虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

子育てで気をつけていたこと

2018-12-24 17:52:49 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

 

私のかなり手抜きでおっちょこちょいな子育ての中で、

大事にしていたことが2つあります。

子どもが大きくなるにつれて、その2つに注意していれば、子育てって、

あとは何とかつじつまがあってくるんだな~と感じることが多々ありました。



<1つめのことと長い前置き>

私はずいぶん幼いころから、表面的な出来事や人の言動の背後にある

目には見えない力関係やエネルギーの流れを敏感に意識していました。

無意識の世界のやりとりのようなものです。

それは、父と自分との間にある奇妙な力関係から気づいたことでもあるし、

妹と母との間で、日夜繰り返されるドラマを外から眺めるうちに

感じたことでもあります。

また団地暮らしという環境ゆえに敏感になったものでもあります。

私の父は、これまでもブログで何度か書いていますが、子煩悩だけれど、

粗暴でわがままで、母からすれば今でいうDV夫。

ギャンブル中毒で、周囲のだれからも恐れられていました。

スポーツや肉体労働で鍛えあげた巨体で、女子どもに暴力を振るうんですから、

ひと睨みされたら最後、誰も父に反抗できる人はいませんでした。

一方、私は喘息や鼻炎や起立性の低血圧やら貧血やらで、身体が弱く(そんな私も

当時は毎日外遊びをしていましたが)内向的で引っ込み思案な性格で、

とにかくひ弱な印象の子どもでした。

それにもかかわらず、私は父をちょっと小ばかにしていて、

「お父さんは私のことを怖れてる。私が怖いんだ」と感じていました。

DVの人というのは、暴力を振るっていないときは、

ベタベタと優しくする~って話をよく聞きますよね。

私の父も同じく、激怒していないときは、何か買ってくれようとしたり、

お小遣いをあげようと言ったり、子煩悩そのものの姿を見せたりしていました。

妹やいとこは、父に当時はまだめずらしいドーナツ屋さんやレストランに連れて

行ってもらったり、おもちゃを買ってもらったり、お小遣いをもらったりすると、

もう目の色が変わって、父の思うままになっていました。

父がお店の近くまで子どもたちを連れて行きながら、急に気が変わったからと

帰りはじめたりすると、半泣きになってすがって、父の機嫌を取っていました。

私は父がそうやって人の心をコントロールしようとするやり口を軽蔑していましたし、

もともと、外食にもおもちゃにもお金にも興味がなかったので、

そうしたドラマの中ではいつも部外者でした。

すると、父は今度は私に嫌がらせを言ったり、にらみつけたり、

げんこつでこづいたりするのですが、それに対してもお腹の中で、

そうした父の幼稚さをちょっと小ばかにしているもんですから、

怖がりもしませんでした。

そんな私を父がどこかで恐れている、怖がっているというのは、

妹や母には遠慮のない父が、私の前では途方にくれた小さな子どものようにも、

老いた老人のようにも見える弱々しい一面を時々見せていたからです。

私は、相手が自分の前に釣らすエサに無関心だというだけで、

それがかなり大きな力になりうることを感じ取りました。

また、表面的に言葉でかわされたり、目で見える出来事の後ろには、

いろんな力がうごめいていて、さまざまな見えない力関係が

成り立っているのだと思いました。

 

虹色教室にやんちゃですぐ口答えする子が来た場合も、

私はすぐさまその子たちが私を巻き込みたいと思っている『力のゲーム』を

行えない状態にするので、

わがままが癖になっている子ほど、素直に私の言葉に従いがちです。

「ぼく誰々君いじめてやったんだ!」とか「~しんじゃえ」「つまんない」とか

言う子に、ショックを受けたり、言葉でわからせようとしたり、悪い子と決め付ける

態度を取ったりすると、たちまち、その子の力争いのゲームに巻き込まれて、

過去にその子が周囲の人と演じてきた悪い関係やドラマを繰り返してしまいます。

そうした言葉は跳ね返さずにきちんと受け取って、こちらから伝えたいことを

はっきり言うと、子どもはたいてい素直に従います。

それがその子お母さんとの間だと、お母さんが注意し、困惑するほど、

子どもは言うことを聞かなくて、好き放題するという繰り返しが続いていることが

多いのです。

 

