はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

松ヶ島城跡

2023-02-26 21:04:21 | お城巡り

伊勢西国巡りの帰りに松阪市にある「松ヶ島城跡」に寄ってきた。

何もない、小山があるだけだ。

安土桃山時代/松ヶ島町城ノ腰/指定面積:287平方メートル/昭和31年12月5日

 三渡川(みわたりがわ)右岸の海岸線から東へ500m、俗に天守山と呼ばれる1辺約20mのほぼ方形の台状地が、本丸天守台の跡と考えられている。永禄10年(1567)の頃、北畠具教はここ細首(松ヶ島の旧名)に築城するが、同12年、織田信長の来攻に際して自ら焼き廃城となったという。天正8年(1580)、具教の養子に入った信長の次男北畠信雄は同地に築城、松ヶ島城と改称した。その後、同12年に蒲生氏郷が入城し南伊勢支配の拠点として栄えたが、松坂城の完成とともに廃城となった。今も周辺には丸ノ内・城ノ腰・殿町・本町等の地名が残り、天目茶碗の出土も知られている。

向こうは伊勢湾

回りはハウスや畑、牛糞堆肥置き場でこの小山だけが「県指定史跡」なのか?車を止めるスペースにも苦労する。

ここに五層の天守が建っていたという。前の「田丸城」も後の「松坂城」も立派な石垣が残っているのに残念だ。

 

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賢明寺・観音寺・長谷寺

2023-02-26 20:22:03 | 伊勢西国三十三か所

伊勢西国観音巡りもだんだん北上します。今回は久居市と津市に行ってきた。

第13番、青龍山千手院賢明寺へ・・立派な仁王門だ。

◆由緒◆

 青瀧山千手院賢明寺は天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を奉じた行基によって開基されたと伝えられる。

 その後、延元三(1338)年、雲出川合戦の兵火にかかり、大伽藍の諸堂は煙と化したが、正平二十一(1366)年、北畠顕能公が国司に任ぜられると本尊に帰依され本堂をはじめ諸堂を建築し、北畠氏代々の祈願所と定められ、盛運に復した。

人形供養と子宝の寺です。本堂内にはたくさんの人形が飾られていた。

千手観音菩薩立像が祀られている。

鎌倉時代の五輪塔(弘安八年)

 

次に津大門観音寺へ・・

恵日山 観音寺(通称「津観音」)は、浅草・大須と並んで日本三観音の一つに数えられる古刹です。

庶民からは『津の観音さん』と親しまれ、その歴史は和銅2年(709)に本尊:聖観音菩薩像が
伊勢国阿漕ヶ浦の漁師の網に救い上げられたのが始まりとされています。

 

津観音は鳩がいっぱい

三重県唯一の五重塔

 

次に近田山長谷寺(ちょうこくじ)へ・・

長谷寺は、臨済宗相国寺派に属する三重県津市にある寺院です。山号は近田山(きんでんざん)、長谷寺と書いてちょうこくじと読みます。

 津市街の西方にある長谷山の南西中腹に位置し、麓の片田長谷町から続く参道を上りつめたところには毘沙門天と六観音の石仏があります。これらは藤堂高虎公が文禄年間に大陸よりもたらしたものと伝わっております。

 大和の長谷寺を模したものとして多気郡多気町にある真言宗山階派の近長谷寺に対し遠長谷寺とも呼ばれております。

毘沙門天

六観音・・・朝鮮出兵時に大陸から持ち出された

 

 

 

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湯道

2023-02-26 19:28:50 | 映画

映画を観てきた。

<ウイキペディアより>

湯道(ゆどう)とは花道茶道などの日本伝統文化の中に入浴という行為を入れるべきであるという考えまた日本伝統文化としての入浴の事である。2015年から小山薫堂が提唱している。給湯器メーカーであるノーリツは「日本人が当たり前の行為として疑わない「入浴」という行為に、改めて価値を」見いだすことを目的に、2018年より温泉などを紹介する「湯道百選」というウェブサイトを運営している。

