを確認して、
その体験が、お金や親が子どもを連れて行くために使った時間や労働に見合っているか、考えをめぐらせます。
もし、もう少し、良い時間が買えるなら、
どちらを選んだ方が得か、検討するためです。
こうした時間は、子どもがより楽に、うれしそうでありながら、体重計の目盛りだけがアップするほど価値があります。
もちろん、上の話は例え話であって、
料理というのは、英語だったり、水泳だったり、プリントだったり、ピアノだったりします。
私は習い事の全てを皮肉っぽい目で眺めたり、批判する気はないのです。
でも、そうした「最適な状態に調理された体験」を消費主体の立場で
たくさん経験している子には、
共通する困った癖があることを危惧してはいます。
困った癖というのは、
「素のままの状態で、何かを体験することができない」ということなのです。
自分の体験していることから、
さまざまなグラディエーションで、
自分を成長させてくれる要素を引き出すことができなくなっている、
といったらよいのか……
子どもの「時間」に対する感性が変質しているのです。
とにかく最適に調理されて、「次にこれをすれば、こういうものが得られる」
という短期間の見通しが提示されているもの以外から、
いっさい学べないのです。
たとえば、子どもが、自分にとったら、かなり難しいと思われるものにチャレンジしたとします。
結果は「できなかった」で終わっても、
さまざまなグラディエーションで、
自分を成長させてくれる要素を引き出すことができる子は、
「今回は難しかったけど、次はできるようになりたい」と思ったり、
「どうやったらできるんだろう?」と何日も考えていたり、
「自分には難しいものもあるんだな」と自分の能力を把握したり、
自分ができることをできない友だちに対して理解を示したり、
「これからは年上の人の話をきちんと聞こう」と反省したり、
「自分には、知らないことやできないことが、まだまだたくさんある」と世界の広さを思い知ったり、
自分の立ち位置を確認して、自分のすべきことを俯瞰的に眺めたりと、
それは多種多様の感情や思いを体験から引き出すでしょう。
けれども、「素のままの状態で、何かを体験することができない」子は、
それができて評価されるか、できないかだけ認識して、
チャレンジしようともしないか、
チャレンジさせた相手が、自分にとって最適な形に調理していないことで
文句を言います。
確かに、お金を出して通信教材を取る場合も、習い事をする場合も、
やってできない場合、
クレームをつけてもいいのです。
自分は、もっと楽をしながら効率的に何か得られる別のものを
探しにいけばいいのですから。
素のままの素材に自分を投入して、
そこから自分の得られる何かを……
それが何であるかもわからない状態で、つかみとって返ってくるなんて、
思いもよらないのです。
素のままの素材に自分をどっぷりと投入できるなら、
道草を食っている時間も、
もう知っている内容の授業を受けている時間も、友だちとふざけているときも、マンガを読んでいるときも、ぼんやり考えごとをしているときも、
自分を成長させる何かをそこから引き出しているものです。
自分自身が何かしら変化し進歩しているのです。
そうした進歩は、知的ものだけではないでしょう。
精神的なタフさや豊かさといったものかもしれません。
私は「今や世界でもっとも勉強を嫌悪し、勉強しない子どもへと転落しています。」と表現されている日本の子どもの姿は、
知的な成長の欠如の問題ではなく、精神的な成長の停滞と大きく関わっているように感じています。
学習時間を増やすだけことだけが、この問題の解法ではないと思っているのです。
『アレクサンダー・テクニック』 小野ひとみ 春秋社
という心身のコントロール方法を扱った著書に次のような一文がありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
赤ちゃんがハイハイをして、やがてつかまり立ちをして、一人で歩けるようになって……という過程を見ていると、
自分の感覚だけをたよりに、試してみて、
自分の能力(たとえば「つかまれば立てる」)を発見している。
そうして発見したことが嬉しくて仕方がない。褒められるから
何かやっているわけではないのね。
自分の力を自分で発見して、そこから生まれる確信と喜びが
次の行動を呼んでいる。
自発的な学習とか成長というのはそういうものだと思うんです。
ところが大人になると、人から言われたことをなぞることが
学習だと思ってしまう。
自分の感覚を使って、自分で自分の能力を発見し、評価して次へ進む、ということがいつの間にかできなくなってしまう。
自分ではなく他人の評価で動かされるようになってしまうのね。
(『アレクサンダー・テクニック』 小野ひとみ 春秋社)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「人から言われたことをなぞることが