私の母と妹の関係もそうでした。表面的なやり取りは、妹からのおもちゃを買って

欲しいとか、もっとテレビが見たいとか、母からのそんな贅沢許しませんとか、

テレビは一日○時間まで、とかの言い合いなんですが、

お互いの言葉が相手の気持ちを鎮める方向に働かず、

妹の方は、むしろいっそう気持ちが高ぶって、テレビが見れないんだったら、

すべて終わりだ、何もかもめちゃくちゃにしてやるくらいの勢いになっていくし、

母は母で、どうしてこんな子産んだんだろう~こんな子いらない~

思いきりおしりをたたいて思い知らせてあげなくては……

くらいの追い詰められた気分になっていくんです。

そこまで激しくやりあっているものが、『魔法使いサリーちゃん』ならまだしも、

『デビルマン』ですから……私は母と妹の気が知れませんでした。

そこは、テレビ番組じゃなくて、レストランでもなくて、

目には見えないけれど、お互いが相手を自分のものにしたいというような

力のぶつかり合い、エネルギーのやりとりが背後にはある—。

子どもの頃はそれを言葉にできたわけではないけれど、雰囲気で感じていました。

目に見えない力関係とかエネルギーとか無意識というと、

何だかもやもやと捉えにくい感じがするでしょうね。

テレビやインターネットや宣伝広告があたり前となった現代は、

こうした目には見えない力やエネルギーが乱用されている時代です。

人工的でクリーンで無害そうに見える場所にも、操る側の意図があって、

無意識レベルで操られる側のひとりへと仕立てあげられてしまう

仕組みがいっぱいです。

 

無意識というのは意識されないから無意識です。

テレビで自分よりずっと立派に見えるタレントたちが、口をそろえて、

出された食べ物に「おいしい~!」と笑みを浮かべるのを見続ければ、

自分の味覚と関係なく、みんながおいしい~と言うときには、

「おいしい~」と言うべきなんだな~と知らないうちに学習してしまいます。

食品会社の思惑で、食品添加物いっぱいの新製品を

「おいしい~おいしい~」と食べさせられてしまうくらいはかわいいもので、

しまいには政治や戦争への参加、不参加を決めるような大きな決断をくだす際も、

自分がお留守のまま反射的にみんなに合わせる人が増えていくのかもしれません。

 

話がずいぶんそれてしまったのですが、子育ての話にもどりますね。

大人の場合、自分が感じていることを無視して、操る側や力を乱用している側に

同調する悪い癖がつく程度ですむものの、

子どもの場合、操る側や力を乱用している側が期待していることが、

自分が楽しいことなんだ、うれしいことなんだ、欲していることなんだ~と

間違っちゃうこともよくあります。

そうして子ども時代から自分がスカスカのまま、周囲の思いを自分の思いと

勘違いして育ってしまった子の犯罪や自殺や心の病があとを絶ちません。

だから私は、わが子が何ができるようになったかとか、何ができないかとか、

先生からどう評価されているかとか、

何を食べ、何を着て、どんな家に住んで、どんな学校に通うのか、

なんてことは、ほとんど気にかけませんが、自分の心には細心の注意を

払っています。

エゴに絡め取られて、間違った判断を下さないように、

時々周囲のノイズから離れて、なるべくクリーンな状態を保つように

気をつけています。

それはけっしていつも良い人、良い親でいることではないです。

良い人、良い親であろうという思いだって惰性で仮面のように貼り付けていれば、

叱るときに叱れないし、

ルーズなくらいでいいときにやりすぎてしまいますから……。

ある程度ダメな親でも、子どもの人格や魂に対して、純粋で正直な気持ちで

向き合えたなら、子どもはとても幸せなんだと思うのです。

私も子どもの頃、最も幸せに感じたのは、母が自分の好きな針仕事に夢中になって、

母自身の夢を生きているのを感じるときでした。そうしたときは、私は私で、

自分にとって大事な何かを探しに行きたい気持ちに駆られるのです。

 

