はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

多度観音堂・飛鳥寺・安渡寺・勧学寺・大福田寺

2023-11-19 16:01:17 | 伊勢西国三十三か所

いなべ市から桑名市多度町へ・・多度観音堂は多度大社の隣りにあり、ついでに多度大社へもお参りしてきた。

無人で御朱印は多度大社で受けた。昔は多度神社(大社)と多度神宮寺とともに平安、鎌倉、室町と発展してきたが信長の一向一揆討伐の兵火のため、共にすべて焼き払われたが、桑名の殿様本田忠勝公が多度神社を復興した。一方、神宮寺は手つかずのままで衰退していった。

明治になって観音堂が作られ、千手観世音菩薩・十一面観世音菩薩・弥勒菩薩・役行者・満願禅師位牌と木造写真が安置されている。(パンフレット抜粋)

多度大社は来たことがあるがほとんど記憶にない。いつだったかも忘れた。

左本宮に天津彦根命(天照大神の御子神)右別宮に天目一筒命(天津彦根命の御子神)を祭る。

神馬舎の白馬がクビを上下に振っていたので百円で人参をあげました。

上げ馬神事の坂は動物虐待だと問題になり、2mが1mになったみたいです。

続いて飛鳥寺(ひちょうじ)へ・・

飛鳥寺(ひちょうじ)は京都にある世界遺産、東寺を本山とする東寺真言宗のお寺です。

飛鳥寺の歴史

延暦十三(794)年

大和国の生駒山周辺より黄金の花瓶(けびょう・十一面観音の持物)を喰えた霊鳥が、現在地より2km山中の坊ケ谷に飛び来たりて美声にて仏法を説きました。

その噂を聞きつけた弘法大師がこの地にお越しになると霊鳥が十一面観音に変化なさいました。その姿を見た弘法大師は先程感得されたお姿を一刀三礼して等身大の御尊像を刻み草庵に安置しました。霊鳥が飛来した寺という事で「飛鳥寺(ひちょうじ)」と名付けられました。

 その後、寺運は大いに栄え、寺域一里半、寺領千石、十二の坊舎が並ぶ密・律・禅の名刹となりました。元亀二(1571)年

織田信長の伊勢長島の一向一揆攻略により全山灰燼に帰し、わずかに小堂一宇を残すのみとなりました。<HPより>

慰霊社(先の大戦で亡くなられた方をお祀りしている)

桑名市街の向こうに虹がかかってた。天気いいのに。

次に安渡寺(あんどじ)へ・・

お堂の前ではオバさんたち四人が抹茶をたてていた。住職の奥さんが茶道をしているのだろうか?

次に勧学寺(かんがくじ)へ・・

ここは戦国時代に矢田城があったところで、織田信長によって滅ぼされましたが、桑名藩主・松平定重によって跡地に本堂が再建。
現存する寺社建築としては桑名市で最も古いと推測されます。

天井には龍でも描かれていたのだろうか?わからない

アマビエのぬいぐるみがあった。寺の人か?寄贈か?

次に大福田寺(だいふくでんじ)へ・・

聖徳太子創建と伝えられる真言宗のお寺。山門は江戸時代建立といわれています。毎年2月3日には節分祭、4月2日には桑名聖天大祭が行われ、伊勢大神楽の奉納が行われます。

この寺のご本尊は155cmの引阿弥陀如来だが、他にも・・・・・・・↓

神宝聖天尊

大聖歓喜天尊と称し、十一面観世音菩薩と毘那夜迦天(びなやかてん)の合体佛にて陰陽和合の根元を表し、福徳開運、敬愛和合にもっとも霊験あらたかな、ほとけさまです。

大福田寺に安置されている聖天尊は、徳川幕府の治世中、名実ともに屈指の大政治であった松平定信公の念侍佛です。古来より日本三大聖天のひとつと称せられ、広く全国に信者をもち、「桑名の聖天さん」として親しまれています。

聖観世音菩薩

俗に「合わせ観音」と呼ばれています。その昔、稽文會、稽主勲という高麗(朝鮮半島にあった国)の兄弟佛師が東西に別れて住んでおりましたが、互いが霊夢により聖観音像の半身をそれぞれ彫刻し、のちに二人が再開の折、その半身づつの観音像を合わせたところ、寸分の狂いも無く一体の霊像になったと伝えられる佛像です。

