皆さん、初めまして
4月28日の日記の中の写真で、奥の方で黄色のTシャツを着て座っている塩貝です
4月より、たけむら兄さんとあしはら兄さんと一緒に露店しています
今日は、前回5月12日(木)は、あしはら兄さんが『役に立つ仕事って何?』ってお題をやってくれたお題について考えたいと思います。
※あしはら兄曰く、もともと『はたらく=傍を楽にする』って、事らしいですね。
それは、さておき…
そもそも、仕事で役に立っている実感ってどんな時に湧くんでしょうか?…
例えば、1970年以前は、社会全体が貧困であったがゆえにNHK『プロジェクトX』やおじいちゃん&おばあちゃん達の話を聞いても、仕事の原点は『豊かな生活』言い換えれば、『みんなが豊かになる事を望んでいた(=期待)』時代だったんだと思います。
言い換えれば、『豊かになる事』を皆が共認しており、その課題に適した役割を各々が仕事の局面で担っていたのだと思います。
ですから、仕事=皆の期待に応えていた=皆の役に立っている実感があり、そこから活力を得ていた。と言えると思います。
※もちろん、人よりも『いい生活』を目指す私権獲得に向けての活力も強烈に働いていたといえます。
しかし、70年以降年々人々の生活が豊かになるに連れ、巷で生産されるややややややといった様々な生産物は、供給過剰になり、赤字倒産していく会社が後を絶たない現状を見ると、もはや人々が望んでいるモノ(=期待)はなくなったといえます。
一方で、オーダーメイドに代表される『人と違う自分だけのモノ』といった個々の自我要求を充たす生産様式へと変わってしまったのではないかと言えます。
そういった意味で、今の仕事は、自我要求に応える為となっており、極論を言えば、需要>供給の中で、ゴマをいかにするかが、仕事と言えるのかもしれません。
これでは、活力も湧きませんよね
※若者を見ても、人を蹴落としてまで『いい生活』を目指し、私権獲得(地位、お金)に固執しようとしている人が少なくなってきている事からも、仕事をしているだけでは活力源になっていない。
何時の時代も
『役に立つ仕事』=(皆期待)⇒(皆)期待に応える⇒相手(皆)が喜んでくれる⇒(皆の期待に応えられて)嬉しい(充足感)⇒活力が湧く
※この充足感は、誰しもが、学校の学園祭や友達との関係の中で必ず一度は経験していると思います。
しかし、『皆期待』は、外圧状況の変化(70年を境に貧困が消滅した事)によって変わってくるものですが、その外圧状況を捉えずに、人の役に立つ事ってなんだろう?と考え、安易に『ボランティア』や『NPO』に参加したとしても、『皆期待』を感じれなければ、仕事同様『しんどい』だけになってしまいます。
では、そもそも皆期待って何なんでしょうか?
>それは、出口が見えないということであり、答えが欲しいということだろう。しかし、出口が見えないということは、これまで一方的に発信し続けてきた学者や芸術家やマスコミ等、発信階級たちの旧観念が全く役に立たない(現に、彼らは未だに何の答えも出せないでいる)ということであり、旧観念を全否定した全く新しい認識が必要だということである。それは、これまで彼ら発信階級が撒き散らす観念をただ受信するだけであった『みんな』の協働によってしか生み出せない。
(引用)
るいネット 『活力源は、脱集団の『みんな期待』に応えること』 岡田さん
という事だと思います。
だから、『なんで屋』さんでは、みんなの「なんで?」を期待として捉え、答(応)えているんですよ~
「なんで屋」さん以外にも、みんな期待に応える仕事ってあるはずなんです。
それを政治家や学者やマスコミといった人任せでなく、みんなで、
>つまり、『必要かどうか』という真っ当な判断の土俵が出来た以上、「物的商品」も「遊興・芸能」も、「新しい認識」も、全てが同じ土俵上で判断されることになる。この土俵こそ、人々の真っ当な共認が形成してゆく新しい場=演場(の基礎構造)に他ならない。(引用)
るいネット『超国家・超市場論23 『必要か、必要でないか』という真っ当な判断の土俵が出来てゆく』四方さん
考えていく事が必要なんです。
ちなみに、じゃあ今すでに働いている人はどうしたらいいの?って疑問をもたれら方がいらっしゃれば、この投稿はお勧めですよ!!
るいネット『仕事の種類は二の次』平川さん
それでは、またの機会にお会いしょましょう!!