映画のためにつくった言葉かと思ったが、入浴を極める道があったのだ。

自分も毎日入るというくらい風呂が好きだが、こだわりはない。ビールを美味しく飲むためかもわからない。

夏はシャワーでもいいからサッパリする為かも・・。寒い日、冷えた体を温めたときの痺れた感じの「アァ~~」という瞬間がたまらない。できれば毎日露天風呂に入りたい。

映画は銭湯を舞台にした様々な人間模様です。源泉かけ流しだけが温泉ではない。人間が作り出した「湯」も温泉なのだ。

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金剛座寺・近長谷寺・神宮寺

2023-02-12 21:19:51 | 伊勢西国三十三か所

多気町にある、伊勢西国第10番 摩尼山 金剛座寺に行ってきた。

当寺は、旧寺名を穴師(子)寺といい、寺史には白鳳2年(673)藤原鎌足有縁の草創という説と、白鳳9年(680)に鎌足の一子、不比等が開山したという2つの説がある。讃岐の四国八十六番札所志度寺の別当寺として十一面観音をご本尊にしていたという。持統7年(693)頃に不比等内妻の息子房前の母孝行に感銘を受け、房前が志度寺に母の姿として彫らせ奉納した如意輪観音を金剛座寺に遷座させ、行基菩薩開眼の上本尊にして内妻の菩提寺としたと伝えられており、「志度の観音さん」と呼ばれていた。<HPより>

テレビで常盤貴子が訪れていた寺だ。イラスト付きの御朱印を即興で書いてくれる住職がいる。

台風被害で今にも壊れそうな門で通れない。巨大な五右衛門釜が置いてあった。

住職がいない、御朱印が見当たらない、300円の書置き御朱印もない、近くにいるらしく電話番号が書いてある。電話してみると来てくれた。前住職のあとをつぎ、「楽健寺パン」工房でパンを焼いているらしい。そこにいたのかな? 呼び出してしまったのでイラスト付きの御朱印を書いてもらった。

染川智勇住職の許可をもらい書いてるところをパチリ、漫画好きが講じて書くようになったそうだ。

地蔵さんやダルマ、不動明王、何がいいか迷ったが今の時期、二月十五日はお釈迦様が入滅(亡くなった日)なので涅槃の絵がいいと言ってくれたのでそれにしました。

ご本尊の如意輪観音像も開帳してくれて有難く拝ませてもらいました。

 

続いて第11番 丹生山 近長谷寺(きんちょうこくじ)へ・・

ここから舗装されているがきつい坂道が続く、

<HPより>

当寺院は、仁和元年(885年)伊勢の国の豪族「飯高宿禰諸氏」が、人皇五八代光孝天皇の勅願所として、内外近親等に勧進して建立された、国指定重要文化財である本尊「十一面観音立像(像高6.6m)を、お祀りしております。

飯高氏は奈良時代、四代の天皇(元正聖武淳仁孝謙)に仕えた妥女「飯高諸高」を送り出した豪族で、諸高は、性甚謙謹・志慕貞潔・典従三位を賜り、宝亀八年(777年)八十歳で奈保山に葬られるまで、多気郡勢和村丹生から産出する「水銀」で富を築き上げた。(続日本記より)
 御本尊十一面観音は、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音(三体の仏像を一本の樟から造られたものと伝えられている)」のひとつとして広く知られ、全国に二百ヶ寺以上あるといわれる大和長谷型観音に属するもので、なかでも右手に錫杖を添える姿は、日本唯一のものである。

日曜は開帳してるはずだがしてなかった。黙ってたけど200円払って言わないといけなかったのか?近いからまた行ってみよう。

 

最後に第12番 丹生山 神宮寺(丹生大師)へ・・

仁王門

女人高野丹生山「神宮寺成就院」のホームページへようこそ!
 当寺院は、古くから「丹生大師」として親しまれ、弘法大師の師匠である勤操大徳が宝亀五(774)年に開山。後に、弘仁四(813)年、弘法大師よって七堂伽藍が建立されました。
 大師堂には、御大師自らが刻み安置されたといわれる、御本尊「弘法大師像(四十二歳の自画像)」のほか、「十一面観音」「不動明王」「薬師如来」「大日如来」などをお祀りしております。

寛永時代の鯱

護摩堂

本堂

大師堂に続く回廊

大師堂

弁財天と姿見の池(睡蓮池)

昔、近くに大師湯があったが今もあるのだろうか?

