はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

新発田城~清水園~足軽長屋~春日山城

2024-06-13 00:38:46 | 東北城巡りの旅

道の駅「加治川」から新発田城へ

最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。代々新発田氏の居城となっていたが、天正9年(1581年)、新発田重家上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。天正15年(1587年)、景勝方の攻勢により新発田城は落城。大名としての新発田氏は滅亡した[4]

その後上杉氏会津転封に伴い、慶長2年(1597年)、溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封。新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行っていった。城が完全な形となったのは承応3年(1654年)、3代宣直の時代といわれる。その後寛文8年(1668年)、享保4年(1719年)に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度に再建されている。<ウイキペディア>

表門

二の丸隅櫓

本丸と二の丸の約半分は廃城令後、陸軍省の管轄となり、昭和28年からは陸上自衛隊が駐屯し、現在に至ります。

なので三階櫓には入れない。

赤穂義士堀部安兵衛は新発田に生まれました。18歳で江戸に出て、高田馬場の決闘の助太刀によって名を挙げました。

 

この後、弥彦山に行って佐渡島を見る予定だったが雨でやめた。代わりに新発田市内観光をしました。

蔵春閣・・この日、市民お茶会があちこちで開催されてて中に入れませんでした。

「蔵春閣(ぞうしゅんかく)」は1912年(明治45年)、新発田出身の大実業家である大倉喜八郎翁によって、東京の隅田川沿いにあった向島別邸内に建てられた迎賓館で、政財界の大物や海外の賓客がもてなされていました。

大倉喜八郎が創立し経営に腕を振るった企業には、今なお残っているものだけでも、大成建設、サッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、日清オイリオ、あいおいニッセイ同和損保、特種東海製紙、リーガルコーポレーション、ニッピ、日本化学工業、東京製綱、日本無線、本渓鋼鉄公司(中国)などがあります。<ネットより抜粋>

次に清水園(旧新発田藩下屋敷大名庭園)

ここでも市民お茶会で武家屋敷、茶室には入れませんでした。

小雨で風情がありました。

新発田藩資料館、堀部安兵衛伝承館、清水谷蔵所資料館

次に旧新発田藩足軽長屋

狭い玄関

この後、上越市の春日山城跡へ・・

戦国時代の名将・上杉謙信公の居城として知られる春日山城跡。国の指定史跡であり、日本百名城にも数えられています。
複雑な自然の地形を巧みに利用した春日山城の堅固な城塞は、難攻不落の天下の名城といわれました。現在も、空堀や土塁、大井戸など山城の特徴が残ります。屋敷や空堀が展開する山の裾野に、延長1.2kmにも及ぶ堀と土塁で総構が築かれている点が大きな特徴です。(総構散策マップ 総構を歩く)
標高約180mにある本丸跡からは、日本海や頸城平野、それを取り巻く山並みをも一望できます。
また、春日山城跡の中腹には、昭和44年の大河ドラマ「天と地と」放映にあたり制作された、上杉謙信公の銅像があります。<公式サイトより>

春日山神社 (祭神は上杉謙信公)

春日山神社より駐車場を見る。

三の丸まで80m・二の丸まで200m・本丸まで330m

二の丸より上越市を望む

帰りは千貫門コースで下った。

毘沙門堂(謙信公が出陣前に戦勝を祈願した所)

春日山城から富山市へ・・・・いよいよ北陸まで南下、目標は達成したのでこのままどこへも寄らずに帰ってもいいが

今夜は富山市のスパ・アルプスへ・・・昼はすき家のねぎ玉牛丼、夜は生中とカレーうどんで最後の夜を迎えました。

 

 

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