学習だと思ってしまう。」のは、大人だけではありません。
幼い頃から、そうした教育方法に染まっている子も、
自発的にどんな体験からも学び取ろうとする子どもの柔軟さを失いがちです。
また、親が消費主体として、
「あっちの方が得か損か」という視点で、
子どもの体験を選別していると、
子どもも消費主体としての見方を身に付けます。
すると、浅い表面的な進歩だけを続けながら、
本気を出して、自分をぶつけてみることを恐れるようになります。
「これ」と「あれ」を得て次のステージに進もうなどという
まるでバーチャル世界のゲーム内を移動するように
現実を生きるなら、
「これ」と「あれ」が与えられていない場所では、
テレビを見るか、受動的に携帯ゲームに興じるかして
時間つぶさないことには退屈に耐えられないでしょう。
「今、ここにある時間にどっぷりとつかる。
いつのまにか自動的にはじまる学びの世界に
自分を投じる。」
本来、それができるのが、「子ども」という存在です。
「子ども」が「子ども」でい続けることができるように、
大人は何をすればよいのでしょうか。
習い事や子ども向けのサービスがあたり前となった現代では、
たいていの方が身に覚えのあるものだと思います。
どうせお金を出して時間を買うのなら、
お金に見合うような
目で確かめられるような成果を得たいし、
子どもの喜ぶ姿を見たいし、
将来に役立たせたいし、
家ではできないような濃密な価値のある体験をしてほしいし、
親の自分が不快な気持ちは味わいたくない、
と考えますよね。
でも、注意が必要なのは、お金で買う「子どもの体験」が、
親の財布のひもをゆるめるほど「親の満足度」が高ければ高いほど、
「子どもの成長に必要な何か」を奪っている
場合もあることなのです。
お金を払っている時間に、
もし子どもが泣いてばかりだと、
親は気が気じゃありませんよね。
チャリンチャリン~とお金を溝に捨てているような気になるかもしれません。
お友だちとケンカばかりしていても、
性質の異なるお友だちに邪魔ばかりされていても、
他の子のように積極的に参加せずに、
ぼんやり見ている場合も、同様の気持ちになるでしょう。
お金で購入した時間には、
親は「自分が価値があると思うもの」だけで埋めたいし、
親は「子どもに自分が取ってほしいと思う態度」だけ取ってもらいたいし、
親が「子どもに自分が抱いてもらいたい」と思う感情だけを抱いてもらいたい
と、思ってしまいがちなのです。
子どものためにお金を払って買う時間で、大人が満足するものは、
たいてい、
子どもが次のステージに進めるように
「最適な状態」に調理された体験です。
子どもの仕事は、魅力的にデコレーションされ、
食べやすく加工された料理を
「おいしい、おいしい」と口に運ぶだけです。
親は、効率的に栄養が取れているかチェックして、
体重計の目盛りを確認して、
その体験が、お金や親が子どもを連れて行くために使った時間や労働に見合っているか、考えをめぐらせます。
もし、もう少し、良い時間が買えるなら、
どちらを選んだ方が得か、検討するためです。
こうした時間は、子どもがより楽に、うれしそうでありながら、体重計の目盛りだけがアップするほど価値があります。
もちろん、上の話は例え話であって、
料理というのは、英語だったり、水泳だったり、プリントだったり、ピアノだったりします。
私は習い事の全てを皮肉っぽい目で眺めたり、批判する気はないのです。
でも、そうした「最適な状態に調理された体験」を消費主体の立場で
たくさん経験している子には、
共通する困った癖があることを危惧してはいます。
困った癖というのは、
「素のままの状態で、何かを体験することができない」ということなのです。
自分の体験していることから、
さまざまなグラディエーションで、
自分を成長させてくれる要素を引き出すことができなくなっている、
といったらよいのか……
子どもの「時間」に対する感性が変質しているのです。
とにかく最適に調理されて、「次にこれをすれば、こういうものが得られる」
という短期間の見通しが提示されているもの以外から、
いっさい学べないのです。
たとえば、子どもが、自分にとったら、かなり難しいと思われるものにチャレンジしたとします。
結果は「できなかった」で終わっても、
さまざまなグラディエーションで、
自分を成長させてくれる要素を引き出すことができる子は、
「今回は難しかったけど、次はできるようになりたい」と思ったり、
「どうやったらできるんだろう?」と何日も考えていたり、
「自分には難しいものもあるんだな」と自分の能力を把握したり、
自分ができることをできない友だちに対して理解を示したり、
「これからは年上の人の話をきちんと聞こう」と反省したり、
「自分には、知らないことやできないことが、まだまだたくさんある」と世界の広さを思い知ったり、