しかし、母が果たせなかった自分の夢を私の上にかぶせて

あれこれ期待するときには、心が萎縮し、

この世は何て退屈でつまらないところだろう!と感じていました。

そんなわけで、私が子育てで、気をつけてきたことのひとつは、

自分の心に注意する、です。子どものことで問題にぶつかった時には、

必ず、子ども時代の自分(インナーチャイルド)の気持ちに

おうかがいを立てています。

どんな親であってほしかったのか、子ども時代の私は今の私に訴えます。

すべてを呑むわけにはいかないけれど、正直に対応するわ……と、

現代の私はインナーチャイルドと会話しています。

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<2つめのこと>

私の母は、私が何を言っても、何をしても、良いように解釈して、

ひたすらかわいがってくれました。

ですから、私には母から叱られたリ、注意を受けたという記憶が

皆無といっていいほどありません。

そんな風に猫かわいがりに愛してくれる母に対して、

私はいつも複雑な気持ちを抱いていました。

というのも、私のふたつ年下の妹は、それはそれは極端なほどに、

朝から晩まで叱られ通し~と言っていいほど、

毎日毎日、母とぶつかり合っていたのです。

それは妹がまだ赤ちゃんで、昼夜を問わず一日中わめくように

泣き続けていたころからはじまって、

2~3歳の反抗期も、幼稚園児、小学生、中学生となっても、

どの時期として落ち着いた良い関係というのはなくて、

いつも母と揉めていたからです。

ですから、私は母から特別にひいきにされる度に、胸が苦しくて、

うれしさと同じくらいさみしく悲しい気持ちを感じていたのです。

母にすれば、内気で、けっして反抗しない私の態度に、

自分が良い母であるという証明や癒しを求めていたのかもしれません。

私をひたすらかわいがることで、理想どおりいかない妹の子育てを頭から抹消して

理想の子育てを自分はしているのだと思い込みたいようなふしがありました。

母は、おとなしくてまじめで気が優しい性格で、良い子良い子した子どもが

そのまんま正直で純真な心のままで大人になったような人でした。

そんな母が父のような荒っぽいギャンブル漬けの人と結婚したのですから、

それまでの成長の中でどれほどバランス悪く

『良い人』としてしか生きてこなかったのかわかります。

母は自分の中に『悪い人』をほんの少し受け入れることさえ拒絶して、

自分の人生のバランスを取るように『悪い人』を

自分の代わりにすべて引き受けて生きてくれる父と結婚しました。

そうして生まれた長女の私には、自分の『良い人』のイメージをかぶせ、

父似の妹には、自分の中の『悪いもの』をすべて押し付けて見ていました。

そんな子ども時代の暮らしの中で、

私はいつも変わらぬ愛情を降り注いでくれた母に対し、

どこか屈折した思いを抱いていて、母の死に際に私が間に合わず、

妹が心を振り絞るように泣きながら最後を看取った事実に、

なぜか、ほっとする気持ちを抱いたのです。

私が母に屈折した思いを抱いていたというのは、母はとにかく優しい人では

あるけれど、周囲に可愛がられて育った未熟で弱さも残った性格で、

普段はとても優しくて、食事のことでも、服のことでも、

習い事や友だちのことでもそれは気を配ってくれるというのに、

肝心かなめの、子どもが大きな問題にぶつかったようなときには、

自分が一番パニックを起していて全然頼りにならなかったことでした。

中学に上った妹がたびたび問題を起したときには、

教師や相手側の言うことを鵜呑みにして、簡単に妹の気持ちを踏みにじったり、

裏切ったりする一面もありました。

それで、私は自分が子どもを育てるときには、大きな問題が起こったときこそ、

しっかりと親になろう!誓いました。

いつ自殺するかもしれない母をなだめたりはげましたり、

母に向かって妹の良い面を話して聞かせたりしながら過した思春期に

強く強く覚悟した言葉でした。

そうして、親になった私は、普段はかなり手抜きだけれど、

肝心の子育ての急所には、自分の精神力の全てを振り絞って、

覚悟して挑むようにしています。

受験なんかでも、子どもがうまくいかなかったときに、親まで泣いていたのでは、

子どもは苦しみから立ち直るだけでなく、

親の不安まで背負い込まなくちゃなりませんから……

そうした時ほどけろっとしています。

だからいつもは適当な親なんですが、こうした本当に子どもがSOSのときは、

子どもたちがしっかり頼りにしてくれるので、うれしく感じています。


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