夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

昔読んだ本を覚えていないのはなぜか。『影武者徳川家康』を読んで

2009年04月11日 | Weblog
 本棚に並んでいる昔読んだ本を引っ張り出して読んだ。隆慶一郎の『影武者徳川家康』。上下巻、全1200ページにも及ぶ大作である。関ヶ原の戦いで本物の家康が死に、影武者が取って代わったとの話なのだが、覚えているのはたったそれだけ。10年以上も前に読んだのだから覚えていなくても当たり前か、とも思うが、それにしても、冒頭からもう既にすっかり忘れ去っている。
 初めて読む本みたいで新鮮で面白いから、どんどん読めてしまう。そして考えた。何でこんな面白い内容を覚えていないのだろうと。
 面白いから読みははかどる。文章はとても易しいし、しかもきちんとしている。変な言い方や言葉も無いし、なるほど、なるほどと思って読めてしまう。心理描写にしても的確で、何しろ展開が、途方も無いくせに、納得が行くのである。筆力の素晴らしさだと思う。
 そして疑問が解けた。あまりにも自然にすらすらと運んでいるから、こちらは何も考えずに済む。自分の頭では何も考えず、時折、あれっ? この人、誰だっけ、と登場人物に疑問が湧くくらい。仕事柄、私は表記が時々気になるが、それくらいである。
 変だなあ、と思うような事が無いから、頭にすっと入って来て、すっと出て行ってしまう。言うならば、受け身で読んでいる。それが記憶にとどまらない理由である。でも、だからと言って、疑問を持ち続けて読むと言うのもしんどい話だ。
 ただ、今回、「あとがき」を読んで、著者がこの構想を思い付いた理由が分かったのだが、その理由にわずかばかりの不審がある。
 著者は、関ヶ原を境にして、家康の人間が変わったのが、入れ替わったと考える理由だった、と言う。その変わり方とは、身内にも冷酷だったのが愛情深くなった、と言う。信長の命令で、跡継ぎと思っていた信康を死に至らしめなくてはならなかった。それは冷酷でなければ出来ない。そして、天下を取ってからは、側室お万の方の産んだ子をその後、御三家の開祖とする程の可愛がり方だった。そこに著者は不審を抱いた。同じ人間とは思えないと。
 だが、関ヶ原以前には信長や秀吉が覇者だったが、関ヶ原後は家康が覇者である。その違いではないのか。人間性が変わらなくても、環境が劇的に違うのだから、性格が変わって見えたって当然である。それに正室だった築山殿は今川氏の一族であり、家康が今川家の人質だった時に結婚している。愛情からの結婚だったとは言い切れない。それに対して、お万の方は側室である。家康には秀忠、秀康を始めとする息子が居る。特に秀康は秀忠と違い、武家の頭領としての信望が厚かった。側室を子供を産むために必要とはしていなかった。気に入ったから側室にしたのである。その産んだ子を可愛がるのは当然である。
 そう考えると、関ヶ原を境として家康の人間が変わった、と考える必要は無くなる。そうは言っても、家康が、昔、人買いに買われた体験を語っているらしいから、替え玉説は成り立つと言える。そして何よりも、奇想天外ではあっても、説得力のある話に仕立て上げられている以上、納得して読んでしまう。いやいや、むしろ、この方がずっと歴史が分かり易くなるとさえ言える。

 もし、こうした見方が始めから出来ていれば、もう少し違った読み方をしていたと思う。自分なりに追究もしながら読んだに違いない。そうなると、自分で考えた部分は決して忘れない。それに引きずられて、その他の部分にも忘れない所が出て来るはずだ。
 結局、どんな事でもいいから、ある程度は自分でも考えながら読めば、決して忘れる事はないだろう。そしてそれがどのような場合に可能になるのか。
 乱暴な言い方をすれば、あまり出来の良くない本の方がそれが可能になる。ただ、その出来の良くない部分に気が付かなければどうにもならないが。そうした意味で、私にはとっては出来の悪いと思われる本を何冊か持っている。それは私に考えさせる動機を作ってくれた貴重な本なのである。そして何と言う事か、それらは概してベストセラーになった物に多いのである。更には、それらの本は読み込むほどに駄目な部分が新たに見付かる。つまり、嫌な言い方になるが、それだけ私の考えが深まっている証拠とも言える。そしてその考え方はどんどん広がり、私の中に一つの体系を作り上げてくれる。
 もちろん、これは私だけの世界観とも言えるのだが、細部を詰めて行っても矛盾を来さないように考えているから、矛盾があれば即座に捨てているから、他人からも納得してもらえる考え方に仕上がっているとは思う。駄目な本てどんな本? と個人的に聞かれればお答えも出来るが、差し障りがあるので、ここでは明らかにはしない。

 そんな訳で、今私はこの『影武者徳川家康』をある時には考えながら読んでいる。感心してしまう事の方が圧倒的に多いのだが、考える部分がある事によって、この本全体に対する心構えも違って来ている。だから、今度は忘れないだろう。同じ著者がすぐ次の時代を採り上げて『花と火の帝』を書いた。これは後水尾天皇と徳川の闘いだが、未完に終わったのがとても残念だ。でも、『影武者徳川家康』と関連付けて読むと、前には分からなかった面白さがきっと発見出来ると思う。だから、次は『花と火の帝』の再読に挑戦しよう。
 因に『影武者徳川家康』は新潮社刊である。