はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

水口城跡と資料館

2023-11-28 21:44:32 | お城巡り

滋賀県甲賀市水口町にある「水口城」は三代将軍家光が京へ上洛したときに宿館として作られたのが始まりで、その後は水口藩が城番としてきたが、家光は一度しか滞在しなかった。

他に水口岡山城があるがこちらは国の史跡となっているので戦国の城といえばこっちの方だ。

出丸跡に建てられた資料館、乾櫓が建ってたらしい。

入口の橋は古くて渡れない。裏口から資料館へ

杮葺きの御殿があった本丸は今はグランドになっている。

ついでに近くの歴史民俗資料館へ・・4月に「水口曳山祭り」という大きな祭りがある。

また、米原~近江八幡~貴生川間を走るローカル線「近江鉄道」に乗ってみたい。

暦の上では冬、日が暮れるのも早いけど田丸城にも立ち寄ることができました。

まだ見てないがイルミネーションの季節です。続百名城になったのだから天守を再現してもらいたいものだ。

 

 

 

 

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洲本城と徳島城

2023-09-25 23:44:13 | お城巡り

やっと秋らしくなってきたが、まだ日中は暑い。友人と初めての洲本城と2度目の徳島城に行ってきた。

 

国の史跡「表御殿庭園」の青石の橋は渡っておかないとね。

心字池(どうしても心にみえない)

外堀だったJR徳島駅

芸術モニュメントのひとつ、リアルすぎてくっつけてあるのかなと思って触ってみたら石?だった。

次に淡路島の洲本城跡へ・・

洲本城は、大永6年(1526)に淡路水軍を率いた安宅(あたぎ)氏によって築かれたと伝わります。その後、天正13年(1585)に入城した脇坂安治によって、今に残る総石垣の城に改修されました。脇坂氏が伊予大洲に移った慶長14年(1609)、事実上の廃城となりますが、その威容は、今なお保ち続けられています。

壮大な総石垣、大石段、全国で数例しかない登り石垣などがあります。その他、天守台には1928年に鉄筋コンクリートで建設された日本最古となる模擬天守閣があります。

洲本市街のみならず大阪湾を一望できる、まさに南海の要塞と呼ぶに相応しい堅城です。

洲本城(下の城)は、当初の築城は桃山時代ですが、現在見られる石垣や堀が造られたのは、蜂須賀氏が淡路支配の拠点を由良から洲本に移した寛永年間(1630年代)以降と思われます。

なお、上の城は1999年(平成11年)、国の史跡に指定され、下の城も洲本市の史跡に指定しています。

上下の城を繋ぐことで防御力を高めた「登り石垣」という全国でも数例しかない珍しい遺構が良好な状態で保存されていることが評価され、2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定されました。<洲本市HPより>

日本最古の模擬天守

洲本八景・・・(淡路島の先端、和歌山まで見える)

淡路SAで玉ネギのお土産

行きはスイスイだったが帰りは渋滞、おまけに日が暮れるのが早くなって暗い中、亀山JCを見過ごして(追い越し車線走ってて急ぎすぎたかも・・)四日市JCまで行ってしまった。故障車で渋滞、追突事故で渋滞、徳島城のボランティアガイドも長かったな・・話しかけたのがいけなかった。(蜂須賀家のこと勉強になったけど)

 

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京都の城巡りと伏見散策

2023-05-05 18:31:47 | お城巡り

ゴールデンウイークの中日、友人と京都に行ってきた。帰省や行楽で高速道路は混むと思い、伊勢道以外は避けました。おかげで行きも帰りも渋滞はゼロ、でもさすがにGWだなと感じました。宇治橋近辺や伏見竜馬通りは人がいっぱいでした。