厄難除不動尊

文殊菩薩

三面大黒天

大福田寺には上記ほとけさまの他、魚籃観音、不動明王、十一面観世音菩薩、毘沙門天王、稲荷大明神など多くの神仏が安置されています。        <HPより>

勧学寺の御朱印も大福田寺でいただきました。いろんな神仏があるもんですね。伊勢西国が番外にあるのは十一面観世音菩薩があるからだろうか。

ブログ作ってるといろいろ勉強にもなります。すぐ忘れるけど・・・・。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖宝寺(しょうぼうじ)

2023-11-19 15:11:15 | 伊勢西国三十三か所

伊勢西国三十三か所巡りも残り、いなべ市と桑名市5寺、今日6か所すべてまわって結願となりました。

鳴谷山聖宝寺(めいこくさんしょうぼうじ)は、ご本尊に十一面千手観音菩薩を安置する、臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の禅寺です。
平安初期、大同二年に天台宗の開祖・伝教大師最澄大和上(でんぎょうだいしさいちょうだいわじょう)によって開かれた寺です。七堂伽藍を有する広大な境内には、多くの修行僧が居り、日々修行に励んでおりました。そんな中、戦国の動乱期には、僧兵を持つようになりました。
 歴史の流れに、この寺も巻き込まれていきます。元亀(げんき)・天正(てんしょう)の戦国時代に、織田信長の家臣・滝川一益(たきがわかずまさ)によって員弁攻略の軍勢がこの地の豪族を討ち、郡内の主立った寺院を焼き討ちしていきました。聖宝寺も、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の流れを持つ寺でありますので、徹底した焼き討ちをうけ、伝教大師以来の伝灯(でんとう)七百年の歴史を閉じることとなりました。時に天正(てんしょう)八年二月のことでありました。
 その後徳川中期、万治元年に鼎(かなえ)の龍雲寺(りょううんじ)の和尚が奮闘し、桑名で坐禅会を開いておられた大圓宝鑑愚堂禅師(だいえんほうかんぐどうぜんじ)にお願いし、因縁開山(いんねんかいさん)になって頂き、再興しました。そして、現在に至っております。<ネットより>

紅葉見物もと思って行ったが少し早すぎた。

当寺院の庭園は、藤原期の造庭と推測され、庭園の大部分は造庭当時そのままで保存されております。また、池には回遊式と築山式があり、回遊式の大きい池は別名浄土池と呼ばれ、浄土の世界を表しています。

鳴谷(なるたに)の滝・・・落差10メートルと段滝

イチョウも伊勢では黄色づいているのに、もう少し先にすればよかった。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勅願院観音寺・垂坂山観音寺・長興寺・宝性寺・慈眼寺

2023-09-04 21:27:14 | 伊勢西国三十三か所

長らくご無沙汰してた伊勢西国巡りを再開しました。6月下旬以来だ。今年は特に暑い、あと6か所桑名と員弁、1日で達成だ。そのあとは鈴鹿セブンマウンテンが目標になる。残り三座、そのあとは・・・城巡りになるけど、本格的に行くのはやはり仕事をやめてからでないと無理になる。来年春になったら区の役員仕事も終わり、バイトもやめるつもりでいる。

年金だけになるので城巡りの旅も節約との戦いになる。車で寝泊まりするか・・・・。仕事やめれば時間はたっぷりある。

温泉巡りの嵐山光三郎・呑み鉄の六角精児・とうちゃこの火野正平・五木寛之の百寺巡礼など全国をめぐる旅にあこがれる。お金は無いが行けないこともない。何回かに分けて行こう・・。先ずは足を踏み入れたことがない東北へ・・・・

 

どこかの家族の法要が始まる前に住職に御朱印を押してもらう。

こちらに四足八鳥如意輪観世音が祀ってある。

如意輪観音坐像 画像を拝借

補陀洛山(ふだらくざん)勅願院観音寺は、港に出現した如意輪観音を信仰した聖武天皇が737年に創建したお寺で、後奈良・正親町・後陽成の三天皇天皇の勅願所(天皇の命令によって鎮護国家などを祈願する場所)となっていた事も、寺名の由来となっています。

