藤岡市の遊園地のある道の駅で車中泊しました。夜明け時、寝てた人がたくさん、隣の駐車場では大型車が仮眠中
箕輪城址に早朝から行って8時前に役場支所にスタンプ押しに行ったら8時半だった。中に人がいるのにハンコ出してくれたらと思ったが役所だから仕方ないですね。
西暦1500年前後に長野氏が築城し、その後4代にわたって長野氏の本拠でした。武田氏の西上野侵攻に際して、長野氏はこの箕輪城を本拠にして最後まで抵抗しました。永禄9年(1566)に武田信玄に落とされるとその後は、武田氏(1566~1582年)、織田氏(1582年)、北条氏(1582~1590年)、徳川氏(1590~1598年)と次々と主(あるじ)を変えましたが、その度に各大名の有力家臣が城主として配置されています。特に最後の城主井伊直政(いいなおまさ)は、徳川家康の家臣のなかでは最大石高の12万石で封じられています。その8年後の慶長3年(1598)、井伊直政は城を高崎に移し、箕輪城は廃城になりました。
再現された虎口門
高崎に来たついでに少林山達磨寺へ・・
御朱印もらいに行ったら、簡単な写経と願いを書かされ、単なる御朱印集めではだめですよ、といったようなことを説法された。けどローソクもつけ、名前も読んだお経もあげてくれた。お参りに来た人が少なかったからいいけど、大勢の場合はまとめて読むんだろうか。
次に金山城へ・・
金山城は、戦国時代に造られた城で、金山全体の自然地形を利用して造られた「山城」という種類の城です。まだ天守閣がつくられるより古い時代の城であり、堀切や土塁・石垣など土木工事(普請)を中心とした遺構がよく残されています。
山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定を受けました。
次に足利氏館へ・・
足利氏館は平安時代末期、源義国によって築かれたものとされています。周囲に堀を巡らせ土塁を築いて邸宅としていました。
建久7年(1196年)、義国の孫にあたる足利義兼は館内に持仏堂を建て、御本尊に大日如来を祀ります。これが鑁阿寺の始まりです。
その後、鑁阿寺は足利氏の氏寺として着々と整備されていきます。本堂は義兼の子 義氏によって建立されました。
現在、足利氏宅跡は国の史跡に指定され、鑁阿寺の本堂は国宝に指定されています。<ネットより>
ついでに足利学校へ・・
足利学校の創建については様々な説があります。奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説。しかし、どれが正しい説であるかは現在も解明されていません。
足利学校の歴史が明らかになるのは室町時代中期です。上杉憲実が関東管領になると学校を整備し、書籍の寄進や庠主(校長)を招き入れ、学生の養成をしました。16世紀の初頭には生徒は三千人を数え、フランシスコ・ザビエルによって海外にも紹介されました。<ネットより>
入場料400円払ったら、入学証と学生証くれました。
その後一路、茨城県水戸市へ・・・健康ランドゆるうむ、でブログ更新しました。
誰もいないのでよかった。