はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

富山城~丸岡城~長浜散策

2024-06-14 11:26:08 | 東北城巡りの旅

いよいよ東北城巡りの旅も最終日になりました。一か月近くかかるかなと思ってたが、ちょっと急いでしまいました。山も岩木山しか登らなかったし、もっと登山するつもりだったが・・・やはり老人ホームにいる母を思うと長くは留守できないと思ってしまう。100歳までいくかもと思うくらい元気なんだが・・すぐに介護認定審査に立ち合いにいきました。

 

富山城は続、百名城です。  神保→上杉→佐々→前田と領主が交代

富山城は、天文12年(1543年)頃、越中西部を治める守護代・神保長職(じんぼう ながもと)が越中東部への進出をもくろみ、越中東部を治める同じく守護代・椎名氏の支配地である神通川東岸の安住郷に、家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城させたお城と言われています。

富山藩第二代藩主 前田正甫(まさとし)は富山の売薬の下を築いた人物です。(反魂丹伝説)

福井県に入ると国道近くに丸岡城がある。二度目の丸岡城に寄ることにした。

現存天守なので再び城内へ・・

やっぱり鉄筋ではなく、本物はいい、石瓦もいい 

長浜まで来ました。公園に車を止め、まず琵琶湖周辺を散策、長浜城に行ったが本日休館、月曜日のためか黒壁スクエアも休んでる店が多かった。

戦国時代、羽柴(豊臣)秀吉が初めて一国一城の主となった城

織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。
 天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。

黒壁スクエア

鉄道スクエア

もう夕方だが、ここまで来ると我が家まで今日中に帰れる距離だ。急に早く帰りたくなった

最後に伊勢自動車道を利用してしまいました。 東北一周城巡りの旅、完結です。今度は九州一周城巡りの旅です。秋ぐらいに行けるかな?

 

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秋田城~久保田城~鶴ヶ岡城~村上城

2024-06-13 00:39:53 | 東北城巡りの旅

秋田城は百名城ではないが、続百名城です。

秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国(でわこく))に置かれた大規模な地方官庁で、政治・軍事・文化の中心地でした。蝦夷(えみし)の人々が暮らしていた東北各地に同じように造られた律令国家の地方官庁の遺跡は「城柵官衙遺跡」(じょうさくかんがいせき)と呼ばれており、秋田城はその中で最も北に位置しています。
天平5年(733年)に、秋田村高清水岡(たかしみずのおか)に遷(うつ)された当初は「出羽柵」(いではのき)と呼ばれ、天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760年)ごろに秋田城と呼ばれるようになりました。奈良時代には出羽国の政治を行う「国府」が置かれ、また津軽(青森)・渡嶋(わたりしま)(北海道)のほか、大陸の渤海国(ぼっかいこく)(中国東北部)など対北方交易・交流の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられています。<公式サイトより>

奈良、平安時代の遺構で城というイメージではないが、堀などの防御施設があれば城という概念なので続、百名城なのだろう。規模は大きい

次に百名城の久保田城へ・・

秋田藩主佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門であり、全国でも古い歴史を持つ大名です。
関ヶ原の合戦のあと、秋田に転封された佐竹義宣は久保田の地、神明山(現在の千秋公園)に新たに城を築き、城下町を建設しました。
以来、秋田市は久保田城下町を中心として近世・近代都市として発展してきました。

御隅櫓より秋田の市街を望む

久保田城は、慶長七年(1602)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏二十万五千八百石の居城であり、複数の廓を備えた平山城です。
築城は慶長八年(1603)年五月に開始され、翌年の八月には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入り、旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。
しかし、義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永八年(1631)頃といわれています。
久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったことが挙げられます。
天守閣を造らなかったのは、国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが原因であると考えられています
現在、久保田城跡は千秋公園として整備され、市民の憩いの場として、また、桜の名所としても親しまれています。

表門

 

