夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

理不尽な人間を弾劾する犬の写真集

2009年04月15日 | Weblog
 引き取り手がなくて処分場であるシェルターで死を待つ犬達の写真集である。見てはいないが、東京新聞の読書欄に紹介されているのを見て知った。撮影したのはアメリカの若い女性の写真家。
 いつも思うのだが、人間ほど残酷で汚くてずるい生き物はいないだろう。世の中の出来事を見ていれば嫌でも分かる。人間を相手にしていてもそうなのだから、動物相手なら何をしでかすか分かったもんじゃない。自分達の都合で勝手に犬を増やしておいて、面倒になったら捨ててしまう。
 この写真集の紹介をしているのは作家の中平まみと言う人で、私は知らないのだが、勝手な人間どもを弾劾している。「シェルターなる最終場で救いを待つ犬たちの可愛く気高くいたいけな姿、つぶらで清らかな哀しい眼に、私は胸つぶれ張り裂ける思いで頁を繰った」と書いている。そして、「現実を人々に知らしめるために、涙を湛え天使か神の如き犬の肖像をとらえた渾身の作」と讃えている。結びは「万人に見せ即刻犬の不殺生をと訴える」である。

 犬は大昔から人間の伴侶であった。「人の役に立つのを無上の喜びとする犬」と中平さんは言い、「家庭犬も家人を守り終生不変の愛情と忠誠を尽くす」と述べている。
 全くその通りである。犬を遺棄した人は多分、犬のそうした性質を見る事が出来なかった人である。言い換えれば、その人にそれだけの価値が無かったのである。自分に「他人を守り、終生不変の愛情と忠誠を尽くす」ような性質が欠けていたからこそ、犬のそうした性質を見抜けなかったのである。だからこそ、犬を捨てて顧みないと言う無慈悲な事が出来るのである。
 犬を単なる物と見ている。それはその人が単なる物に過ぎない事を明白に語っている。

 犬を見ていれば、本当に我々人間は汚い生き方をしているなあ、とつくづく思う事が出来る。多少はわがままだったり、縦社会で序列がきちんと決まっているとかはあるけれど、裏切ったり、騙したりと言うような事はしない。いたずらをしたり、粗相をしたりした時にごまかそうとはするけれど、そんな事はたいした事ではない。むしろ、ひたむきな生き方をこそ認めてやるべきである。
 古代中国文明でさえ、犬の忠誠心を認め、犬を使った漢字をたくさん作っている。「吠」「臭」などはその代表的な例である。犬は吠えて敵が来た事を知らせる。あるいは吠えて敵を退散させる。「臭」は元は「自」と「犬」の組み合わせであった。「自」は「鼻」である。犬は人間の1万倍の臭覚があると言う。だから現在でも麻薬犬や犯罪の捜査に役立っている。
 その「犬の鼻」の文字を馬鹿な役人どもが終戦後、「大きい鼻」に変えてしまった。役人が馬鹿なのは今に始まった事ではないのである。

 話がそれたが、思い上がった人間に反省を求めるべきである。結局、この地球を滅ぼしかねないのは人間なのだ。犬の処分の事をある人に話したら、人間だって自殺する人が増えている、と言った。現実はそうかも知れない。だが、自殺する人間は生きる事を自らあきらめたのである。しかし犬は強制的に生きる事をあきらめさせられているのである。そんな馬鹿な事があってたまるもんか。
 この犬の写真集は、山と渓谷社刊、2940円。