寺が創設に由来する如来輪観音の像は、今も本堂で祀られており、頭が8つ、脚が4本の霊鳥に乗った観音像で、四足八鳥(しそくはっちょう)観音と呼ばれ、全国でも唯一無二の存在である事より、1992年に県の指定有形文化財に登録されています。

また徳川家康が、徳川家の「三葵」の使用を許した事より、徳川家が深く信仰したことでも知られているお寺です。

伊勢西国三十三所観音巡礼 第25番」         <ネットより>

次に垂坂山観音寺へ

国指定重要文化財の慈恵大師像が祀ってある。(命日が正月三日なので元三大師ともいわれている)

西国三十三か所もお参りできる。

次に富田山長興寺へ・・

富田駅近くの街中で中も見れない。鍵がかかってて隣の家で開けてくれとお願いするのか?入り口横に御朱印があって押せたけど、せめてガラス越しでも中が見たかった。

次に宝性寺へ・・

本堂は市の文化財になっている。

カーナビで住所検索で来たが、寺の名前が違ってた。長明寺となってたので不思議に思ったが隣りだった。

昔はここは蒔田館という城だった。この寺は堀で囲まれている。

堀で囲まれた長明寺(昔はもっと水堀は広かった)

蒔田城は蒔田相模守宗勝の居城として知られています。その後、春日部家春の居城となり、織田信長による北伊勢侵攻の際に滝川一益に滅ぼされました。現在城址は浄土真宗本願寺派・長明寺の境内になっており、周囲には水堀が残っています。

蒔田城ネットから拝借

最後に慈眼寺

慈眼寺の奥之院である尾高山観音堂も伊勢西国のひとつだが、御朱印がここにあったので押してきたが観音堂には行かなかった。場所がわからなかったけど帰って調べたら車で近くまで行ける。六角堂で雰囲気がいいと口コミに出ている。行けばよかった。

また釈迦ヶ岳に行くからその時に寄ろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円福寺・宗徳寺・野登寺・荒神山観音寺

2023-06-23 23:10:38 | 伊勢西国三十三か所

林光寺の続きです。鈴鹿市から亀山市の円福寺へ・・

京都の黄檗山万福寺の末寺で明治に住職のいない寺となり、平成7年に火災で本堂、十一面観音を焼失した。新たに聖観世音菩薩を安置し現在に至っている。

二世の菩提樹の木、葉は心臓の形をしてるらしい。

よく見れば左右対称ではない。

誰もいなくて自分で御朱印を押しました。300円はちゃんと箱の中へ・・。

次に宗徳寺へ・・

近くの路上に車を止め歩いていく。(間違って民家の庭に入ってしまった)山の中腹だがわかりにくかった。

御朱印をもらいに住居に行くと、お堂に上がらせてくれ、ペットボトルのお茶までくれた。

話好きの住職か、というより次の寺までの地図をくれたり、亀山の観光案内をくれたり、宗徳寺を紹介した記事のコピーをくれたり、世話好きの人ですね。やさしい感じの人でした。