まず向かったのは伏見桃山城、城の外観は立派だが放置されている感が強い。

昔は入城料を徴収してたような門があったが今はパンフもなし、観光客も我々だけで地元の人の散策場所だけの気がする。

歩道以外は草も伸びている。

現在は天皇陵となっている伏見城本丸跡一帯の少し北側に、模擬天守が建っています。
伏見城の一部や武家屋敷などが建ち並んでいた桃山丘陵の一角に、かつて「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地がありました。模擬天守はその遊園地の中に建てられていたものなのです。
1964年(昭和39年)にオープンした施設で、模擬天守の他に、ジェットコースターやプールなどがあり、大変人気がありましたが、2003年に閉園。模擬天守も解体される予定でしたが、地元の人々からの要望もあり、残されることになり、現在この一帯は、京都市管理の「伏見桃山城運動公園」という公園として整備されています。
遊園地時代には天守の上からあたりを一望できたのだそうですが、現在は、建物の耐震の関係で天守の中に入ることはできません。歴史的・文化的価値はありませんが、見応え・迫力は十分にあります。<ネットより>

調べてみて納得、しかし歴史的には価値あるところでした。

伏見城は3度にわたって築城され、1592年に指月山に築かれたものを指月山伏見城、後に木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に、徳川家康によって再建された徳川期とにわけられます。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わります。
 
秀吉の死後豊臣秀頼が大阪城に移ると、代わって徳川家康がこの城に入り政務を行いました。関ヶ原の戦いの際には、家康の家臣である鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが落城。建物の大半が焼失しました。
 
焼失した伏見城は1602年ごろ家康によって再建され、1619年に廃城とされました。この時、建物や部材は、二条城、淀城、福山城などに移築されました。伏見城の後には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、桃山と呼ばれるようになり、やがて伏見城は桃山城、あるい伏見桃山城と呼ばれるようになりました。

続いて明治天皇陵へ

この大階段は230段あるそうだ、ここを何度も行ったり来たりトレーニングしてる人がいた。鍛え抜かれた太もも、ふくらはぎ、どんなスポーツをしてる人だろう?我々は何度も立ち止まりました。

昨日、5月3日は憲法記念日、半年前の11月3日は憲法公布日、そして明治天皇の誕生日で祝日だった(明治節)

なぜ11月月3日は文化の日になったのか、なぜ明治節は消されたのか、いろいろあるみたいです。

近くには明治天皇の皇后の墓もありました(昭憲皇太后陵)

続いて坂本龍馬ゆかりの寺田屋へ・・・

寺田屋は20代後半の頃に一度訪れたことがある。龍馬に入れ込んでいた時期で京都霊山の墓参りにも行った。

その時に買った銅像や写真、短冊は今も飾っている。

龍馬と三吉慎蔵が寺田屋を脱出して逃げ隠れた材木屋

<ウイキペディアより>

深夜の2時頃、龍馬らが宿泊していた寺田屋は、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれていた。いち早く気付いたお龍は、風呂からのまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方は「肥後守(奉行)よりの上意」であるとして迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られた。龍馬は高杉晋作からもらった拳銃、三吉は手槍を用いて防戦。捕り方2名を射殺、数名を殺傷した。しかし拳銃を持つ手を捕り方が刀で払おうとして、龍馬は手の親指(左右)を負傷。装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で応戦する間に、お龍が裏木戸の漬物槽をどかし[3]、辛くも裏木戸から家屋を脱出して路地を走り、材木屋に隠れた。三吉は責任を感じて切腹しようとしたが、龍馬に止められて伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。

(その後龍馬は西郷隆盛の斡旋により鹿児島で潜伏し、湯治がてら、お龍と霧島へ日本最初の新婚旅行に出かけたとさ。)

庭には当時の井戸と龍馬とおりょうの仲を取りもった女将お登勢の「お登勢明神」が祀ってあります。

龍馬ファンの若い女性がいっぱいでした。

そして龍馬通り商店街へ・・・

昼食は黄桜酒造の「カッパカントリー」待ち時間2~30分の合間にギャラリー見学

全国のカッパ伝説・・・小島功のまんが撮影はNG、懐かしい白黒コマーシャルが映されてた。

龍馬御膳

お土産は二人とも日本酒をあまり飲まないので地ビールと酒饅頭にしました。

龍馬は舟で救出された。(遠くに江戸風情の舟着き場があるのだが・・)