にかほ市の道の駅から日本海を眺める

象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)が合歓(ねぶ)の花

にかほ市象潟は松尾芭蕉「奥の細道」最北端の訪問地として有名、標記の由来となった中国4大美人「西施」像と石碑が建立されています。<ネットより>

天気も気温も良く、しばし寝ころびたい気分だ。展望風呂もあった。

鶴岡市の鶴ヶ岡城へ・・続、百名城です

荘内神社

荘内神社が鎮座している所は、「鶴ヶ岡城」というお城の本丸御殿があったところです。
御城の跡地になぜ、神社が建てられたのか・・・?その理由は、荘内神社の御祭神を見ると分かります。
荘内神社には、庄内藩の歴代藩主の中から4人の方が御祭神として祀られています。
そもそもこの神社は、酒井家の歴代藩主を慕う庄内一円の人々の創意により、創建されたものなのです。

酒井忠次公の兜(赤い兜)

酒井忠勝公荘内入部400年記念、御神輿

藤沢周平記念館に入ってきた。

鶴岡市出身の時代小説家、藤沢周平の作品を深く味わう拠点。自筆原稿や創作資料、愛用品を展示しながら、藤沢周平の作品世界と生涯を紹介している。『蝉しぐれ』『三屋清左衛門残日緑』『橋ものがたり』『海鳴り』...

次に村上城へ・・続、百名城です

村上城は、標高135mの臥牛山に築かれた城で、築城年代は不明ですが、16世紀前半には城が存在していたものと考えられます。戦国時代 には、小泉荘の国人領主本庄氏の本拠地として、永禄11年(1568年)の上杉謙信との籠城戦など、幾たびもの戦いが繰り広げられました。江戸時代に入ると、村上氏、堀氏、松平氏らの城主によって城の改造と城下町の建設が行われ、村上城は北越後の中心拠点として整備されました。その後も、たびたび城主が交代しますが、享保5年(1720年)以後は内藤氏が代々城主を努め、明治維新を迎えます。
 現在、天守櫓・門などの城郭建造物は存在しませんが、城跡一帯には戦国時代に築かれた竪堀・虎口などの遺構と、江戸時代に築かれた石垣の遺構が混在して残り、その姿が貴重であるとして、平成5年に村上城跡は国史跡に指定されました。

村上市は天皇皇后・雅子様の故郷で小和田家は村上藩士の家系で結婚されたときは武家屋敷など町が整備されたそうです。また三面川(みおもてがわ)の鮭の遡上で有名です。と山頂で地元の方が話してました。手ごろな山なので体力づくりの地元の人が多かった。

この後、新潟市の極楽湯へ(全国にあるのだろうか?)・・・ 道の駅の元祖「豊栄」は車が多く、バイク集団や暴走族風の車がたむろしており、別の道の駅「加治川」へ移動しました。新潟県の24時間スーパー銭湯はなかった。

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新発田城~清水園~足軽長屋~春日山城

2024-06-13 00:38:46 | 東北城巡りの旅

道の駅「加治川」から新発田城へ

最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。代々新発田氏の居城となっていたが、天正9年(1581年)、新発田重家上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。天正15年(1587年)、景勝方の攻勢により新発田城は落城。大名としての新発田氏は滅亡した[4]

その後上杉氏会津転封に伴い、慶長2年(1597年)、溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封。新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行っていった。城が完全な形となったのは承応3年(1654年)、3代宣直の時代といわれる。その後寛文8年(1668年)、享保4年(1719年)に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度に再建されている。<ウイキペディア>

表門

二の丸隅櫓

本丸と二の丸の約半分は廃城令後、陸軍省の管轄となり、昭和28年からは陸上自衛隊が駐屯し、現在に至ります。

なので三階櫓には入れない。

赤穂義士堀部安兵衛は新発田に生まれました。18歳で江戸に出て、高田馬場の決闘の助太刀によって名を挙げました。

 

この後、弥彦山に行って佐渡島を見る予定だったが雨でやめた。代わりに新発田市内観光をしました。

蔵春閣・・この日、市民お茶会があちこちで開催されてて中に入れませんでした。

「蔵春閣(ぞうしゅんかく)」は1912年(明治45年)、新発田出身の大実業家である大倉喜八郎翁によって、東京の隅田川沿いにあった向島別邸内に建てられた迎賓館で、政財界の大物や海外の賓客がもてなされていました。

