夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

割り箸事故死の控訴審、請求棄却

2009年04月17日 | Weblog
 1999年に起きた事故で、死んだ子供の両親が病院と担当医に損害賠償を求めた訴訟で、東京高等裁判所は請求を棄却し、請求を認めない一審の判決が支持された。
 これは非常に難しい問題だろう。救急で診てもらったあの時もっと詳しく調べてくれてさえいたら、と遺族は思う。しかし、情況から判断して、それ以上の注意義務は無かった、との医師側の立場もまた分からなくはない。ただ、刑事裁判では、東京地裁は医師側に無罪の判決を下したが、医療機関の在り方に問題があったと裁判長は考え、その事に触れて、異例と言われた長文の「付言」をした。正真正銘の無罪であれば、付言などしなかっただろう。
 そして今回は民事裁判だが、そこでも裁判長は、医師の問診はおざなりだった、と指摘した。
 医療の本分を尽くしたとは言えないが、さりとてそれが死に結び付いたとは言えない以上、無罪とするしか無い。それでも、医療側が無条件でこの判決を歓迎しているような情況には納得が行かない。
 東京新聞では、担当医師は「地裁判決同様に過失がなかったことが認められ、医師として自信を取り戻せた」と言っている。病院は、「病院に過失がなかったことが認められ感謝している」と言っている。
 でもおかしいね。この新聞では、刑事の一審では「過失を認定したうえで無罪を言い渡した」と書いている。二審は「過失も否定し、無罪が確定した」である。少なくとも一つの裁判所は「過失」を認めている。それは誤審だったとでも言うのか。
 この担当医は日頃生死に直面した患者を扱う事の少ない耳鼻咽喉科の専門医で、臨床経験は3年程度だった。その医師が、「自信を取り戻した」と言う。そうですか。3年程度でそんなにも自信をお持ちだったのですか。付言は次のように言っている。
 「小さな体で生命が危険な状態にあることを訴え続けていたのに、被告はサインを見落とし、救命に向けた真摯な治療を受けさせる機会を奪う結果となった」
 これで自信を持たれたのでは危なくてしょうがない。

 この裁判は民事である。罪を問うているのではない。法的には罪は問えないとしても、医療に携わる人としての在り方の責任を問うているのである。その責任もまた認められなかったのだが、裁判長ははっきりと「問診はおざなりだった」と言っている。無条件に過失が無かったなどとは言えないはずだ。
 この私の解釈の仕方、間違っているだろうか。
 医師も病院も、「あの時はあれ以上の診療が出来なかった。それは医療に携わる者としては力不足と言われても仕方が無い。あの事故以来、こうした事故が再び起こらないよう精進努力を重ねております」と何で言えないのか。「ご冥福を心よりお祈り申し上げます」などと言う、他人事のような言葉など何の足しにもならない。
 「ご冥福をお祈りする」との言葉は第三者にはふさわしいが、当事者、しかも加害者とも目された人間の言う言葉ではないだろう。冥福を祈る事など並大抵では出来ない。私がこんな事を言うのは、裁判所が「過失があった」と認めているからである。何の根拠も無く、こんな事は言えない。

 もう一つ、この東京新聞の記事に不審がある。
 亡くなった隼三ちゃんは、「転倒した際、くわえていた綿菓子の割りばしがのどに刺さった」と書いてある。実は私はこうした言い方で、昨年失態を演じた。「のどに刺さった」以上、刺さった割り箸を完全に取り除いた事を確認したのか、と疑問を呈した。それを医師は怠った、と非難した。しかし指摘されて分かったのだが、割り箸はすでに無かったのである。割り箸が消えてしまっている上に、母親は刺さっているのを見た訳ではなさそうなのだ。そうである以上は、「のどに刺さった」とは言えないのではないか。
 確か母親は「綿菓子をくわえていて転んだ」としか医師に言わなかったと記憶している。だから「のどを突いた」と言うべきではないのか。刺さったと言うからには、割り箸が見えなくても、皮膚の下に残っている可能性があると考えるのは当然である。
 隼三ちゃんの死は、突き刺さって残っていた割り箸が脳を損傷していた事が原因である。それを見通せたか見通せなかったかが問題になったのである。そうである以上は、それに繋がる言い方は慎重を期すべきである。この事故は、割り箸が突き刺さって体内に残っていたのに、そうは見えず、割り箸があたかも突き当たったかのように見えた事が重要な要因になっているはずである。