次に鶏足山野登寺(やとうじ)へ・・

ここは下寺と上寺があって上寺は標高852mのところにあるらしい。だから紹介してくれたのか。行っても不在で外から見るだけなので行かなかった。

山頂には野登寺上寺があり、

山号を鶏足山といいます。千百年もの昔、人皇第六十代醍醐天皇は夢の中で

伊勢国鶏足山野登寺の菩薩の不思議なお告げを受けられ勅使を遣わした、その勅使が山の麓で道に迷って

難渋していると、何処からともなく「三本足の鶏」が飛んできて勅使の裾をくわえると山頂まで導きました。

到着した勅使は、この山のたたづまいに心を打たれ立ち尽くしていると

そこに翁が現れ、勅使をお堂の中へと案内しましたそこには、眩いばかりの神々しい、

神作の千手観音様がおりました、勅使はたいそう驚き、案内された翁を探しましたが見つからず

あの翁こそ千手観音様のお姿に違いないと、一心に伏し拝みすぐさま下山し帝にお知らせしました。

勅使の報告を受けられた帝は、ご霊夢が正夢であったかと驚嘆され

遥か鶏足山の方を合掌礼拝されました。仙朝上人を中興開山として遣わされ

仙朝上人は延喜年、全国各地より銘木を集め諸堂伽藍の建立に取り掛かり延喜十年四月七日に

落慶法要を厳修されました。するとその年は五穀が良く稔ったので、それ以来

毎年四月七日を縁日として祭礼を行っております。

youtubeで上寺へ・・

伊勢西国三十三ヶ所観音霊場 三重四国八十八ヶ所霊場         鶏足山野登寺

鈴鹿市に戻り、荒神山観音寺へ・・

当山は,真言宗御室仁和寺派に属し,前述のように住吉は神事山(かうじかやま)といい,後に高野山の一字をいただいて高神山と改めました.

俗に荒神山と書いて,次郎長伝吉良の仁吉で全国にその名が知らされています.

 

荒神山の喧嘩

荒神山の喧嘩は,慶応2年4月8日神戸の長吉(ながきち)と,桑名の穴太徳(あのうとく)が縄張り争いから,この観音寺の裏山で200人前後の身内を投入,入り乱れての死闘をつくしました.

三州吉良港の仁吉は長吉の頼みに応じ,子分の松阪の米太郎,清水の次郎長のの身内の大政,樋屋の鬼吉らと共に戦い,穴太徳に大勝しました.しかし,この戦いで仁吉は,28才の若さで兇弾に倒れ死亡しています.

昭和26年3月,浪曲界の重鎮広沢虎造師により,追悼碑が境内に建てられています.

また、境内の鐘楼堂には、当時の銃弾の痕が残っています.

ここが決闘地か?

この辺りか?
 

春日局とのかかわり

出羽国湯殿山の修験者順海上人が寛永10年(西暦1640年)伊勢大神宮へ参詣の途中,眼疾を患い,失明しました.伊勢大神宮に開眼の志願をしたところ,夢枕に神童がたち,この神事山の十一面観音菩薩像に祈願せよとのおつげがあり当山に参拝して7日目,開眼することができました.

以来上人は,余生を御本尊に専心奉仕を決意し,修法怠らないで献身しました.

またその姿を見て,姉にあたる春日局が正保4年(1647年)仏恩奉謝のため湯殿山に勧請して,日天,月天,地天,三宝荒神4体を銅仏に鋳立てて,当寺に寄進しており,中でも三宝荒神は,最も不浄を忌み火の清浄を愛するところから竈(かまど)の神様として有名で,暴悪を治罰する神徳から正義が祈られ,勝運が願望されています.

春日局の碑よりも吉良の仁吉の碑を見てくるの忘れた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子安観音寺と林光寺

2023-06-22 21:45:18 | 伊勢西国三十三か所

久しぶりの伊勢西国三十三か所めぐり、山友と鈴鹿マウンテンに行く予定だったが天候不順で取りやめ、急遽、寺巡りにひとりで行ってきました。

残るは鈴鹿、四日市、桑名方面、今回は6か所も行ってきた。

先ずは白子山観音寺、別名「子安観音」として有名です。安産・子授け・子育ての霊場で平日にもかかわらず夫婦、女性の参拝客がけっこういました。

元禄16年の仁王門

 

鎌倉様式の金剛力士像は、花のような乳首とバツ印のへそ、肋骨だか筋肉だかの胸が力強い。

智慧の塔(三重塔)

国の天然記念物「不断桜」

この不断桜は伊勢型紙の創始説もある。

この地で作られた着物の染め型の伊勢型紙は今日、彫り師の芸術作品として後世に伝えられている。我が家の仏壇上の家紋額も伊勢型紙で作ってもらった。若い時に仕事でお世話になった「大杉華水」氏の作品があった。今は孫の「大杉華桜」という人が継承している。

 

続いて林光寺へ・・

通称えんま寺、本尊の千手観世音菩薩は国指定重要文化財です。

堂内にはお経が流れ、女性の人が火のついた線香を2本くれたのであげてきました。

安土桃山時代の天井画や極彩色の柱、壁画、須弥壇の彫刻はこの人が教えてくれなければ見れなかったかも・・。

フラッシュ撮影でなければ見えなかった。

国宝の千手観世音菩薩も見たかったが、8月16日のえんま会式が開扉の日です。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初馬寺・密蔵院・府南寺・蓮光寺