大倉喜八郎が創立し経営に腕を振るった企業には、今なお残っているものだけでも、大成建設、サッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、日清オイリオ、あいおいニッセイ同和損保、特種東海製紙、リーガルコーポレーション、ニッピ、日本化学工業、東京製綱、日本無線、本渓鋼鉄公司(中国)などがあります。<ネットより抜粋>

次に清水園(旧新発田藩下屋敷大名庭園)

ここでも市民お茶会で武家屋敷、茶室には入れませんでした。

小雨で風情がありました。

新発田藩資料館、堀部安兵衛伝承館、清水谷蔵所資料館

次に旧新発田藩足軽長屋

狭い玄関

この後、上越市の春日山城跡へ・・

戦国時代の名将・上杉謙信公の居城として知られる春日山城跡。国の指定史跡であり、日本百名城にも数えられています。
複雑な自然の地形を巧みに利用した春日山城の堅固な城塞は、難攻不落の天下の名城といわれました。現在も、空堀や土塁、大井戸など山城の特徴が残ります。屋敷や空堀が展開する山の裾野に、延長1.2kmにも及ぶ堀と土塁で総構が築かれている点が大きな特徴です。(総構散策マップ 総構を歩く)
標高約180mにある本丸跡からは、日本海や頸城平野、それを取り巻く山並みをも一望できます。
また、春日山城跡の中腹には、昭和44年の大河ドラマ「天と地と」放映にあたり制作された、上杉謙信公の銅像があります。<公式サイトより>

春日山神社 (祭神は上杉謙信公)

春日山神社より駐車場を見る。

三の丸まで80m・二の丸まで200m・本丸まで330m

二の丸より上越市を望む

帰りは千貫門コースで下った。

毘沙門堂(謙信公が出陣前に戦勝を祈願した所)

春日山城から富山市へ・・・・いよいよ北陸まで南下、目標は達成したのでこのままどこへも寄らずに帰ってもいいが

今夜は富山市のスパ・アルプスへ・・・昼はすき家のねぎ玉牛丼、夜は生中とカレーうどんで最後の夜を迎えました。

 

 

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岩木山登山~水沢温泉~田沢湖

2024-06-12 16:00:16 | 東北城巡りの旅

東北に来たら山登りも目標にいれていた。早池峰山、八甲田山、岩木山、蔵王、安達太良山、スカイラインやロープウェイを利用して・・・リュックや登山靴持参だ。八甲田山はコース変更でやめたが、岩木山に行ってきた。

昼から天気が悪くなる予報だったので、8時半の津軽岩木山スカイライン開通を待って8合目まで、そこから9時半稼働のリフトがあるがリフトは乗らず歩いて頂上へ・・1時間半の山登りだ。

観光客1番乗りです。

あの奥の山が山頂、まだ残雪も残ってる。

北国らしく白樺の木が多いです。

向こうにリフトの駅が見える。赤い屋根は避難小屋

リフト駅からきた二人を追い抜いていく。

かすかに日本海が見える。

鳥居前でおにぎりとパンを食べて山友にライン報告

鳥居が欠けているのが悲しい。

ここでも4人の高校生が雪での遭難事後があったため、善意で避難小屋が建てられた。

11時15分下山

行きに寄った岩木山神社(本殿までは行かなかった)

弘前から乳頭温泉へ、一度あの乳白色の温泉に入ってみたかった。それと友人が言ってた玉川温泉へ・・

しかし、南下の道のりは遠い、玉川も乳頭も日帰り客は午後3時までがほとんど、玉川温泉にいたっては岩盤浴(ラジウムを放射する北投石は台湾の北投温泉と玉川温泉しかないそうです)は予約でいっぱいらしい。泊り客でないと無理みたいですね。4時頃乳頭温泉に着いたがここも時間切れでダメ、ホテルの人が「水沢温泉露天風呂なら遅くまでやってますよ、乳白色です」ということで水沢温泉に入ってきました。700円でした。

その後、秋田への道中「田沢湖」へ・・ここは水深が423mと日本一深い湖です。

たつこ姫伝説

田沢湖が田沢潟と呼ばれていた頃、院内にまれにみる美しい娘、辰子がいた。辰子はその美しさと若さを永久に保ちたいものと、密かに大蔵観音に百日百夜の願いをかけた。満願の夜に「北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう」とお告げがあった。

