はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

仙台城~多賀城~松島(瑞巌寺・圓通寺)~陸前高田(奇跡の一本松)

2024-06-08 22:31:27 | 東北城巡りの旅

仙台では駐車場で車中拍、早朝より仙台城へ・・

伊達62万石の居城、仙台城(青葉城)。標高約130m、東と南を断崖が固める天然の要害に築かれた城は、将軍家康の警戒を避けるために、 あえて天守閣は設けなかったといわれています。残念ながら今では城は消失し、石垣と再建された脇櫓が往時をしのばせます。政宗公騎馬像の前に立てば、天下取りの野望に燃えた政宗公と同じ視線で、市街を展望できます。

「青葉城」という雅称を持ち、宮城県護国神社は当地を「青葉城」または「青葉城址」と呼称している。一方、青葉山公園として当地を管理している仙台市は「青葉城(青葉城址)」ではなく「仙台城跡」と呼称している。2003年に国の史跡「仙台城跡」として登録される前は「仙台城址」とも呼称され、現在でも青葉通地下道の案内等に名残がある。このため同一の城跡でありながら複数の案内表記が存在しており、両者を併記する例も見られる。

護国神社

 

次に多賀城へ

多賀城は神亀(じんき)元年(724年)に大野東人(おおののあずまひと)によって創建され、陸奥国府(むつこくふ)と鎮守府(ちんじゅふ)が置かれました。
約900メートル四方という広大な城内の中央には、重要な政務や儀式を行う政庁がありました。
発掘調査成果をもとに環境整備が行われており、平城宮跡(奈良県)、太宰府跡(福岡県)とともに日本三大史跡に数えられています。

多賀城(たがじょう/たかのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。

奈良時代から平安時代陸奥国府鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。

次にしばらく城巡りからはなれて松島へ・・芭蕉が句に出来なかったほどの絶景だが、船には乗らない。志摩の海をみてるし・・瑞巌寺と円通寺にいきました。

瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。
 
9世紀初頭、慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっています。
13世紀中頃、鎌倉幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めています。

西国三十三か所の観音像が祀ってある。(最後の谷汲山華厳寺の十一面観音)

中門

次に円通寺へ・・

城の御城印は集めてないが、御朱印帳は持参している。

ずいぶん庭園の画像をUPしました。どれも捨てがたい。

松島や・ああ松島や・松島や

一路、陸前高田へ・・途中寄った道の駅・大谷海岸

「道の駅大谷海岸」の悲劇 道の駅大谷海岸は、 かつて、海水浴場のすぐそばに位置し、 直売所やレストラン、マンボウの水槽があり、賑わいを見せていました。 道の駅には、JR気仙沼線の大谷海岸駅が併設され、 「海水浴場に日本一近い駅」としても利用されていました。 2011年3月11日 東日本大震災 津波により大谷海岸の砂浜は消失し、道の駅は壊滅的な被害を受けました。 「砂浜を守りたい」地域住民の願い 震災後、またあの悲劇が起こらぬよう、 国は砂浜があった場所に、防潮堤の建設を計画。 地域住民と人生を共にしてきた、大切な居場所。 「砂浜を守りたい」 地域住民と自治体が団結し、 幾度となく協議を重ねてきました。 そして、ついに砂浜を残す計画に変更。 防潮堤を当初計画地より後方に建設。 そして、防潮堤の背後をかさ上げし、国道や土地を整備。 かさ上げした土地に、道の駅を建設しました。 

大理石海岸

来てみたかった陸前高田の奇跡の一本松

弧松巖上

赤松と黒松の交雑種で高さ27,5m、幹の直径約90cm

当時、高田松原には7万本の松林でした。今はりっぱな防波堤が出来ている。

この後、平泉まで走り、銭湯で疲れをとり道の駅で車中拍でした。

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