2023-04-16 22:53:30 | 伊勢西国三十三か所

久しぶりの投稿です。4月から区の役員、しかも区民のお金を預かる会計を任されるので大変です。何年か前に書記をしてもういいと思ってたのに、経験者としてまた声がかかりました。昔の組制度がまだあるのでこれからの時代、新しく区民になった世帯は誰も組内に入ろうとしません。何の得もないからです。隣り近所と仲良くしても区民としてはかかわりたくない。これも時代の流れだから仕方ない。早く防災班のような自治会制度に移行してみんな平等に区の行事にかかわらないと・・・これから誰も区長になりたがらないだろう。報酬金額が多いと別だが・・・区費の徴収件数を調べてたら450件ほどあった。これから家が建つたびに増え続ける。組外が増え続ける。若い世代の人よ、なんとかしてくれ<(_ _)>

さて、落ち着いたので久しぶりに伊勢西国巡りを再開しました。

公民館掃除が終わって10時過ぎから津市の第17番、初馬寺へ・・

津駅前にある蓮光院、通称初馬寺(はつうまでら)・創建614年。御本尊は聖徳太子42歳の厄年に自ら刻んだと伝わる馬頭観世音菩薩。 重文の大日如来・阿弥陀如来との三尊は3月初午の日に御開廟され、厄除け祈願の参拝者で賑わいます。

ご本尊にお供えしたおさがりの、苦を離れ楽を願うという栗らくがん。をいただきました。

水掛魚籃観音、伊勢津の七福神巡りの場所でもある。

若かりし頃、津駅前の営業所で6年半働いたことがある。当時の飲み屋はまだあるのだろうかと少し散策した。「おつかれさま」という居酒屋はすでに無いが「鳥佐」という焼き鳥屋はまだあった。昼間なので閉まってたが40年前になるだろうか?警察に努めてた幼馴染と一緒に飲みに行き、連れてきた同僚が「陽なたグソの順ちゃん」なぜかというと表面は固いが中身は柔らかい。いい人間だということだ。この言葉はよく覚えている。食べた串の数で清算、飲み物はビールの焼酎割だ。懐かしいな。カレー焼きの看板がまだあった。買ってみようと近くまでいったが閉まってた。棒状の小麦粉でくるんだ饅頭のような、たい焼きのような。カスタード入りもあったな。懐かしい、もう40年にもなるか・・・・

次に第16番・白山蜜蔵院へ・・

その昔、当寺領を一帯を白山といい、津藩二代藩主藤堂高次(在職1630~69)が白山妙理大権現祈願所としていた。寛文年中(1661~73)高次が病魔に冒され苦しんだ時、阿闍梨朴心に病気平癒の祈祷を命ぜられた。朴心は三密加持の秘法を修し祈祷を続けたところ、病は忽ちにして平癒したので高次は大いに喜び、朴心に白山の土地を与え、この寺を創立させ念持仏を祀ったといわれる。
 これが当山の始まりである。明治初年に本堂裏山境内に四国八十八ヵ所霊場(小堂)が造立された。本尊は千手観世音菩薩。<HPより>

境内に八十八か所霊場もある。ここが津駅を眼下にするところにあるとは・・・

ここでも飴玉が4つ入った袋をいただきました。神饌のおさがりか。

次に鈴鹿市の府南寺(ふなんじ)に行った。

狛犬がいる。

当山は、聖徳太子(574~622)の開創(物部守屋討伐のため皇大神宮への戦勝祈願地)と伝えられ、推古天皇(554~628)の勅願所となり、その後行基(668~749)により修栄され聖武天皇(701~756)の勅願所にもなる。

    弘法大師(774~835)が諸国巡錫の折りに当山に立ち寄り本尊に感嘆し、それ以降真言の教えを受け継ぐ寺院となる。天正の兵災後、泰平山無量寿寺(本尊は国府阿弥陀如来)と補陀落山府南寺(本尊は国府千手観世音菩薩)が合併して泰平山府南寺となる。<HPより>

昔は立派な仁王門だったろうが今はコンクリートだ。

運慶作といわれる国の重要文化財なので大事にされている。

もう一か所、亀山市に近かったので、元19番「蓮光寺」へ・・

榊宮山(しんぐうさん)とあるが、昔は神仏習合の寺で伊勢神宮内宮とゆかりがあってその名残りだ。

 

山門のとなりに切支丹灯篭が建っていた。キリスト教も受け入れていたのかな?