三十石船での観光船(満員でした)

次に向かったのは淀城跡公園

天守台のみしか残ってない。ひとつ上の石垣までしか行けないが、ここで小学生の女の子が駆け寄って「クッピーラムネ」をふたつくれた。オジサンたちはせっかくの好意を無駄にしません^0^

淀城は、宇治川(旧河道)と木津川(旧河道)の合流点に形成された島之内、現在の京都市伏見区の京阪電気鉄道淀駅の南西に位置する。安土桃山時代、豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせた淀城桂川と宇治川(旧河道)の合流点に挟まれた納所、現在の位置より北へ約500メートルの位置にあった。こちらは、鶴松死後に拾丸誕生後養子となっていた豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった木村重茲の連座とともに廃城とされた。

江戸時代に、木幡山にあった徳川氏の伏見城の廃城により、その代わりとして江戸幕府が松平定綱に命じて新たに築かせた。以降は、山城国唯一の大名家の居城として明治に至った。<ウイキペディアより>

與杼神社(よどじんじゃ)

淀城址公園も静かなところだが伏見城跡と同じく観光客はあまり来ない。京都はあまりにも有名な神社仏閣が多すぎるから仕方ないですね。

最後に行ったところは違いました。

勝竜寺城公園(しょうりゅうじじょう)

ここではボランティアのガイドがいて無料で案内してもらいました。

勝竜寺城は、元亀2年(1571)に織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を当時最先端の城郭に大きく造り替えたものです。土を切り盛りして造ったそれまでの中世城館ちは一線を画し、「瓦葺き」「石垣」「天守」といった、その後の城郭の標準となる諸要素が取り入れられています。信長の安土城築城よりも5年早く、近世城郭の先駆けとも言えるものです。天正6年(1578)信長の意向による、藤孝の嫡子忠興と明智光秀の娘玉(ガラシャ)の婚礼がこの城で執り行われたほか、連歌会や能、囲碁、乱舞が催されたり、茶陶の出土が確認されており、文化的な交流の場であったこともわかっています。<パンフレットより>

最近まで知らなかった城だが、明智光秀が山崎の合戦で最後にこの勝竜寺城の北門を密かに脱出して居城坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの農民に竹槍で刺されたという。

当時の天主があったとされる場所からは天王山も見える。

丁寧なボランティアの話も終わり、最後に管理棟2階で城郭考古学者の千田嘉博も出演したビデオも見ました。

小さい城跡だったがきれいに整備されててよかった。伏見城、淀城の後だっただけに・・・。

そうかここは京都市内ではなく長岡京市だった。

 

 

 

 

 

 

 

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江戸城跡

2023-04-28 20:31:41 | お城巡り

ゴールデンウイーク突入前の平日、皇居の東御苑にある江戸城本丸・二の丸・三の丸に行ってきました。

中学の修学旅行以来の皇居です。東京も久しぶり、初日に行く予定だったがあいにくの雨で翌日に行った。前日とは打って変わって雲ひとつない上天気、最高の城巡りとなりました。

7時すぎ、東京ドーム近くのスパラクーアを出て水道橋駅から大手町へ・・皇居東御苑には9時からしか入れないので東京駅に向かう、

駅の正面はまだ閉まっている。丸の内口から構内に入り、おにぎり専門店「ほんのり屋」で朝食、海老天と焼き鮭のおにぎりと貝出しみそ汁で710円はちと高い。(一個は持ち帰りだが)・・その後、帰りの新幹線切符を事前に購入、日本橋まで足をのばした。

昔の江戸の町は水路が発達していて、多摩川や井の頭などからわずかの高低差を利用して水路が張り巡らされたそうだ。城の堀土で埋め立て地も出来て、八百八町といわれる大江戸の町が出来た。

日本橋の上は首都高速

獅子像や麒麟像がシンボルだ。

日本橋魚河岸跡(魚市場発祥の地)

旧街道の起点はここから

日本橋駅から大手町駅へ・・まだ入れないので大手門から北はね橋門まで歩く。

大手濠緑地にある「和気清麻呂像」

関東大震災で焼け野原から生き残った「震災イチョウ」ここに移植された。

 

北はね橋門近くの高さ20mの石垣

北はね橋門から東御苑内へ・・・入城前に持ち物検査があった。

こちらから入るとすぐに天守台がある。

江戸城は、扇谷上杉家の重臣「太田道灌 」(おおたどうかん)によって築かれました。鎌倉時代に建てられた「江戸館」跡に築かれ、1457年(康正2年)に完成したと言われています。当時の江戸城は3つの曲輪で構成されており、多くの堀が設けられていた他、櫓や石門などで守りを固めていました。城下町も発達していましたが、太田道灌が暗殺されてしまい、江戸は寂れてしまいます。

その後、江戸城は北条氏の支城のひとつとなりますが、北条氏が滅亡したあと、1590年(天正18年)に「徳川家康」が江戸城に入城しました。

徳川家康は江戸城の改修工事を計画。天下普請(諸大名に対して城などの工事に参加することを強制した徳川幕府の命令)により全国の大名を召集し、改修工事に参加させます。このとき参加していた大名は、「加藤清正」(かとうきよまさ)や「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤嘉明」(かとうよしあき)など。なお、城の設計は、徳川家康の信頼が厚かった築城の名手「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が担当したと言われています。

 

非常に大規模な改修工事のため、徳川家康の代では終わらず、二代目将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、三代目将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)に引き継がれました。大改修が始まってから約30年後の1636年(寛永13年)、ようやく江戸城の全容が完成。江戸城は日本最大の規模を誇る、徳川幕府の権力を示す威厳あふれるお城となったのです。

しかし、1657年(明暦3年)、江戸では「明暦の大火」(めいれきのたいか)と呼ばれる大火事が起きて、城下町の多くの建物とともに江戸城は焼失。この大火事のあと、本丸や二の丸などは再建されましたが、権威の象徴とも言える天守は再建されていません。これは、「城下町の再建で財政難の時期に、実用性に乏しい天守を再建させる必要はない」という、当時の副将軍「保科正之」(ほしなまさゆき)の進言を幕府が聞き入れたからです。

 

それからの徳川幕府は江戸城を政治の中心地として長期政権を保ちましたが、1868年(慶応4年)に起きた明治維新により、幕府成立から約270年の歴史に幕を閉じました。これにより、江戸城は明治政府に明け渡されることに。

明治時代になり、首都が京都から東京へ移ると、江戸城は天皇陛下の住居となり、「皇城」(こうじょう)、「宮城」(きゅうじょう)と呼ばれていました。現在の江戸城は、皇居であるとともに、国内外から多くの人が訪れる東京を代表する観光地となっています。<ネットより>

天守台の上から

本丸御殿の建物があったところ(表・中奥・大奥の3つに分かれていた)

石室(大奥の台所保存庫だったといわれている)

吉良上野介と浅野内匠頭の刃傷沙汰で有名な「松の廊下」

 

「富士見多門」内部

富士見櫓

門の石垣(天下普請で築かれたのでいろんな石、積み方がある)

同心番所

百人番所(今でいう警察官詰め所だ)

二の丸庭園

諏訪の茶屋

明治45年に御所内の吹上地区に建てられたもの。昭和43年に現在の場所に移設された。

 

三代将軍・徳川家光が築いた天守のモデル(寛永年間)

石垣を除いた天守の高さは45mで日本一だった。現在の大阪城再建天守は42m、名古屋城は36m

平川濠

巽櫓

坂下門

桔梗門

皇居正門

二重橋

皇居正門石橋と伏見櫓

外桜田門

日米修好通商条約に調印した大老・井伊直弼が尊王攘夷派の水戸藩士らに彦根藩の行列中にこの桜田門外で暗殺された。

 

この後、桜田門駅があったので東京駅まで地下鉄で戻り。お土産を買って昼過ぎの新幹線に乗った。そして乗ってから気が付いた。しまった!百名城スタンプを押すの忘れた!( ;∀;) 何しに行ったんだ。

この江戸城は東御苑の外(外苑)に3か所あり、一番近い和田倉休憩所で押すつもりだった。向かってたのに道路の反対側だったので先に桜田門まで行ったのが間違い。しかも桜田門駅入り口を見つけたのも間違い。今日も大分歩いたので楽して東京駅まで行こうと思い、すっかり忘れてた。

歳のせいでもあるんですかね。まあ、まだ千葉の佐倉城や茨城の水戸城にも行ってないからその時ですね。東京駅に近いから・・・・。

お土産は東京駅限定のレンガぱん1個360円 テレビのワイド番組でみてスマホにメモしてた。

120円のあんぱんとクリームパンを3個ぎゅっと固めたみたいなものだからこんなものか

帰りは富士山がくっきりと見えました。『去年は剣が峰まで行ったなあ』と心でつぶやく。いつでも見れる人はいいね。

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伊勢亀山城跡と伊勢上野城跡

2023-04-17 22:49:06 | お城巡り

伊勢亀山城は、文永二年(1265)亀山市若山町に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1537)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった.

天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。
 また、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したた伝えられるが真偽のほどは定かでではない。
 寛永一三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700㍍・南北500㍍に及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、東出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が設けられた。

城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延了享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることとなる。
 明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多聞櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多聞櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築とした昭和二八年(1953)に三重県指定文化財に指定された。 

 

前に来た時は漆喰にもひびが入っていたがきれいに塗り直されていた。

唯一残る多聞櫓内

古写真には三重櫓、二の丸御殿、大手門、京口門が写っている。

本丸周りはきれいに整備されている。

二の丸、三の丸などは学校が建っており、SL機関車も展示されている。どこも同じだね。

帰路、津市河芸町の伊勢上野城跡にも寄りました。

地元にとっては残念な記事がウイキペディアに出ていた。

歴史[編集]

元亀元年(1570年)、織田信包津城(安濃津城)の仮城として分部光嘉に築城させた天正8年(1580年)、津城の完成により、信包が居城を移したため、分部光嘉が城代となり、文禄3年(1594年)に信包が近江へ改易になると、光嘉が城主に任ぜられて独立した城となった元和5年(1619年)、光嘉の養嗣子光信近江国大溝藩へ移封となったため、廃城となった

なお浅井長政が滅亡の後、長政の妻であるお市の方と娘の茶々は信包に預けられ、一時この城で過ごしたと言われてきた。しかし、近年の研究によると、当初、お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市達の叔父である織田信次であることが明らかとなっており、上野城に滞在していたとされるのは誤りで、守山城(尾張国)で過ごしていたのが正しいとされる(『溪心院文』)

本丸跡に建つ展望台と資料館、(資料館は3時までで入れなかった)

本丸広場にある相撲場

二の丸にあるアスレチック

関宿方面

伊勢湾に近い。新緑がきれいでした。

 

 

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浜松城

2023-03-29 23:09:03 | お城巡り

連休で江戸城に行くつもりだったが、バイト仲間の人がしばらく働けないのでやめた。みんな高齢の家族がいて大変だ。

自分は施設に世話になっているのでまだ自由がきくのでいいが・・・・。代わりに浜松城に行ってきた。徳川家康の出世城だ。100名城ではないが、続100名城です。

若き日の徳川家康公と記している。

平日だが、桜まつりの開催中でにぎわっていた。9時半頃に着いたので駐車場はなんとか止めれた。もう少し遅ければ待たされるところだ。90分こえると有料だが有料施設に入ると時間延長してくれるので結局無料だった。

鉄筋で中は展示室になってるが、石垣は当時のままです。

浜松市も都会ですねえ。

広場の模様は「葵の紋」か?

日本庭園

城門下の人だかりは・・・・?