自分の立ち位置を確認して、自分のすべきことを俯瞰的に眺めたりと、
それは多種多様の感情や思いを体験から引き出すでしょう。
けれども、「素のままの状態で、何かを体験することができない」子は、
それができて評価されるか、できないかだけ認識して、
チャレンジしようともしないか、
チャレンジさせた相手が、自分にとって最適な形に調理していないことで
文句を言います。
確かに、お金を出して通信教材を取る場合も、習い事をする場合も、
やってできない場合、
クレームをつけてもいいのです。
自分は、もっと楽をしながら効率的に何か得られる別のものを
探しにいけばいいのですから。
素のままの素材に自分を投入して、
そこから自分の得られる何かを……
それが何であるかもわからない状態で、つかみとって返ってくるなんて、
思いもよらないのです。
素のままの素材に自分をどっぷりと投入できるなら、
道草を食っている時間も、
もう知っている内容の授業を受けている時間も、友だちとふざけているときも、マンガを読んでいるときも、ぼんやり考えごとをしているときも、
自分を成長させる何かをそこから引き出しているものです。
自分自身が何かしら変化し進歩しているのです。
そうした進歩は、知的ものだけではないでしょう。
精神的なタフさや豊かさといったものかもしれません。
私は「今や世界でもっとも勉強を嫌悪し、勉強しない子どもへと転落しています。」と表現されている日本の子どもの姿は、
知的な成長の欠如の問題ではなく、精神的な成長の停滞と大きく関わっているように感じています。
学習時間を増やすだけことだけが、この問題の解法ではないと思っているのです。
『アレクサンダー・テクニック』 小野ひとみ 春秋社
という心身のコントロール方法を扱った著書に次のような一文がありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
赤ちゃんがハイハイをして、やがてつかまり立ちをして、一人で歩けるようになって……という過程を見ていると、
自分の感覚だけをたよりに、試してみて、
自分の能力(たとえば「つかまれば立てる」)を発見している。
そうして発見したことが嬉しくて仕方がない。褒められるから
何かやっているわけではないのね。
自分の力を自分で発見して、そこから生まれる確信と喜びが
次の行動を呼んでいる。
自発的な学習とか成長というのはそういうものだと思うんです。
ところが大人になると、人から言われたことをなぞることが
学習だと思ってしまう。
自分の感覚を使って、自分で自分の能力を発見し、評価して次へ進む、ということがいつの間にかできなくなってしまう。
自分ではなく他人の評価で動かされるようになってしまうのね。
(『アレクサンダー・テクニック』 小野ひとみ 春秋社)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「人から言われたことをなぞることが
学習だと思ってしまう。」のは、大人だけではありません。
幼い頃から、そうした教育方法に染まっている子も、
自発的にどんな体験からも学び取ろうとする子どもの柔軟さを失いがちです。
また、親が消費主体として、
「あっちの方が得か損か」という視点で、
子どもの体験を選別していると、
子どもも消費主体としての見方を身に付けます。
すると、浅い表面的な進歩だけを続けながら、
本気を出して、自分をぶつけてみることを恐れるようになります。
「これ」と「あれ」を得て次のステージに進もうなどという
まるでバーチャル世界のゲーム内を移動するように
現実を生きるなら、
「これ」と「あれ」が与えられていない場所では、
テレビを見るか、受動的に携帯ゲームに興じるかして
時間つぶさないことには退屈に耐えられないでしょう。
「今、ここにある時間にどっぷりとつかる。
いつのまにか自動的にはじまる学びの世界に
自分を投じる。」
本来、それができるのが、「子ども」という存在です。
「子ども」が「子ども」でい続けることができるように、
大人は何をすればよいのでしょうか。
と見えてきました。みな、親が「遅れをとらないように」
との一心で色々習い事をさせているので、何だか生活全
てがが「時間つぶし」になっているようで、ちょっと恐
いです。ベルトコンベアーに乗って、毎日を自動的に過
ごしているような感じです。
おまけに宿題も、ひらがなと数の塗り絵ばかり。まあ字
をきちんと書くことはある程度大切にしても、数の塗り
絵なんて一度わかればもういいじゃん、と思います。こ
んなのだったら、骨のある文章題を一問だけする方が
よっぽどいいのに、と、その時間を捻出すべく、塗り絵
を手伝ったりしています。
今大学で教えていて、「鉛筆の持ち方はめちゃくちゃな
わりに字はキレイ」「文章は下手」「全て受け身であま
り生命力を感じない」という学生さんたちがどんどん増
えているような気がしていたのですが、その元凶はこう
いう小学校生活にあるのでは、と思っています。
子ども自身が自分で伸びて行けるように、「子どもの心
の欲するところにとことんつきあう」ことを心がけつつ、日々を過ごして行けたら、と思います。
子供にとってよかれと思ってさせていることが、結局は子供の意思、想像力をうばう結果になってしまうのですね。まさに今迷っていることがストーンと響いてきて、よい気づきをいただき、先生のblogには本当に感謝です。夏のユースもとっても楽しそうですね。仕事をしておりますので泊りではなかなかむつかしいので、また日帰りレッスンの企画があればぜひ楽しみにしています。
上のすっとびとびすけさんのコメントも大変共感できます。最近の学生さんたち、私も同じように感じます。やはり生命力が強いと申しますか、バイタリティがあられる方の子供時代を聞くとみなさん口をそろえて「野山でかけまわっていた」とおっしゃっているのも納得です。
だれとどこで遊ぼうかな。ああしようかな。こうしようかな。これじゃうまくいかないな。
いっぱい考え、友達と相談して、決断しています。これはきっと習い事では習得できないとっても大切なものだと思っています。
これからの時代、勉強ができることも必要なのかもしれませんが、幸せに生きていく力、逞しさが重要になってくるように思います。
一流大学をでても、楽しくない人生じゃ意味がありませんよね。
子どもの自由な時間を確保することが大切なんじゃないのかな~と思います。
大人の私がその体験をもっとしていこうと最近いろいろ出かけています。
最近小学生の親向けの掲示板や教育雑誌に感じていたなんともいえない違和感が、「お金」を「時間」で買うという感覚だったのかなと思いました。私立の中学を選ぶ際に「東大合格率」で選ぶというのはまさにこの感覚から来るものでしょうね。「東大合格率の高い学校」に合格率の高い塾を探すのは、私立中学入学を希望する一部の親にとっては大命題になっているようです。
もちろん、こういう風潮が良いとは思いません。子供はできるだけ沢山お友達と遊ばせてあげたいとも思います。しかし現実はそんなに単純ではありません。私は神奈川に住んでいますが、神奈川の公立高校の入試はそのほとんどが先生の主観を含む内申で決まります。でも目の前の公立小学校の現状を見て、その子達が進む中学の内申で高校が決まる現状を考えると中学受験を考えざるを得ないのです。それは現場の先生方の努力ではどうにもならない問題だからです。そして中学入試を考えるということは、小学校生活後半の大部分の時間をそれに費やすということでもあります。時間にせよお金にせよ、その労力があまりにも大きいために、つい「対費用効果」を追求したくなる気持はとても理解できます。
更にその労力を少しでも楽にできたらと「早くからのスタート」を考える親もいます。一部は小学校入試に走り、他の多くは低学年でどのように過ごせば受験勉強を効率的にこなせるかを考えます。全ては子供を思うがためです。そして沢山の情報に流され、気がつくと子供を追い詰めているのです。追い詰められているのは子供だけではありません、親もまた「子供から大切な時間を奪っているのではないか」という自責の念にかられています。自分のやっていることが間違いだとは思いたくなくて、過剰防衛に走りやたら攻撃的になる親もいます。
当事者以外がそんな親の姿をみて「子供にとって何が本当に大切なのかわかっていない」と批難することは簡単です。でも批難している人間も、批難されている人間も「子供を思っている」気持自体は実はそれほど違うわけではないのです。実際、小学校時代にそういって受験する親を批難していた人から、公立中→高と進むにつれ「あの時多少無理させても受験させておけば」と後悔している声をよく聞きます。子供の教育を真剣に考えれば考えるほど、公の教育に任せておけない、と思うようです。今は親が何も考えずに地域の学校に任せておけば自分の子供の頃と同じように子供が育つ時代ではなくなってしまっています。そうしてなるべく子供をよく育てよう、親が賢くなろうと考え勉強したあげく、方法論に偏ってしまい、結局は子供を傷つけたりするのです。だからこそこの問題は根が深いのではないでしょうか。
教育にお金をかけることを全て否定するのも何か違うように感じます。稽古事にしろ塾にしろ、上手く嵌れば学校以上に子供に多くの気づきを与えてくれる場所になるからです。子供が、親と学校の先生以外の大人に触れるのも大切な経験ではないでしょうか。少なくともうちの小学生の娘は、お稽古事で精神的に大きく成長しています。
だからこそ「子供を追い詰める親」と「子供を成長させられる親」の違いが知りたいと思います。それは単に中学受験をするとかしないとか、勉強時間を何時間とるとかの問題だけではないはずだと思うからです。
それでも中学受験を選択した時点で、子供から何かを奪うことになってしまう。親として、とても苦しいです。