夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

秋田連続児童殺害事件に判決の難しさを見る

2009年04月10日 | Weblog
 秋田連続児童殺害事件の畠山被告が仙台高裁の無期懲役判決を不服として上告した。私は前回、死刑で当然だと書いた。死刑にしなかったのは、裁判官が「初犯である、計画性が無い」などの理由を重く見たからだ。しかしそうした理由の内には、生きて償うとか、更生の道が残されているとの判断もあったはずである。何しろ、十数年経てば、無期懲役でも仮出所が認められる。いくら慎重に判断せよ、との意見を付け加えていたって、その時になれば、どう判断されるか保証は無い。
 そして仙台高裁の裁判官の判断は確実に間違っていた事が判明した。被告は「無期は一番嫌」と言っている。「いつまで我慢すればいいか分からないから」がその理由である。ふざけんな。我慢が何年かで済むと思っている。あんたはね、生涯我慢をし続ける必要があるのだよ。我慢したくなければ、死刑判決を受け入れるしか無いじゃないか。殺された二人の子供は永遠に我慢をし続けているのである。
 我慢しなければならない期間が分からないのは嫌だ、との発言から明瞭に分かるように、被告はある期間我慢すれば、それで済むのだと考えている。無期懲役にしたって、刑期が定まっていないだけだ、と被告が考えているのは明らかだ。終身刑に近いなどとは思っていもいない。そしてそれは日本人の大方の考えでもある。第一、肝心の裁判官自身がそう考えている。

 検察は「適法な上告理由が無い」と上告を断念しているから、死刑判決の出る可能性は無い。結局、被告の有利に事が運んでいる。弁護士はどんな弁護を展開するのだろうか。いつも思うのだが、こうした被告の弁護をするのは弁護士としてもさぞかし嫌だろう。誰が考えても被告に正当な理由などあり得ない。そこの所を法律の穴を見付けて有利に事を運ぼうと言うのだから、道義的にはとても納得の行く事ではない。ただ、法律の面だけで見れば、有利に運べる機会は無いとは言えない。そこに有能な弁護士の出番がある。
 そうは言っても、あの山口県光市の母子殺害事件で見たように、大弁護団を結成して、母親に甘える気持で強姦し、手が滑って殺害してしまった、そして娘はうっかりと取り落としてしまった、などと荒唐無稽な嘘っぱちを堂々と主張する弁護士も居るのだから、そうそう信用は出来ない。

 仙台高裁の裁判官は、これでも畠山被告に改悛の心があると認められると言うのだろうか。被告は無期懲役の事を考えると心が壊れそうだ、と言ったそうだ。その理由が「知らない人との労役の共同作業や、新しい場所に行くことが怖い。長い懲役は耐えられない」なのである。「長い懲役」を「長い入院」とか「長い別居生活」とかに言い換えてみれば分かるが、単なる未発達の子供である。この被告はこれからも発達出来る可能性は無いだろう。
 裁判官はそんな被告の心情も分からなかったのである。よく、「人を裁くのではなく、罪を裁くのだ」と言う。そうした考え方が、このような冷酷無比で、しかも自分の勝手しか考えていないような人間を優遇してしまう事になる。罪が人間から独立して独り立ちしているはずが無いではないか。人間が罪を犯すのである。
 人間なんてそんなに簡単に変われる物じゃない。この被告のように、犯行時そのままの状態がずっと続く事も考えるべきである。この裁判官は罪を見る事は出来たが、人間を見る事が出来なかった。私はそう考えている。まあ、裁判官だけを責める事は気の毒な面もある。上級審の判断に逆らえば、左遷はあっても栄進は絶対に無いと言うのだから。
 だが、裁判官とはもっとずっと高邁な仕事のはずである。役人根性、サラリーマン根性の裁判官なら要らない。