言葉だけに注目すれば、口を開けば「イヤ」ばかり言っている◎ちゃんの荒れが、きちんとお母さんに対して「イヤ」が言えていないことに原因のひとつがある、なんて奇妙に聞こえたかもしれませんね。
なぜそんなことを感じたのかというと、◎ちゃんのお母さんが◎ちゃんの前に置いた朝食の量にしろ、食べるようにうながしている物の量にしても、どう見ても食欲がない◎ちゃんの表情とあまりに対照的だったからです。
「◎ちゃんの食欲」や「どれくらい食べられそうか」という現実は無視して、とにかく「少しでもたくさん栄養のあるものを食べてもらいたい」というお母さんの思いばかりが、迫ってくるような食事風景ではあったのです。
◎ちゃんの食の細さを思えば、見るだけでげんなりするほどの量を手前に置かずに、◎ちゃん用の取り皿に一口か二口で食べられそうな量を盛るので十分なのかもしれません。
そして◎ちゃんの「おいしい」「これもっとちょうだい」という意思表示に合わせて、「いっぱい食べてえらいね」「もう全部食べちゃったの?えっ、そんなに食べられるの?すごいね」と食に対するイメージを高めるような声かけをしながら、おかわりさせてあげるくらいでちょうどいいのでしょう。
また「お母さん食べさせて」と言いながらかんしゃくを起こして、わがまま放題に振舞うようなら、その時は、「一食くらい抜いても死にはしないから」と覚悟して、
機嫌を取ったり、大人が口に運んだりしてでも、食べさせよう食べさせようと躍起になるのはやめた方がいいように思いました。
◎ちゃんのお母さんは、3食ともバランスよく栄養が取れるように、毎朝5時起きで、◎ちゃん用の食事を用意しているというお話でした。
そうしておけば、外出することがあっても、お昼をフランチャイズですませるようなことはありませんから。
確かにバランスのいい食事は大事です。
でも栄養がいくら足りても、◎ちゃんには食事を「楽しい!おいしい!」と感じる気持ちが不足しているのです。
もう少し手抜きをして、たまの朝昼には「おにぎりだけ、パンだけ」「今日は外食」なんて日があってもいいから、食事時間を『親子の苦行』にしてしまってはいけないと感じました。
◎ちゃんのお母さんは、◎ちゃんが可愛くてたまりません。
四六時中、◎ちゃんのことを考え、◎ちゃんのために奔走しています。
◎ちゃんは1歳の頃からバイオリンを習っているそうです。
幼児に対しても厳しい先生で、毎日、必ず2~3時間の練習時間を持つように、朝食が終わったらハミガキをするようにバイオリンの弦を手にするように指導されているそうです。
バイオリンの先生から出る宿題の量があまりに多いので、◎ちゃんのお母さんもお父さんもお祖母ちゃんも、心を鬼にして厳しく訓練を施しているそうです。
◎ちゃんはバイオリン教室でこそ「弾かない」とがんばっているそうですが、お家ではバイオリンを演奏するのを喜んでいるようで、音楽が好きなことがよくわかるそうです。
◎ちゃんは絵も習っていて、教室では勝手に振舞っているようですが、絵の具に触れるのを喜んではいるようです。
◎ちゃんのバイオリンの話をうかがって、わたしはちょっとショックを受けてしまいました。
1歳から楽器に触れさせるのが良いか悪いかは別にして、◎ちゃんという「人に対する警戒心や不信感が強くて、お母さんへの愛着も4歳の今になってようやく少しずつついてきたかなと思われる子」と
「まだオムツをしているような年齢の子らにも毎日2,3時間の楽器の練習を強要するような音楽教師」が合うわけがないことは、考えてみるまでもなく明らかでしたから。
食欲がない◎ちゃんの前にドンと置かれた山盛りの朝食と同じように、まだ何が好きか、何をしたいのかもわからない◎ちゃん、
同い年のお友だちに近づくことすら怯えている◎ちゃんという小さな子の前に、大人たちの期待や願望が、てんこ盛りによそわれている様子が目に浮かびました。
大人の目から見て、「問題だな」「困ったな」という態度を示す子への見方が、この数年の間にわたしのなかでずいぶん変化してきました。
そうした子らをよく観察していると、周囲から「悪い子」「困った子」と思われている子ほど、当然のように自分を主張してもいい場面で我慢を重ねていたり、「イヤ」と言ってもいい時に「イヤ」と言えてなかったりするのです。
たいてい「困ったちゃん」として扱われている子は、困ったちゃんモードが全開となって、周囲を辟易させるような場面でだけ
周りの注目を集めていて、そうでない時にはあまり関心を払われていないことがよくあります。
そこで困った言動をアウトプットしているシーンにフォーカスするのをやめてその子が何も問題を起こしていないシーンに注目してみると、「こういう子」と思われているその子像とは真逆の一面が見えてきます。
それが先に書いた
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当然のように自分を主張してもいい場面で我慢を重ねていたり、
「イヤ」と言ってもいい時に「イヤ」と言えてなかったりする
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ということなのですが、それにこちらが気づいて、ネガティブなことも含めて、自分の気持ちを素直に表現してもそれを評価されたり、否定されたりしないで、そのまんまありのままで受け入れてもらえるような体験を積むと、「そんなことで?」と驚くほどウソのように問題行動が消えていくことはよくあるのです。
完全に消えることはなくても、目立たないものにはなっていきます。
変な例ですが小さな弱い犬ほど、ギャンギャン吠えるのを知っていますよね。
小型犬が攻撃性をむき出しにして吠えるのと同様に、自分を守る術のない、弱い立場にある子ほど横柄な態度で毒づいたり、攻撃的な態度を示したり、相手を無視してかかったりしがちなのです。
以前、「口答えが多く、することなすこと反抗的で、何ひとつ言う事はきかないし、わがままで自己中心的で勉強しない困った子です」と親御さんが語彙を強めておっしゃる中学生の男の子と、小学校高学年の女の子に、それぞれ別の日に会ったことがあります。
その子らが教室に親御さんといっしょに入ってきた時点で、年のわりにずいぶん従順な子だな、と驚いてしまいました。
なぜなら、うちの子らがそのくらいの年齢だったときには、どんなにうまいこと誘おうと、厳しく言おうと、「いい、行かない」とさっぱりと宣言して親に付いてくるとは到底考えられなかったからです。
親御さんに連れてこられた子たちは、どちらもムスッとして横柄な態度を取っていましたが、そうした態度で自分の身を守らずにはおれないような、素直すぎたり従順すぎたりする面がちらほら顔を覗かせていました。
「素直すぎ従順すぎ」という事場は適切ではないかもしれません。
自分に降りかかってくる「しつけたいことや教育したいこと」という親や外の世界に反発していても、身体が求める要求世界である「自我」が強いわけではなく、それもあいまいで希薄なのです。
自分が何を求めていて、どうしたいのか、どうありたいのか、何がいやなのか、そういう自分の根っこの部分への親御さんの侵入を簡単に許してしまうようなところが感じられたのです。