せっかく亀山まで来たのでこの後、伊勢亀山城跡にも行ってきました。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

賢明寺・観音寺・長谷寺

2023-02-26 20:22:03 | 伊勢西国三十三か所

伊勢西国観音巡りもだんだん北上します。今回は久居市と津市に行ってきた。

第13番、青龍山千手院賢明寺へ・・立派な仁王門だ。

◆由緒◆

 青瀧山千手院賢明寺は天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を奉じた行基によって開基されたと伝えられる。

 その後、延元三(1338)年、雲出川合戦の兵火にかかり、大伽藍の諸堂は煙と化したが、正平二十一(1366)年、北畠顕能公が国司に任ぜられると本尊に帰依され本堂をはじめ諸堂を建築し、北畠氏代々の祈願所と定められ、盛運に復した。

人形供養と子宝の寺です。本堂内にはたくさんの人形が飾られていた。

千手観音菩薩立像が祀られている。

鎌倉時代の五輪塔(弘安八年)

 

次に津大門観音寺へ・・

恵日山 観音寺(通称「津観音」)は、浅草・大須と並んで日本三観音の一つに数えられる古刹です。

庶民からは『津の観音さん』と親しまれ、その歴史は和銅2年(709)に本尊:聖観音菩薩像が
伊勢国阿漕ヶ浦の漁師の網に救い上げられたのが始まりとされています。

 

津観音は鳩がいっぱい

三重県唯一の五重塔

 

次に近田山長谷寺(ちょうこくじ)へ・・

長谷寺は、臨済宗相国寺派に属する三重県津市にある寺院です。山号は近田山(きんでんざん)、長谷寺と書いてちょうこくじと読みます。

 津市街の西方にある長谷山の南西中腹に位置し、麓の片田長谷町から続く参道を上りつめたところには毘沙門天と六観音の石仏があります。これらは藤堂高虎公が文禄年間に大陸よりもたらしたものと伝わっております。

 大和の長谷寺を模したものとして多気郡多気町にある真言宗山階派の近長谷寺に対し遠長谷寺とも呼ばれております。

毘沙門天

六観音・・・朝鮮出兵時に大陸から持ち出された

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金剛座寺・近長谷寺・神宮寺

2023-02-12 21:19:51 | 伊勢西国三十三か所

多気町にある、伊勢西国第10番 摩尼山 金剛座寺に行ってきた。

当寺は、旧寺名を穴師(子)寺といい、寺史には白鳳2年(673)藤原鎌足有縁の草創という説と、白鳳9年(680)に鎌足の一子、不比等が開山したという2つの説がある。讃岐の四国八十六番札所志度寺の別当寺として十一面観音をご本尊にしていたという。持統7年(693)頃に不比等内妻の息子房前の母孝行に感銘を受け、房前が志度寺に母の姿として彫らせ奉納した如意輪観音を金剛座寺に遷座させ、行基菩薩開眼の上本尊にして内妻の菩提寺としたと伝えられており、「志度の観音さん」と呼ばれていた。<HPより>

テレビで常盤貴子が訪れていた寺だ。イラスト付きの御朱印を即興で書いてくれる住職がいる。

台風被害で今にも壊れそうな門で通れない。巨大な五右衛門釜が置いてあった。

住職がいない、御朱印が見当たらない、300円の書置き御朱印もない、近くにいるらしく電話番号が書いてある。電話してみると来てくれた。前住職のあとをつぎ、「楽健寺パン」工房でパンを焼いているらしい。そこにいたのかな? 呼び出してしまったのでイラスト付きの御朱印を書いてもらった。

染川智勇住職の許可をもらい書いてるところをパチリ、漫画好きが講じて書くようになったそうだ。

地蔵さんやダルマ、不動明王、何がいいか迷ったが今の時期、二月十五日はお釈迦様が入滅(亡くなった日)なので涅槃の絵がいいと言ってくれたのでそれにしました。

ご本尊の如意輪観音像も開帳してくれて有難く拝ませてもらいました。

 