太郎・次郎一門の猿芸でした。

写真OKだが動画撮影は禁止

山吹の色は鮮やかだ。

大河ドラマ「どうする家康」の展示館

平日はお年寄りが多い、私もです。天守とドラマ館で900円セットだったが、70歳以上は無料だったかも。

このドラマ、あまり見てないけど・・・

はね上げ門

役者の撮影衣装

松本潤と有村架純の撮影衣裳

阿部寛の衣装はやはり大きい

この後、龍潭寺に行きました。

 

 

 

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高取城

2023-03-06 21:31:44 | お城巡り

日本三大山城のひとつ、高取城に行ってきた。二度目だ。

明治時代までは建物も残っていたのに残念だ。廃城令なんかなかったらよかったのに・・江戸幕府では大名の軍事力を削減するために一国一城令を出したし、戦争もそうだが・・・

よくこんな山奥に大規模な石垣を築いて昔の人々の凄さに感動する。

本丸

天守台

懐かしの熊と城の彫刻

 

この後、西国6番札所の壷阪寺へ・・

別名・南法華寺

本堂内の雛飾り、豊橋の本陣資料館のほうがすごかったが・・

大講堂内の雛飾り、裏側にもある。

三重塔(国指定重要文化財)

春休みの女子大生4人組なのか?涅槃像と同じ格好をして写真撮ってました。インスタグラムでも載せるのか、会話にも思わず笑ってしまった。青春ですねえ 

箸墓古墳に行こうと思ったが、駐車場がないらしく、大神神社(三輪明神)にしました。

参拝中に隣りで熱心にお祈りしてた娘さんがいて、縁結びをお願いしてるのかなと友人と話してたら御朱印もらってるときに隣に男といました。スミマセン

 

 

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松ヶ島城跡

2023-02-26 21:04:21 | お城巡り

伊勢西国巡りの帰りに松阪市にある「松ヶ島城跡」に寄ってきた。

何もない、小山があるだけだ。

安土桃山時代/松ヶ島町城ノ腰/指定面積:287平方メートル/昭和31年12月5日

 三渡川(みわたりがわ)右岸の海岸線から東へ500m、俗に天守山と呼ばれる1辺約20mのほぼ方形の台状地が、本丸天守台の跡と考えられている。永禄10年(1567)の頃、北畠具教はここ細首(松ヶ島の旧名)に築城するが、同12年、織田信長の来攻に際して自ら焼き廃城となったという。天正8年(1580)、具教の養子に入った信長の次男北畠信雄は同地に築城、松ヶ島城と改称した。その後、同12年に蒲生氏郷が入城し南伊勢支配の拠点として栄えたが、松坂城の完成とともに廃城となった。今も周辺には丸ノ内・城ノ腰・殿町・本町等の地名が残り、天目茶碗の出土も知られている。

向こうは伊勢湾

回りはハウスや畑、牛糞堆肥置き場でこの小山だけが「県指定史跡」なのか?車を止めるスペースにも苦労する。

ここに五層の天守が建っていたという。前の「田丸城」も後の「松坂城」も立派な石垣が残っているのに残念だ。

 

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一ノ瀬城跡(東の城・西の城)

2023-02-11 20:08:07 | お城巡り

我が町内にも城跡がある。他にもあっただろうが整備されているのは長原城と一ノ瀬城しか知らない。

<案内板より>

一ノ瀬城を本拠地とする豪族愛洲氏は、南北朝時代、南朝を支える勢力として活動していました。

延元二(1337)年、伊勢に下向してきた後醍醐天皇の息子”宗良(むねなが又はむねよし)親王を愛洲太郎左衛門らが一ノ瀬城に迎えています。

「延元二年夏頃、伊勢国一瀬といふ山の奥にすみはべりしに、郭公(ほととぎす)を聞きて深山をは ひとりな いてそ 時鳥(ほととぎす)われも都の 人はまつらむ」  ― 宗良親王の歌集「李花集」―