たつこ姫伝説
 

辰子は、わらびを摘むと言ってひとりで家を出て、院内岳を越え、深い森の道をたどって行くと、苔蒸す岩の間に清い泉があった。喜び、手にすくい飲むと何故かますます喉が渇き、ついに腹ばいになり泉が枯れるほど飲み続けた。

時が過ぎ、気がつくと辰子は大きな龍になっていた。龍になった辰子は、田沢潟の主となって湖底深くに沈んでいった。

一方、辰子の母は娘の帰りを案じ、田沢潟のほとりに着き、娘が龍になったのを知って悲しみ、松明にした木の尻(薪)を投げ捨てると、それが魚になって泳いでいった。後に国鱒と呼ばれ、田沢湖にしか生息しなかった木の尻鱒という(田澤鳩留尊佛菩薩縁起より)

さて、十和田湖を南祖坊に追われ、男鹿半島に八郎潟をつくり主となった八郎太郎は、毎年秋の彼岸の頃、田沢湖に恋人の辰子を訪ねて冬を過ごすため、主のいない八郎潟は凍りつき、2人の龍神が住む田沢湖は冬の間も凍らない湖として知られている。(三湖物語より)

 

秋田市では駅近くの駐車場に止め、飲み屋街に・・

放浪酒場の永楽食堂は満員で入れず、しかもテーブル席ではひとりでは入りづらいです。

おひとり様用カウンターのある居酒屋へ入った。串盛り合わせ(レバー抜き)とソイの刺身(おまかせ)いぶりがっこチーズ

秋田の地酒三種飲み比べ(辛口)と藁焼き牛タン

店員は生きのいい若いお兄さんばかり、ここも混んできました。この日は花の金曜日だった。

あまり飲まない日本酒の酔い覚ましに、駅周辺を散策

なまはげが出てくる有名な店、入ろうとしたが予約者のみで断られました。小さい音だが常に太鼓が鳴ってます。

ここでも良かったな、70円、80円の値段だ、味噌汁、おにぎりも80円、あられは30円です。

きりたんぽの店

秋田駅は大きくてきれいだ。

秋田竿灯まつりが有名です。

やけにアーケードが高い、竿灯まつりと関係あるのだろうか?

こんなのもあります。

 

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根城~十和田湖~弘前城~ねぷた村

2024-06-10 22:06:53 | 東北城巡りの旅

道の駅「ろくのへ」から根城へ

根城は、南北朝時代の南朝方の武将・南部師行(なんぶもろゆき)が建武元年(1334年)に築城し、以来領地替えにより使われなくなるまで約300年間八戸地方の中心でした。本丸のほか中館、東善寺館など合わせて8つの郭からなる平城で約18.5万平方メートルの城跡です。中世から近世にかけて郭全体の復原は全国でも初めての試みとされ、11年間の発掘調査を元に平成6年(1994)オープン。

 根城本丸は、城としての機能が最も充実した安土桃山時代の姿を忠実に復原。主殿や工房・納屋・馬屋などの建物が忠実に復原され当事の面影を現代に伝えています。

主殿

納屋

本丸

 

東門

中館

本丸模型

八戸から十和田市を経て十和田湖へ・・途中、奥入瀬渓流沿いを走ったので車を止め、2か所ほど動画撮影、年配者がたくさん歩いている。15キロにわたって続く渓流沿いのウオーキングは一度体験してみたい。この新緑の時期もいい

青森県十和田市秋田県鹿角郡小坂町にまたがるである。最大水深は326.8 mで、日本の湖沼としては第3位である。なお、面積では日本の湖沼としては12番目である。東岸には奥入瀬川が存在し、北東に約14 kmにわたり奥入瀬渓流が延びる。約20 km北には八甲田山が位置する。

高村光太郎作「乙女の像」

十和田湖から弘前に向かう道でナビが赤い道で情報不足にもかかわらず、走っていったら通行止めでした。5キロくらい走っただろうか?どうせ冬期の通行止め表示だろうと安易に思っていました。慎重になるべきでした。違う道の大館十和田線で弘前に向かいました。

弘前城は現存12天守のひとつです。これですべての現存天守に登城しました。

今、石垣修理で天守ごと移動して違う所に建っている。石垣のない天守はなんか変だ。

鉄骨の張りは移動した補強だろうか?それとも前からか?

ガラスの引き戸がついた天守は初めてだ。

鉄砲狭間なのか?こちらもめずらしい

弘前城本丸東面の石垣には、以前から膨らみが確認されており、崩落する危険性から、石垣を解体修理することになり、 平成27年7月~9月にかけて、天守を約70m本丸の内側へと曳屋する工事を実施しました。
石垣修理工事には約10年間を要し、曳屋した天守を元の位置に戻すまでにも約6年かかると見込まれています。

※「曳屋」とは、建物を解体せずに移動させる工事のことです。

東内門

二の丸東門

弘前公園は桜まつりでも有名だ。2600本ほどの桜が咲き、高遠城址公園、吉野山とともに日本三大名所になっている。

外堀を歩いていると「津軽藩ねぷた村」の看板があり、道行く人に尋ねてみた。閉館まで時間があり見てきました。

青森ねぶたが有名だが弘前もまたユーチューブでみたい。色々説明してくれて海沿いは「ねぶた」山側は「ねぷた」という所が多いそうだ。どちらも「眠たい」という意味だそうです。

弘前ねぷたまつり解説

太鼓の叩き方も教えてもらい、津軽三味線の生演奏もありました。津軽じょんから節を動画撮影したが、SNSに投稿するのはだめです。

弘前の夜は「アサヒサウナ・カプセルイン弘前」

石川ウインナーと「タラたま」という干したらに生卵を混ぜたものが名物らしいので注文しました。

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恐山~大間崎~浅虫温泉

2024-06-10 12:04:49 | 東北城巡りの旅

城巡りは弘前、八戸まででいいが、下北半島まで行く目的があった。恐山に行ってみたかった。友人も東北に行ったら恐山と玉川温泉にぜひ行ってきてと言ってたし、イタコはまだいるのだろうか?

道の駅石神の丘を早朝5時半頃出発、

人が亡くなって三途の川まで来るとこのふたりが待ち構えている、衣類を剥がされ、それを柳の枝にかけ、そのたれ具合で閻魔様に地獄か極楽か言い渡されるという。

入山料500円を払い総門の中へ・・

りっぱな山門です

本堂

奥は地蔵殿

ここから約1時間かけてぐるっと回ってきました。硫黄の匂いがして、ここはカルデラの中みたいですね。

この風車はどういう意味があるのだろう?

比叡山・高野山とともに日本三大霊山といわれる恐山。地元では古くから「人は死ねば恐山に行く」と言い伝えられてきました。外輪山に囲まれた霊場は、外部からは見ることのできない途絶された場所。三途の川にかけられた太鼓橋を渡って霊域に入ると、死後の世界のような風景が広がります。極楽浄土を思わせる美しさの極楽浜、硫黄臭が立ち込める地獄谷、荒涼とした無間地獄、血の池地獄…。賽の河原には亡くなった幼い子供を弔うために両親が積んだ石や、くるくるとまわる風車があり、もの悲しさが漂います。

恐山菩提寺の創建は862年。慈覚大師円仁が夢のお告げに導かれ、諸国に教えを説いた旅の果てに、この下北の地に「恐山菩提寺」を開山したと伝えられています。

例年7月20日から24日に行われる「恐山大祭」と、10月上旬の連休に行われる「恐山秋詣り」には、イタコと呼ばれる巫女が死者の御霊を呼んでくれるとあって、多くの人達が列をなし、あの世からのメッセージを聞きに集まります。

                                              <ネットより>

奥之院 不動明王

極楽浜と宇曽利湖

人はみなそれぞれ悲しき過去を持ち賽の河原で小石積む?

血の池地獄

東日本大震災供養塔

ここが一番硫黄の結晶があった

宇曽利湖

宿坊もあり参拝者は無料で入れる風呂もあるらしい。仏壇へのお守り2つと御朱印もいただきました。

 

ここまで来たら本州最北端の大間崎まで行かなくては・・

津軽海峡の向こうには北海道が見える

先に小島がある(ズーム画像)

建物内にいたら老人ホームから電話が・・一瞬ドキリとしたが介護認定審査の日取りでした。何かあれば車預けて飛行機か新幹線で帰らなければならない。

下北半島をまた南下、途中、布海苔養殖発祥の地がありました。

風間浦鮟鱇というブランドがあるそうだ、鮟鱇は食べたことない。

青森の浅虫温泉道の駅で温泉に浸かったのはいいが、八戸の根城に寄るのを忘れた。90キロある。仕方ないけど戻らないといけない。ほっといたら東北に行った意味がない。城以外にも観光地に寄ってるからつい忘れた。青森で寝て翌日は八甲田山へ行くつもりだったがやめた。天気も悪そうだし・・代わりに十和田湖に寄ることにした。

目の前は海でいい湯だった。気分を変えて八戸へ・・道の駅「ろくのへ」で車中拍

 

 

 

 

 

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毛越寺~中尊寺~大谷翔平母校巡り~盛岡城

2024-06-09 22:31:47 | 東北城巡りの旅

毛越寺(もうつうじ)は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。

大泉が池

築山

開山堂

常行堂

つづいて中尊寺へ

天台宗東北大本山。850年、慈覚大師円仁の開山。
12世紀初め奥州藤原氏初代清衡公が前九年・後三年の合戦で亡くなった命を平等に供養し、
仏国土を建設するため大伽藍を造営しました。

中尊寺と言えば金色堂

金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で1124年(天治元年)、奥州藤原氏初代清衡公によって上棟されました。数ある中尊寺の堂塔の中でもとりわけ意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約された御堂です。

拝観料1000円を払って内部に・・撮影禁止、木で葺いた屋根以外すべて金箔が張られている

1962年から1968年にかけて解体修理が実施され、建立当初の姿に復元されている。解体修理後、強度の点で再使用できなかった部材は別途保管され、一部は覆堂内に保管されている。1986年から1990年にかけて、覆堂の改修工事が行われ、ガラスの壁も更新された。金色堂は1897年(明治30年)、当時の古社寺保存法によって「特別保護建造物」(現行法の重要文化財に相当)に指定。1951年、文化財保護法による国宝に指定された。

なお、金色堂については、しばしば「国宝建造物第1号」として紹介されるが、金色堂と同じく1951年6月9日付けで国宝に指定された建造物は他に36件ある。同日付けで国宝に指定された建造物のうち、地理的にもっとも北に位置する金色堂の指定番号が「1」になったものである。

源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、松尾芭蕉は門人の曽良と2人、「奥の細道」の旅に出ます。芭蕉46才、曽良41才の春です。江戸を発ってから44日後の5月13日、細道のはて平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居館があったと伝えられる高館の丘陵にのぼります。丘の頂きに忽然とあらわれるのは束稲山のふもとに悠然と横たわる北上川と、それに合する衣川。そこには往時の栄華はなく、旧跡は田野となってひろがっているばかりです。

夏草や 兵どもが 夢の跡

 「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という杜甫の句を思い起こしながら芭蕉はしばらく高館に笠を下ろします。続いて中尊寺を訪れた芭蕉は、かねてより伝え聞いていた金色堂に参詣します。鎌倉北条氏によって建てられたといわれる覆堂の中で、朽ち果てた金色堂はかろうじて光を投げかけます。

五月雨の 降り残してや 光堂

 金色堂を光堂と称したのも、仏と人との間に介在する光と、その光の彼方にある盛衰の歴史に、芭蕉のまなざしが向けられていたからに相違ありません。<ネット記事より>

 

平泉から盛岡城に向かう道の途中、奥州市、花巻市を通過する、奥州市と言えば大谷翔平の故郷だ。

世界のスーパースターの聖地巡礼?をしてみたくなってあちこち訪ねてみた。

田園地帯に「奥州市立姉体(あねたい)小学校」があった。車内から見ただけだが「頑張れ大谷先輩」の文字が・・

続いて「水沢南中学校」へ・・

大谷の名前こそないが、明らかに大谷の看板だ。

花巻市に入ると郊外に花巻東高校があった。

私立の大きな学校です。

学校の前に広い駐車場があり、そこに車を止め校内に入らず横道へ・・

訪ねてくる人も多い。京都からカーフェリーで東北に入り、南下しながら観光している夫婦もいました。

三重ナンバーも珍しいし・・

大きな手形です

外野にはスコアボードもあり専用グランドみたいです

今は授業中です

照明もある

ブロッコリーなどが植えてある。寮もあったから寮に入ってたのだろうか?

去年のホームラン王とMVPのモニュメント

野球だけでなく地元の学生が憧れる高校なんでしょうね。

 

盛岡城に向かう時、駐車場を探すとき二車線の一方通行に入ってしまいました。クラクションで知らせてくれましたが

わかり難い公園周り、結局地下駐車場しかなかった。入り口もわかりにくかったし・・

南部氏を祀る桜山神社

盛岡歴史文化館でチャグチャグ馬コやさんさ踊りのビデオをみた。東北地方の祭りはどこも見てみたい。

東北の城は震災で石垣修理をしているところが多い。

盛岡城は、三戸から不来方(こずかた)の地に居城の移転を決定した南部信直(なんぶのぶなお:盛岡藩初代藩主)が、慶長2(1597)年に嫡子利直(としなお:2代藩主)を総奉行(そうぶぎょう)として築城を始めたと伝えられています。

盛岡は石川啄木の出身地(不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心)

健康ランド「喜盛の湯」でカレーうどん、道の駅石神の丘で車中拍、5月21日から8日間の走行距離は1824キロ

 

 

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仙台城~多賀城~松島(瑞巌寺・圓通寺)~陸前高田(奇跡の一本松)

2024-06-08 22:31:27 | 東北城巡りの旅

仙台では駐車場で車中拍、早朝より仙台城へ・・

伊達62万石の居城、仙台城(青葉城)。標高約130m、東と南を断崖が固める天然の要害に築かれた城は、将軍家康の警戒を避けるために、 あえて天守閣は設けなかったといわれています。残念ながら今では城は消失し、石垣と再建された脇櫓が往時をしのばせます。政宗公騎馬像の前に立てば、天下取りの野望に燃えた政宗公と同じ視線で、市街を展望できます。

「青葉城」という雅称を持ち、宮城県護国神社は当地を「青葉城」または「青葉城址」と呼称している。一方、青葉山公園として当地を管理している仙台市は「青葉城(青葉城址)」ではなく「仙台城跡」と呼称している。2003年に国の史跡「仙台城跡」として登録される前は「仙台城址」とも呼称され、現在でも青葉通地下道の案内等に名残がある。このため同一の城跡でありながら複数の案内表記が存在しており、両者を併記する例も見られる。

護国神社

 

次に多賀城へ

多賀城は神亀(じんき)元年(724年)に大野東人(おおののあずまひと)によって創建され、陸奥国府(むつこくふ)と鎮守府(ちんじゅふ)が置かれました。
約900メートル四方という広大な城内の中央には、重要な政務や儀式を行う政庁がありました。
発掘調査成果をもとに環境整備が行われており、平城宮跡(奈良県)、太宰府跡(福岡県)とともに日本三大史跡に数えられています。

多賀城(たがじょう/たかのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。

奈良時代から平安時代陸奥国府鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。

次にしばらく城巡りからはなれて松島へ・・芭蕉が句に出来なかったほどの絶景だが、船には乗らない。志摩の海をみてるし・・瑞巌寺と円通寺にいきました。

瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。
 
9世紀初頭、慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっています。
13世紀中頃、鎌倉幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めています。

西国三十三か所の観音像が祀ってある。(最後の谷汲山華厳寺の十一面観音)

中門

次に円通寺へ・・

城の御城印は集めてないが、御朱印帳は持参している。

ずいぶん庭園の画像をUPしました。どれも捨てがたい。

松島や・ああ松島や・松島や

一路、陸前高田へ・・途中寄った道の駅・大谷海岸

「道の駅大谷海岸」の悲劇 道の駅大谷海岸は、 かつて、海水浴場のすぐそばに位置し、 直売所やレストラン、マンボウの水槽があり、賑わいを見せていました。 道の駅には、JR気仙沼線の大谷海岸駅が併設され、 「海水浴場に日本一近い駅」としても利用されていました。 2011年3月11日 東日本大震災 津波により大谷海岸の砂浜は消失し、道の駅は壊滅的な被害を受けました。 「砂浜を守りたい」地域住民の願い 震災後、またあの悲劇が起こらぬよう、 国は砂浜があった場所に、防潮堤の建設を計画。 地域住民と人生を共にしてきた、大切な居場所。 「砂浜を守りたい」 地域住民と自治体が団結し、 幾度となく協議を重ねてきました。 そして、ついに砂浜を残す計画に変更。 防潮堤を当初計画地より後方に建設。 そして、防潮堤の背後をかさ上げし、国道や土地を整備。 かさ上げした土地に、道の駅を建設しました。 