続いて第11番 丹生山 近長谷寺(きんちょうこくじ)へ・・

ここから舗装されているがきつい坂道が続く、

<HPより>

当寺院は、仁和元年(885年)伊勢の国の豪族「飯高宿禰諸氏」が、人皇五八代光孝天皇の勅願所として、内外近親等に勧進して建立された、国指定重要文化財である本尊「十一面観音立像(像高6.6m)を、お祀りしております。

飯高氏は奈良時代、四代の天皇(元正聖武淳仁孝謙)に仕えた妥女「飯高諸高」を送り出した豪族で、諸高は、性甚謙謹・志慕貞潔・典従三位を賜り、宝亀八年(777年)八十歳で奈保山に葬られるまで、多気郡勢和村丹生から産出する「水銀」で富を築き上げた。(続日本記より)
 御本尊十一面観音は、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音(三体の仏像を一本の樟から造られたものと伝えられている)」のひとつとして広く知られ、全国に二百ヶ寺以上あるといわれる大和長谷型観音に属するもので、なかでも右手に錫杖を添える姿は、日本唯一のものである。

日曜は開帳してるはずだがしてなかった。黙ってたけど200円払って言わないといけなかったのか?近いからまた行ってみよう。

 

最後に第12番 丹生山 神宮寺(丹生大師)へ・・

仁王門

女人高野丹生山「神宮寺成就院」のホームページへようこそ!
 当寺院は、古くから「丹生大師」として親しまれ、弘法大師の師匠である勤操大徳が宝亀五(774)年に開山。後に、弘仁四(813)年、弘法大師よって七堂伽藍が建立されました。
 大師堂には、御大師自らが刻み安置されたといわれる、御本尊「弘法大師像(四十二歳の自画像)」のほか、「十一面観音」「不動明王」「薬師如来」「大日如来」などをお祀りしております。

寛永時代の鯱

護摩堂

本堂

大師堂に続く回廊

大師堂

弁財天と姿見の池(睡蓮池)

昔、近くに大師湯があったが今もあるのだろうか?

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡寺山継松寺と柳原観音千福寺

2023-02-06 21:20:31 | 伊勢西国三十三か所

映画の帰り、松阪の「岡寺さん」と「柳原観音さん」に行ってきた。

<資料より・・日本最初の厄除観音の霊場>

天平15(743)年、聖武天皇の勅願により、行基が創建しています。大仏建立という一大事業が無事達成できるよう、この伊勢の地に祈念する伽藍を建てたのが寺の始まりです。その後、聖武天皇が42歳の厄年にあたる歳に、ここのご本尊を宮中にお祀りし供養したことから、厄除けの観音様として知られるようになりました。

現在の場所には蒲生氏郷が松坂城を築城し、城下町を整備する中で慶長17(1612)年に移ってまいりました。

来月の4日・5日、境内や参道は厄落としの老若男女と出店で大賑わいになることでしょう。

 

その後、柳原観音千福寺へ

真言宗の寺院で本尊は十一面観音菩薩で縁結びや安産祈願の参拝客が多い。地元では「やないばら観音」として親しまれている。2月と8月には大祭があり、火渡りの行事が行われる。(18日)

地元の元坂酒造の「八兵衛」で作られた酒まんじゅうも売られるそうだ。食べてみたい。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝林寺・金胎寺・田宮寺・国束寺

2023-01-30 22:18:14 | 伊勢西国三十三か所

伊勢西国巡礼は始まったばかりでまだ近くばかり、昼からでも四か所行ける。

先ずは伊勢市御園町の第七番・宝林寺へ・・

 

ごく普通の田舎寺だ。この地区は昔、大岡越前守忠相も務めた「山田奉行所」があったところです。地元では小林観音(おはやしかんのん)として親しまれていた。

人の気配はなかったが勝手に記帳し、賽銭を入れ、御朱印を押してきた。

続いて鳥羽市の第六番・金胎寺(こんたいじ)へ・・

当寺観音院の本尊は黄金の秘尊を腹蔵した一丈一尺の千手観世音菩薩です。今から1200年前の天長年間、弘法大師が伊勢両宮ご参籠の後、朝熊岳金剛證寺に修禅されてからこの地に杖を止め、開眼されたものと伝えられています。(資料より)

弘法大師

ここに立派なお堂でも建っていたのだろうか?