 

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一ノ瀬城跡(東の城・西の城)

2023-02-11 20:08:07 | お城巡り

我が町内にも城跡がある。他にもあっただろうが整備されているのは長原城と一ノ瀬城しか知らない。

<案内板より>

一ノ瀬城を本拠地とする豪族愛洲氏は、南北朝時代、南朝を支える勢力として活動していました。

延元二(1337)年、伊勢に下向してきた後醍醐天皇の息子”宗良(むねなが又はむねよし)親王を愛洲太郎左衛門らが一ノ瀬城に迎えています。

「延元二年夏頃、伊勢国一瀬といふ山の奥にすみはべりしに、郭公(ほととぎす)を聞きて深山をは ひとりな いてそ 時鳥(ほととぎす)われも都の 人はまつらむ」  ― 宗良親王の歌集「李花集」―

東の城跡には「一ノ瀬神社」が建っている。神社の裏手に東の城がある。

切り崩しの主郭壁、近世の城なら石垣を積むところだ。

空堀

主郭下

主郭

神宮遥拝所

見晴台にある「宗良親王御遺蹟」

見晴らし台

続いて「西の城」へ

長く連なる尾根には所々石止めがある。

空堀と土塁

西の城跡の主郭

この先、尾根に六条もの空堀が掘られている。

右奥に「向井将監屋敷跡」とあるが、誰だったのか?調べてみた。

  • 向(向井)氏の始祖は 源頼義・仁木太郎実国の後胤・仁木右京太夫義長の4男・四郎尾張守長宗とする清和源氏で 応永4年(1397)に「仁木」を改め「向」とし、さらに8代政綱のとき徳川氏麾下となり「向井」と改めた
  • 向氏は 仁木の時代から常に足利氏に従属し 応仁の乱(1467)においても 「向第4代長春」は伊勢国司北畠側にあった。 恐らく 伊勢国田丸城(現三重県度会郡玉城町岡村)の北畠水軍を統率する愛州氏に従属し 小浜氏らと共に伊勢大湊を本拠とする北畠水軍に関って 水軍としての力をつけたと思われる
  • そして 第7代正重のときに 伊勢国から駿河国に移って 今川氏の水軍となり 今川氏滅亡の後は 武田氏の水軍に加った
  • 正重は 駿河国(現静岡市駿河区用宗城山町)の持舟城で 徳川軍に敗れ亡くなるが その実子第8代政綱は 武田氏滅亡後に徳川水軍に誘われ 豊臣秀吉による北条攻めの先陣となった徳川軍にあって目覚ましい活躍をし 天正18年(1590)の家康関東入りでは 徳川水軍の筆頭となっていた
  • 政綱の子・忠勝は左近将監(初代将監)と名乗り、幕末まで代々「向井将監」と名乗った

伊勢国にいた向井家7代前か?9代忠勝以降の向井将監を名乗った人物か?

まあべつに詳しく知らなくてもいいが、立て看板に書いてあると誰か知りたくなる私です。

 

 

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御頭神事・久具都比売神社

2023-02-11 20:07:24 | 生活

旧正月過ぎの土曜日、江戸時代から始まる御頭神事がありました。今やコロナ禍にかかわらず、時代の流れで簡素化されているが地区唯一の無形文化財であり、なんとか継続してほしい。日本酒をお供えするのが一般的だが、缶ビールをお供えしました。みんなビールのほうが飲むかな?餅も一緒に供えるのが今までだが餅は今年は無しです。これも時代の変化です。来年は区の役員をするから世話役です。

地元にある伊勢神宮の摂社である「久具都比売(くぐつひめ)神社」に小学校以来か?思い立って行ってみた。

ここでも遷宮があるのか、隣りに空き地がある。

この近くに矢じりや土器が出てくる「森添遺跡」があり、遺跡と認定される前に探しに行ったことがある。

発掘調査のときは親父が参加し、石の斧を見つけたと自慢していた。

近くにある渡し船跡にも寄ってみた。今は「久具都比売橋」がかかり、とうに無くなったが、三重県でも最後の渡し船として記念の「テレホンカード」をもらったことがある。今でも探せばあると思う。左の石垣跡が船頭の待機小屋だった。ワイヤーを張ってそれを手繰りながら対岸へ漕ぐ、水深があったから。小学生ながら怖そうなおじさんの印象だった。

 

 

 

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岡寺山継松寺と柳原観音千福寺

2023-02-06 21:20:31 | 伊勢西国三十三か所

映画の帰り、松阪の「岡寺さん」と「柳原観音さん」に行ってきた。

<資料より・・日本最初の厄除観音の霊場>

天平15(743)年、聖武天皇の勅願により、行基が創建しています。大仏建立という一大事業が無事達成できるよう、この伊勢の地に祈念する伽藍を建てたのが寺の始まりです。その後、聖武天皇が42歳の厄年にあたる歳に、ここのご本尊を宮中にお祀りし供養したことから、厄除けの観音様として知られるようになりました。

現在の場所には蒲生氏郷が松坂城を築城し、城下町を整備する中で慶長17(1612)年に移ってまいりました。

来月の4日・5日、境内や参道は厄落としの老若男女と出店で大賑わいになることでしょう。

 

その後、柳原観音千福寺へ

真言宗の寺院で本尊は十一面観音菩薩で縁結びや安産祈願の参拝客が多い。地元では「やないばら観音」として親しまれている。2月と8月には大祭があり、火渡りの行事が行われる。(18日)

地元の元坂酒造の「八兵衛」で作られた酒まんじゅうも売られるそうだ。食べてみたい。

 

 

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レジェンド&バタフライ

2023-02-06 20:21:37 | 映画

109シネマで「キムタク」主演の映画を観てきた。ペアマンディ割引の月曜日、チケット購入するのに10分ぐらい並びました。8割くらいは中高年女性でした(観客は少ないが)。岐阜信長まつりに100万人の応募があった「キムタク」人気は50歳になった今でも健在です。まさに「レジェント」になるべき人物ですね。

映画は良かった。濃姫(帰蝶)を妻に迎えてから本能寺で死ぬまでを夫婦の視線から描いたストーリーでした。

濃姫のことは何も知らないが、実像はいかに・・・・

海のない美濃で育った帰蝶と南蛮渡来の物、人に興味があった信長は「天下布武」を成し遂げたあとには海を渡って外の世界に行ってみたかったのかもしれない・・・・坂本龍馬もしかり・・・・

 

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吉田城・二川宿本陣資料館・豊川稲荷

2023-02-04 23:26:14 | お城巡り

久しぶりに友人と城巡りに行ってきました。豊橋公園にある吉田城は1564年松平時代の家康公が、今川方の吉田城代小原鎮実を攻め、吉田城を攻略し、城主に酒井忠次をおきました。その後、羽柴秀吉配下にあった池田輝政が吉田城の城主となり大城郭を改造しています。その後、池田輝政は姫路城を築いています。<HPより>

鉄櫓(くろがねやぐら)・・天守はなかったが鉄櫓が天守と記されている古地図があるそうだ。

建築科の高校生が作った模型

豊川にかかる吉田橋は昔、瀬田の唐橋、矢作橋とともに東海道の三大大橋といわれた。

続いて「二川宿本陣資料館」へ・・

大名や公家など貴人の泊まる宿であった本陣は、旧東海道の宿場には2か所しか現存していません。

ひな祭りが近づいているためか、各部屋は雛飾りでいっぱい。こんなにたくさんの雛飾りは初めて見た。

手筒花びな・・豊橋は手筒花火でも有名だ。

御殿飾り

吊るし雛・・・一般庶民はこれが主流だったのだろう

御殿飾りと屏風飾りと歌舞伎飾りと内裏雛と陶雛

上段の間

隣接する旅籠屋「清明屋」

旧東海道沿いの「二川宿本陣」

帰るにはまだ時間があったので、ヤマサのちくわ本店で、ちくわと菜の花のてんぷら、コロッケ三種(蒲鉾入り?)を買った。ビールのお供に・・・

またまた帰りついでに「豊川稲荷」へ・・

ここは二礼合掌一礼だと思ったが、合ってるか?

狐塚に向かう途中は狐やのぼり旗の奉納でいっぱい 奉納金が気になる。

お稲荷さんの使いである狐の墓ということなのか?

お稲荷さんは本来、稲作、農業の神様だそうだが、衣食住、家内安全、商売繁盛、厄除など生活に密着した神様でもあるそうだ。家族の平穏無事をお祈りしました。

 

 

 

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