東の城跡には「一ノ瀬神社」が建っている。神社の裏手に東の城がある。

切り崩しの主郭壁、近世の城なら石垣を積むところだ。

空堀

主郭下

主郭

神宮遥拝所

見晴台にある「宗良親王御遺蹟」

見晴らし台

続いて「西の城」へ

長く連なる尾根には所々石止めがある。

空堀と土塁

西の城跡の主郭

この先、尾根に六条もの空堀が掘られている。

右奥に「向井将監屋敷跡」とあるが、誰だったのか?調べてみた。

  • 向(向井)氏の始祖は 源頼義・仁木太郎実国の後胤・仁木右京太夫義長の4男・四郎尾張守長宗とする清和源氏で 応永4年(1397)に「仁木」を改め「向」とし、さらに8代政綱のとき徳川氏麾下となり「向井」と改めた
  • 向氏は 仁木の時代から常に足利氏に従属し 応仁の乱(1467)においても 「向第4代長春」は伊勢国司北畠側にあった。 恐らく 伊勢国田丸城(現三重県度会郡玉城町岡村)の北畠水軍を統率する愛州氏に従属し 小浜氏らと共に伊勢大湊を本拠とする北畠水軍に関って 水軍としての力をつけたと思われる
  • そして 第7代正重のときに 伊勢国から駿河国に移って 今川氏の水軍となり 今川氏滅亡の後は 武田氏の水軍に加った
  • 正重は 駿河国(現静岡市駿河区用宗城山町)の持舟城で 徳川軍に敗れ亡くなるが その実子第8代政綱は 武田氏滅亡後に徳川水軍に誘われ 豊臣秀吉による北条攻めの先陣となった徳川軍にあって目覚ましい活躍をし 天正18年(1590)の家康関東入りでは 徳川水軍の筆頭となっていた
  • 政綱の子・忠勝は左近将監(初代将監)と名乗り、幕末まで代々「向井将監」と名乗った

伊勢国にいた向井家7代前か?9代忠勝以降の向井将監を名乗った人物か?

まあべつに詳しく知らなくてもいいが、立て看板に書いてあると誰か知りたくなる私です。

 

 

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吉田城・二川宿本陣資料館・豊川稲荷

2023-02-04 23:26:14 | お城巡り

久しぶりに友人と城巡りに行ってきました。豊橋公園にある吉田城は1564年松平時代の家康公が、今川方の吉田城代小原鎮実を攻め、吉田城を攻略し、城主に酒井忠次をおきました。その後、羽柴秀吉配下にあった池田輝政が吉田城の城主となり大城郭を改造しています。その後、池田輝政は姫路城を築いています。<HPより>

鉄櫓(くろがねやぐら)・・天守はなかったが鉄櫓が天守と記されている古地図があるそうだ。

建築科の高校生が作った模型

豊川にかかる吉田橋は昔、瀬田の唐橋、矢作橋とともに東海道の三大大橋といわれた。

続いて「二川宿本陣資料館」へ・・

大名や公家など貴人の泊まる宿であった本陣は、旧東海道の宿場には2か所しか現存していません。

ひな祭りが近づいているためか、各部屋は雛飾りでいっぱい。こんなにたくさんの雛飾りは初めて見た。

手筒花びな・・豊橋は手筒花火でも有名だ。

御殿飾り

吊るし雛・・・一般庶民はこれが主流だったのだろう

御殿飾りと屏風飾りと歌舞伎飾りと内裏雛と陶雛

上段の間

隣接する旅籠屋「清明屋」

旧東海道沿いの「二川宿本陣」

帰るにはまだ時間があったので、ヤマサのちくわ本店で、ちくわと菜の花のてんぷら、コロッケ三種(蒲鉾入り?)を買った。ビールのお供に・・・

またまた帰りついでに「豊川稲荷」へ・・

ここは二礼合掌一礼だと思ったが、合ってるか?

狐塚に向かう途中は狐やのぼり旗の奉納でいっぱい 奉納金が気になる。

お稲荷さんの使いである狐の墓ということなのか?

お稲荷さんは本来、稲作、農業の神様だそうだが、衣食住、家内安全、商売繁盛、厄除など生活に密着した神様でもあるそうだ。家族の平穏無事をお祈りしました。

 

 

 

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