四国八十八か所の祠のようなものがあった。

ここから鳥羽市街、海が見える。

続いて玉城町の第四番・田宮寺へ・・

ここの「十一面観世音菩薩」は夫婦観音として二体が祀られる。国指定重要文化財だ。

<HPより>

当寺の創建について寺伝は、行基が伊勢神宮参籠のおり、聖武天皇の勅命を受けて神亀2年(725)9月に神宮法楽寺として「陰陽両体神法楽の本尊十一面観音の尊像は、行基菩薩並びに神人変化の御作」になる二体の観音様をお祀りし、建立したものと伝えています。その後、帰朝した空海が当山にしばらく逗留して神護景雲年中(767~770)火災により焼失した殿堂楼門を落成し、寺運隆盛を極めたことから、弘法大師を中興の祖と仰いでいます。

境内には本堂の他、大師堂・天神・御船殿・聖天堂・不動堂・大日堂などの建物や東之坊光儀院という塔頭がありましたが、明治維新の神仏分離令によって明治2年(1869)に廃寺となり、聖天堂・庫裡を残し建物は取り壊されました。本尊の十一面観音立像2躯は平安時代前期の作とされ、共に総高167㎝の桧一木造り・木眼、1躯には彩色があり、1躯は漆箔が残っています。大正4年国宝に指定、昭和25年に重要文化財に指定されています。現在は残された聖天堂に移され、お祀りされています。

 

最後に地元の国束寺(くずかじ)に行ってきた。

中学の時の校歌にも出てきた「国束山」の山頂にあったが、今は礎石しかない。

<HPより>

國束寺は、推古天皇9年(601)聖徳太子様が皇大神宮の「伊勢神宮の西にある国束山山頂に十一面観音像を安置し、国土安穏を祈念せよ」との神勅に従い、鎮護国家の寺、国家安泰を祈願する寺として始まりました。

 その後、聖武天皇や嵯峨天皇、またこの地域の国司であった北畠氏による篤いご信仰により、山内に六院百三十二坊を有する大寺院に発展し、弘法大師空海がこの地を訪れた際にはこの山を『胎蔵界曼荼羅の山』と称嘆なされたと伝えられております。

平安~鎌倉~室町期には密教の一大修行道場として発展した国束寺でありましたが、戦国時代、織田の伊勢攻めにより山内の堂塔伽藍は全て灰燼とされてしまいます。

 江戸時代になるとこの地域を治めた紀州徳川家や藤堂高虎公の帰依により寺領を賜り、延宝2年(1674)紀州藩二代目藩主徳川光貞公により観音堂荒神堂が再建され、天台宗國束寺として再興しました。民衆からも『くづかさん』と親しまれ、山麓の人々から信仰されました。その時の住職である見明上人を國束寺中興の祖師とし、現住職信順で十七代目を数えます。

その後、明治時代の神仏分離令(廃仏毀釈)や、戦後のGHQによる農地改革によって衰微を余儀なくされ、山頂での寺院維持運営が困難であると判断し、昭和28年(1953)本尊と観音堂、聖天堂は戦災で伽藍を失った大阪四天王寺へ移築し、その他のお堂や建物は国束山南麓の現在地に移築。現在の國束寺は四天王寺から代わりとして譲られた十一面観音立像を本尊としてお祀りし、宗派も天台宗から和宗(総本山四天王寺)に改めて寺院を護持しております。

地元にもこんな大きな寺があったんだと調べてみてわかりました。またあらためて礎石を確認しながら登ってみたい。

陶仏堂のなかにはなぜか「スターウオーズ」に出てくる「ヨーダ」がいました。

誰かが寄進したのか陶仏堂については何も書かれてない。

現在の本堂(旧荒神堂

本堂内にはご本尊十一面観音立像のほか、胎蔵会大日如来、歓喜天、如来荒神、妙見菩薩、不動明王、天神様、天狗様、浅間神(富士権現)をお祀りしてございます。

天井には昭和55年当時の檀信徒の方々が書かれた絵を天井画として揚げております。
子供たちの絵やプロの絵、当時の世相を描いた物など様々な天井絵が心を和ませます。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする