はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

伊勢亀山城跡と伊勢上野城跡

2023-04-17 22:49:06 | お城巡り

伊勢亀山城は、文永二年(1265)亀山市若山町に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1537)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった.

天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。
 また、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したた伝えられるが真偽のほどは定かでではない。
 寛永一三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700㍍・南北500㍍に及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、東出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が設けられた。

城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延了享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることとなる。
 明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多聞櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多聞櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築とした昭和二八年(1953)に三重県指定文化財に指定された。 

 

前に来た時は漆喰にもひびが入っていたがきれいに塗り直されていた。

唯一残る多聞櫓内

古写真には三重櫓、二の丸御殿、大手門、京口門が写っている。

本丸周りはきれいに整備されている。

二の丸、三の丸などは学校が建っており、SL機関車も展示されている。どこも同じだね。

帰路、津市河芸町の伊勢上野城跡にも寄りました。

地元にとっては残念な記事がウイキペディアに出ていた。

歴史[編集]

元亀元年(1570年)、織田信包津城(安濃津城)の仮城として分部光嘉に築城させた天正8年(1580年)、津城の完成により、信包が居城を移したため、分部光嘉が城代となり、文禄3年(1594年)に信包が近江へ改易になると、光嘉が城主に任ぜられて独立した城となった元和5年(1619年)、光嘉の養嗣子光信近江国大溝藩へ移封となったため、廃城となった

なお浅井長政が滅亡の後、長政の妻であるお市の方と娘の茶々は信包に預けられ、一時この城で過ごしたと言われてきた。しかし、近年の研究によると、当初、お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市達の叔父である織田信次であることが明らかとなっており、上野城に滞在していたとされるのは誤りで、守山城(尾張国)で過ごしていたのが正しいとされる(『溪心院文』)

本丸跡に建つ展望台と資料館、(資料館は3時までで入れなかった)

本丸広場にある相撲場

二の丸にあるアスレチック

関宿方面

伊勢湾に近い。新緑がきれいでした。

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 初馬寺・密蔵院・府南寺・蓮光寺 | トップ | 江戸城跡 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

お城巡り」カテゴリの最新記事