大理石海岸

来てみたかった陸前高田の奇跡の一本松

弧松巖上

赤松と黒松の交雑種で高さ27,5m、幹の直径約90cm

当時、高田松原には7万本の松林でした。今はりっぱな防波堤が出来ている。

この後、平泉まで走り、銭湯で疲れをとり道の駅で車中拍でした。

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山寺(立石寺)と仙台の夜

2024-06-07 20:59:09 | 東北城巡りの旅

城ばかりでない今回の東北の旅、山寺の名で通る立石寺(りっしゃくじ)にもぜひ行きたかった。

当山は宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。

当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。その後鎌倉期に至り、僧坊大いに栄えましたが、室町期には戦火に巻き込まれ衰えた時期もありましたが、江戸期に千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備されました。元禄二年(1689)には俳聖松尾芭蕉が奥の細道の紀行の際この地を訪れ、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の名句を残しました。

現在は約百町歩(33万坪)の境内を持ち、その中に大小30余りの堂塔が残され、三つの不滅(法灯・香・写経行)が今尚護られています。<HPより>

芭蕉と弟子の曾良

やっぱり中国人が多い(香港ですという声がきこえた)

奥之院

山門

こちらが芭蕉の弟子たちが建てた句碑

画像をいっぱいUPしたが、せみの鳴く時期に来ても閑さは感じられただろうか。

仙台市に到着、愛子天空の湯そよぎの杜・でお風呂の時間

夜は仙台の街に繰り出し、もつ煮と串セットで至福のひととき、ほんとは牛タンを食べるべきなんだが・・・・

 

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東日本大震災被災地~山形城

2024-06-06 23:16:23 | 東北城巡りの旅

郡山の健康ランド「まねきの湯」を6時半出発、東北に来たら訪ねたかった被災地、2011年3月11日から13年経過したが、原発の影響で復興はまだまだこれからです。

始めに浪江町に入りました。

浪江町役場は廃墟となってました。

9時からの開館まではまだ早いので入らず。

自然放射能の数値は0,05~0,08マイクロシーベルト/hだそうだ。まだ風評被害で海産物の輸入禁止をしている国がある。

回りにはまだ住んでる人はいないが神社は復活している。

この家も震災遺構として保存する話もあるそうだ(パトロールしている人が言っていた)

震災遺構・浪江町立請戸小学校・・200円払って内部へ・・

二階の部分まで津波がきた。

一階は跡形もない

請戸は永遠なり、とか、陸自がんばろう、とか書いてありました。

南相馬市にさしかかるとちょうどこの日は「相馬野馬追」の本祭り、一度見てみたいこの祭りは戦国合戦さながらの迫力、コンビニの店員さんに聞いてみると予約してないと無理らしい。行列ぐらいなら見れるかもと言ってたが本祭りでは無理だ、交通規制もしてるし、ユーチューブで我慢しよう。

山形城に向かう途中、村田町にある道の駅では三宅義信の銅像がありました。この町出身だったのか。

東京オリンピックのヒーローだった。自分もよく重量挙げのまねをした。

山形城の歴史は、羽州探題として山形に入った斯波兼頼(最上氏初代)が延文2年(1357)に築城したことに始まります。その後、最上氏11代の最上義光によって城郭の整備が行われました。現在の二ノ丸の堀や石垣は、最上氏の後、鳥居忠政によって改修されたものと伝えられています。姫路城よりも広い全国有数の規模の平城は、昭和61年(1986)国の史跡に指定されました。

最上義光公

次に芭蕉の句「静かさや岩にしみいるセミの声」で有名な山寺(立石寺)に寄ってきました。

 

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