夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

言葉の解説をするなら正確にせよ

2009年04月18日 | Weblog
 今日、東京新聞の「読者応答室」での説明(17日付け)を批判している。これは普通の記事とは違い、新聞社の「見識」がそのまま出ているはずである。だから私は問題にした。そして再び同紙の「コトバ 言葉」と題するコラム(18日付け)について言いたい事がある。このコラムの事は前にも書いた。そしてこれまた新聞社の見識の発露である。今回は「打てなさすぎ」である。本来は「打てなすぎ」で良い、とコラムも言う。しかし過去の記事を調べると、「打てなさすぎる」の方が圧倒的に多いのには驚かされた、とも言う。
 そして、記事の説明は次のようだ。
 「文法的には〈知識がなさすぎる〉のように、形容詞〈ない〉には〈~なさすぎる〉で、助動詞〈ない〉の語幹に〈すぎる〉がつくときは、〈~なすぎる〉となるようです。詳しい話は別として(以下省略)」

 この説明であなたは納得出来ますか?
 形容詞の「ない」と助動詞の「ない」があるなんて、知っていましたか? 大体、「ある。ない」と言うが、この「ある」は動詞で「ない」は形容詞だなんて事すら知らないはずだ。私だって以前は知らなかった。形容詞の場合に「なさすぎる」になり、助動詞の場合には「なすぎる」となる事自体、そんな文法的な事を考えているはずも無いのだから、簡単には納得する訳には行かないのである。それなのに、「となるようです。詳しい話は別として」なら、このコラムのもう一つのタイトル「知っている? 知りたい」の名前を無視している事になる。そんな事なら名前を変えるべきである。「知っている? 実は私も知らない」とでもするしか無い。「知りたい」は一体、どこに行ってしまったのか。

 私見だが、形容詞の「ない」は前の言葉と結び付いてはいない。「知識がなさすぎる」の「知識が」は別に「ない」とは結び付いてはいない。「知識が」と「ない」の間に「さ」や「ね」などが入っても大丈夫。しかし、「打てない」では「打て」と「ない」の間には何者も侵入出来ない。これは完全に「打て」と「ない」が結び付いているのである。「打つ」に「ない」がくっつくために「打て」と語尾変化したに過ぎない。
 こうした事を頭に入れておいて、次に別の事を考えてみる。
 形容詞「ない」と似た言葉はあまり無い。色々と考えて思い付いたのが「良い」と「濃い」の二つだけ。これを「そう」と「すぎる」で考える。
・濃い
 こそう
 こすぎる
・良い
 よさそう
 よすぎる

 「そう」にしても「すぎる」にしても形容詞の語幹に付く。「濃い」の語幹は「こ」、「良い」の語幹は「よ」である。我々は「かろ/かつ・く/い/い/けれ」の活用を習った。だから「良そうだ」にはなるが、「良いそうだ」にはならない事は理屈ではなく、分かっている。しかし、「こそうだ」は別として、「良そうだ」はいかにも分かりにくい言葉になる。だからと言って「良いそうだ」には出来ない。
 「良い」の派生語で「良さ」がある。「良さ」は多くの辞書が載せていない。単に「良い」の派生語として「良がる」「良げ」「良さ」があると言うだけである。この名詞の「良さ」が「良い」の語幹として代理を務めるようになったのではないか。これなら良く分かる。「濃い・薄い」に比べて、「良い・悪い」はしょっちゅう使われる。で、「良さそう」は慣習となって定着した。「無い」も恐らくは、そうした理由で「なさそうだ」になったのではないか、と私は考えている。
 この「なさすぎ」が「打てない」にもしゃしゃり出て来る。「打てなすぎる」ではなく「打てなさすぎる」になる。それは単に「なさすぎる」に引っ張られた結果であり、言葉を知らないだけの話なのだが、それで通ってしまう。
 そして私はこのコラムの結論がまた分からないのである。
 「実際にそう言っている場合、直しづらいとは思いますがそれだけでしょうか。文法を超える「時代」を反映した表現といえるかもしれません」
 つまり、こうした表現は文法に囚われず、時代に忠実な表現だ、と言っている事になる。えっ? 「時代」ってそうしたもんですか? 正確に言えば、「単なる間違い」でしょうが。「間違い」を「時代」と言い換える事によって、このコラムは「打てなさすぎる」を容認した事になる。本当にそれで良いとコラムは考えているのだろうか。

