娘の家から千早城址に向かう途中、石切神社の大きな看板が目についた。名前はよく聞いていたがどんなところか寄り道してみることにした。
正式名は石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)石切さんと呼ばれる神社だ。
ウイキペディアによると神道石切教とある。お百度参りで有名らしい。
絵馬殿は寺の仁王門みたいにみえるが両側には仁王様でなくヤマトタケルみたいな姿の神様が・・・
本殿前ではお百度参りをしている人たちがいる。朱印帳を持ち歩いてるので御朱印をもらった。
この日の目当ては千早城址(ちはやじょうし)に行くことだ。
百名城の選定基準でいうと歴史的に重要な城としての登録なので現在は何もない。
大阪市民の登山のメッカ「金剛山」のふもとにあるので登山客は多い。
四の丸にある千早神社入り口
二の丸に建つ「千早神社」
三の丸?にある千早城址の碑
千早城(ちはやじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にある日本の城。国の史跡に指定されている。鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成・築城の城である。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城である。金剛山城。楠木七城の一つ。
千早城の戦い(ちはやじょうのたたかい)は、1333年(元弘3年、正慶2年)に後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将である楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦。千早城は上赤坂城・下赤坂城と並び、現在の大阪府千早赤阪村に位置する山城である。
軍記物『太平記』では、2月2日に赤坂城で戦いが起き、その後連戦で千早城の戦いが発生して5月10日早朝に終わったと物語られているが、一次史料からは、上赤坂城の戦い(2月22日 – 閏2月1日)と並行する形で、2月27日に千早城への攻城戦が発生し(『楠木合戦注文』[原文 1])、5月9日に終了したことがわかる(『徴古雑抄』所載『和泉国松尾寺文書』[2][3])。この年は和暦では2月の後に閏2月があるため、三ヶ月半ほどの籠城戦だった。
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