4月28日の日記の中の写真で、奥の方で黄色のTシャツを着て座っている塩貝です
4月より、たけむら兄さんとあしはら兄さんと一緒に露店しています
今日は、前回5月12日(木)は、あしはら兄さんが『役に立つ仕事って何?』ってお題をやってくれたお題について考えたいと思います。
※あしはら兄曰く、もともと『はたらく=傍を楽にする』って、事らしいですね。
それは、さておき…
そもそも、仕事で役に立っている実感ってどんな時に湧くんでしょうか?…
例えば、1970年以前は、社会全体が貧困であったがゆえにNHK『プロジェクトX』やおじいちゃん&おばあちゃん達の話を聞いても、仕事の原点は『豊かな生活』言い換えれば、『みんなが豊かになる事を望んでいた(=期待)』時代だったんだと思います。
言い換えれば、『豊かになる事』を皆が共認しており、その課題に適した役割を各々が仕事の局面で担っていたのだと思います。
ですから、仕事=皆の期待に応えていた=皆の役に立っている実感があり、そこから活力を得ていた。と言えると思います。
※もちろん、人よりも『いい生活』を目指す私権獲得に向けての活力も強烈に働いていたといえます。
しかし、70年以降年々人々の生活が豊かになるに連れ、巷で生産されるややややややといった様々な生産物は、供給過剰になり、赤字倒産していく会社が後を絶たない現状を見ると、もはや人々が望んでいるモノ(=期待)はなくなったといえます。
一方で、オーダーメイドに代表される『人と違う自分だけのモノ』といった個々の自我要求を充たす生産様式へと変わってしまったのではないかと言えます。
そういった意味で、今の仕事は、自我要求に応える為となっており、極論を言えば、需要>供給の中で、ゴマをいかにするかが、仕事と言えるのかもしれません。
これでは、活力も湧きませんよね
※若者を見ても、人を蹴落としてまで『いい生活』を目指し、私権獲得(地位、お金)に固執しようとしている人が少なくなってきている事からも、仕事をしているだけでは活力源になっていない。
何時の時代も
『役に立つ仕事』=(皆期待)⇒(皆)期待に応える⇒相手(皆)が喜んでくれる⇒(皆の期待に応えられて)嬉しい(充足感)⇒活力が湧く
※この充足感は、誰しもが、学校の学園祭や友達との関係の中で必ず一度は経験していると思います。
しかし、『皆期待』は、外圧状況の変化(70年を境に貧困が消滅した事)によって変わってくるものですが、その外圧状況を捉えずに、人の役に立つ事ってなんだろう?と考え、安易に『ボランティア』や『NPO』に参加したとしても、『皆期待』を感じれなければ、仕事同様『しんどい』だけになってしまいます。
では、そもそも皆期待って何なんでしょうか?
>それは、出口が見えないということであり、答えが欲しいということだろう。しかし、出口が見えないということは、これまで一方的に発信し続けてきた学者や芸術家やマスコミ等、発信階級たちの旧観念が全く役に立たない(現に、彼らは未だに何の答えも出せないでいる)ということであり、旧観念を全否定した全く新しい認識が必要だということである。それは、これまで彼ら発信階級が撒き散らす観念をただ受信するだけであった『みんな』の協働によってしか生み出せない。
(引用)
るいネット 『活力源は、脱集団の『みんな期待』に応えること』 岡田さん
という事だと思います。
だから、『なんで屋』さんでは、みんなの「なんで?」を期待として捉え、答(応)えているんですよ~
「なんで屋」さん以外にも、みんな期待に応える仕事ってあるはずなんです。
それを政治家や学者やマスコミといった人任せでなく、みんなで、
>つまり、『必要かどうか』という真っ当な判断の土俵が出来た以上、「物的商品」も「遊興・芸能」も、「新しい認識」も、全てが同じ土俵上で判断されることになる。この土俵こそ、人々の真っ当な共認が形成してゆく新しい場=演場(の基礎構造)に他ならない。(引用)
るいネット『超国家・超市場論23 『必要か、必要でないか』という真っ当な判断の土俵が出来てゆく』四方さん
考えていく事が必要なんです。
ちなみに、じゃあ今すでに働いている人はどうしたらいいの?って疑問をもたれら方がいらっしゃれば、この投稿はお勧めですよ!!
るいネット『仕事の種類は二の次』平川さん
それでは、またの機会にお会いしょましょう!!