夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

漢字検定の意義はあるのか

2009年04月20日 | Weblog
 日本漢字能力検定協会の汚い体質が明らかになった。19日の東京新聞のコラム「筆洗」では気の利いた事を言っている。
 「漢字の持つ表現の〈豊かさ〉が、誰かの懐の〈豊かさ〉のために利用されたなら言語道断」
 うんうん、と頷いて読んだが、その後が私には大きな疑問である。
 「文科相は中止の可能性も口にしたが、漢検の趣旨には罪はない。出すべきうみは出し、検定自体は守ってほしい」
 本当に漢字検定の趣旨には罪はないと言えるのか。
 私は漢字検定にはほとんど興味が無いので、内容もよく知らなかった。そこで検定協会のホームベージを覗いてみた。

 下から上がって来て、3級は「常用漢字全てが読み書き出来るレベル」で、高校3年生が対象になっている。そう、普通はそれで十分に用が足りる。それ以上難しい漢字には、ふりがなが付くし、意味が分からなかったら国語辞典なり、漢和辞典なりで調べればそれで済む。
 現在は多くが常用漢字とそれでは足りない部分を表外字を使って表現している。常用漢字を少なく制限しているから足りない部分が出て来るのであって、本来はそうした部分も常用漢字にすべきなのである。だから、今、その見直しがされていて、常用漢字の総数は増える。
 2級のすぐ上の準1級は、対象漢字数が3000字。その問題のごくごく一部を見て、へーえ、と思った。
 「榊」「歪曲」の読み方が問題になっている。確かに常用漢字ではないから、2級の問題には出来ない。だが、これは普通に読めて当然の漢字ではないのか。そして、同じ問題の中に次の問題がある。
 「乃公が出る」と大声で言った。
 問題は「乃公」の読み方である。勉強不足の私は「乃=たい」だと思った。「乃至」は「ないし」だし、どこかで「たい」の読み方を見たような気がしたのである。正解は「だいこう」である。「俺様・我輩」の意味である。
 「乃公」と「榊」「歪曲」が同じ程度とは思ってもみなかった。まあ、2級には出来ないのだから、それはいい。

 さて、「乃公が出る」と(大声で)言う、とはどのような事なのか。漢字が読めても意味が分からなければ、何にもならない。国語辞典の説明は、用例は「乃公出でずんば」である。それ以上でもなければ、それ以下でもない。どの辞書を見ても同じである。
 これは「俺が出なければ、誰が出るんだ」との言い方で、「他の者には出来ないんだ」との意気を示す言い方である。「乃公いでずんば」と「乃公が出る」が同じ言い方だろうか。「いでずんば」で切るから意味になるのではないのか。「出る」まで言ってしまっては、「それを言っちゃあおしまいよ」である。

 ほんのわずかを覗いてみただけだが、こうした検定を通って、一体どのような得る所があるのか、と大きな疑問が残る。
 結局、今大流行りの雑学と同じで、単に一つの知識を与えて、あるいは得て、それで終わり、なのである。これじゃあ、テレビの「知ったかぶりクイズ」(失礼)とまるでそっくりではないか。テレビのクイズは単に正解を示すだけだから、結局は記憶に残らない。何でそうなるのか、といった配慮がまるで無いのである。
 難しい漢字を読めたり書けたりする事よりももっとずっと大事な事がある。このコラムは「漢字は日本語の文字である」事を認めている。他国の、それも日本語とは全く構造の異なる言語を表すための文字を、日本語の文字に転換したのである。訓読みを発明したとはそうした事である。
 片方で難しい漢字を読めたり書けたりする事を奨励しておきながら、一方では漢字で書ける言葉を平気で仮名書きにする。ひどいのは、「仮名書きにせよ」と命令している。新聞自体がそのお先棒を担いでいる。

 漢字検定制度など要らない。それで協会が金儲けをするだけではないか。漢字は検定に受かるために勉強するような事柄ではない。各種の資格の検定とは大いに異なる。漢字の勉強は、日本語を日本文化をより良く知るために、そして更に発展させるために勉強するのである。
 常用漢字の内容と総数に疑問を抱かず、更には変に改変した漢字にも疑問を持たず、更に更に、漢字で書ける言葉をどんどん仮名書きにして平気でいる事をまずは反省すべきである。それをしっかりとした上で、難しい漢字に挑戦するなら漢字検定を認めよう。今はやっている事がでたらめである。でたらめだから、金儲けに徹底出来るのである。
 このコラムの締め括りの言葉「漢字検定の趣旨に罪はない。検定自体は守ってほしい」に私は断固として反対をする。一流紙の見識がこれである。この言葉を読んで、私はそれこそ、同紙が何度も気にしている「鳥肌が立った」のである。