 はっきり言う。このコラムはなぜ「知識がなさすぎる」になるのか、その理由が分からないのである。分からないから、それが「打てなさすぎる」を認めさせる結果になる事に対して批判が出来ないのである。そしてそれを「時代」のせいにして逃げている。上に私は「私見」と断っている。でもそうでも考えないと、「なさすぎる」と「打てなすぎる」の存在理由が分からないのである。



新聞の面白い論理を御紹介しよう

2009年04月18日 | Weblog
 世界でも有名な「秋葉原」。「あきはばら」と読む。しかし「あきばはら」の読み方も出来る。だからか、東京新聞の「読者応答室」にどちらが正しいのか、との質問とその回答が載った。
 回答では地名の由来は火災を防ぐ御利益のある「秋葉神社」を祀った事に始まると正しい説明をしている。これは「あきば」神社である。従って、その周囲を地元の人々は「あきばがはら」「あきばっぱら」と呼んだ。これは東京の歴史の本には必ず出て来る話である。

 そしてこの地に鉄道の駅が出来た時、駅名を「あきはばら」としてしまった。鉄道の駅名と言う物は結構鉄道側の勝手が横行している場合がある。例えば同じく東京の西武鉄道の「江古田駅」。これは地元の人々は「えごた」と呼んでいる。私は長い事、江古田と関連のある暮らしをしていたから知っているが、誰一人として「えこだ」などと言う人は居なかった。しかし駅名は「えこだ」なのである。どちらが正しいのか。もちろん地元の「えごた」が正しい。
 これは「えごの木の田」の意味である。「えごのき」はかつては武蔵野の特有な木の一つであった。「えご」と言うのは果皮が有毒で喉を刺激し、「えぐい」のでその名があると言われている。物の名前とはそうして付くのだから納得が行く。
 これもまた、鉄道側が勝手に駅名を付けたのである。何でそんな馬鹿な事が出来るのか想像も付かないが、現実はそうなのだ。そして同じ事が「あきはぱら駅」なのである。

 「あきはぱら」はそれで定着しているから、今更、正しい「あきばはら」が通用するはずも無い。本項のタイトルを「面白い論理」としているのは、記事の締めくくりが次のようになっているからだ。
 「地名の由来のほか、秋葉原をアキバと略すことも定着していることから、今でも「あきばはら」と読む人も多いようです」

 でも、そんな事は無いだろう。地名の由来を知っている人など本当に少ないはずだし、由来を知っているからと言って、「あきばはら」になる道理が無い。由来を云々するなら、駅が出来た当時から「あきばはら」と言う人が大勢居て当然なのである。
 そして「秋葉原」を「アキバ」と略すから「あきばはら」と読む人も多い、と言うのである。でもそうした略称を口にするのは若者やお宅系の人に限られるのではないのか。我々はちゃんと「あきはばら」と言っている。すっかり慣れてしまっているし、テレビでもよく話題になるから耳からも「あきはばら」が入って来る。今更「あきばはら」などと言いにくくてどうにもならない。それに「あきはばら」の読み方は不自然だ、などと考える人は、多分、ほとんど居ないはずだ。我々はそんなに日本語にも漢字にも詳しい訳ではないのだ。
 略称で特に重要なのは、それが略称ではなく、独立した名称になってしまっている事である。これまた東京の事で申し訳ないが、と言うか私は他の地域の知識が無いので、「きちじょうじ」は「じょうじ」であり、「しもきたざわ」は「しもきた」である。そうそう、大阪では「どうとんぼり」は「とんぼり」だし、「うえほんまちろくちょうめ」は「うえろく」だ。
 これらは正式名称の一部を採っているが、だからと言って、「あきば」もまた正式名称の一部である、と認識しているはずが無いのである。「あきはばら」の略称として「あきは」ではどうにもならない。第一、力が入らない。「あきは」の「ばら」で「あきば」は決しておかしくない。それに、略称として「秋葉」なら「あきば」と読む方がずっとそれらしく聞こえるではないか。
 略称は略書。人々は単に長いから省略しているのではない。その方がかっこいいからである。
 すっと読むと、そのまま納得してしまいそうな記事だが、私はどうしても引っ掛かってしまう。論理がおかしいと。私は理屈っぽ過ぎるのだろうか。