【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

美のイデア

2018-02-17 18:58:54 | Weblog

 「美しい人」「美しい顔」「美しい仕草」「美しい言葉」「美しい思い出」「美しい友情」「美しい動物」「美しい風景」「美しい夜空」……これらに共通する「美のイデア」って、どんなものなんでしょうねえ?>プラトンさん。

【ただいま読書中】『ビビを見た!』大海赫 作・絵、 ブッキング、2004年、1800円(税別)

 なんとも「強烈」な絵本(絵+文章)です。
 生まれつき目が見えないホタルは不思議な声を聞きます。「正午から7時間だけ目が見えるようにしてやろう」。そしてその声の通り、ホタルは目が見えるようになります。しかし、その代わりのように、ホタルのまわりの人びとは皆目が見えなくなってしまったのです。
 目が見えるのは7時間だけ。ホタルは貪るように「世界」を見ようとします。しかし、ホタルが住むニジノ市は「敵」に襲われます。ホタルとお母さんは、汽車に乗って避難しろ、という命令に従います。しかし「敵」はニジノ市を踏みにじり、汽車を追ってきます。
 その客車の中で、ホタルは「ビビ」を見ます。
 いやもう、なんという展開。なんという波乱。なんというスリル。なんという不条理。そして、なんという哀しさと悦び。
 目が見える最後の時間、ホタルは「自分が見たかった一番美しいもの」を見つめます。もうすぐ見えなくなる目に焼き付けるように。そして……
 心の中に「美しいもの」があれば、人は強く生きられる、ということかもしれませんが、こんな真っ当で弱々しいメッセージを伝えようとしている本ではありません。もっと「強烈」です。私は子供の時にこんな本に出会うことがなくて、ある意味幸せだったのかもしれません。もしそんなことがあったら、私の人生は今とは絶対に違っていたでしょうから。



保守派のリクツ

2018-02-16 18:16:21 | Weblog

 夫婦別姓について、「選択できるようにする」に賛成が40%を越えて過去最高、選択に反対が30%を切った、というニュースが少し前にありました。で、法相は「国民の意見が大きく分かれているから、慎重な検討が必要」と選択的夫婦別姓の導入には反対の姿勢を示しました。
 選択的夫婦別姓に断固反対の人は、日本国憲法改正に賛成する人とけっこう重なるのではないか、と私は想像しています。「保守派成分」が強ければそうなりそうですから。で、別姓では「自分たちが少数派でも、国民の意見が大きく分かれている場合は現状を変えてはならない」と主張するのだったら、憲法改正でも同じ主張をするのかな?とちょっと気になりました。憲法について「国民の意見は大きく分かれて」いますよね? それとも「もし自分たちが多数派だったら、少数派は踏みにじって強行しても良い」と?

【ただいま読書中】『ホワット・イフ? ──野球のボールを光速で投げたらどうなるか』ランドール・マンロー 著、 吉田三知世 訳、 早川書房、2015年(17年19刷)、1500円(税別)

 著者のウェブサイトに投稿された突拍子もない質問の数々。著者は「ばかげた質問にきちんと答えようと努力することで、物凄く面白いことが見えてくるのだ」と真摯に答えたものの中からセレクトされた「楽しい質疑応答」の本です。
 タイトルにある「野球のボールを光速で投げたらどうなるか」は、厳密には「光速の90パーセントの速さで投げられた野球のボールを打とうとしたら、どんなことが起りますか?」という質問でした。著者は「バッターには(そしてピッチャーにも)気の毒な結果になる」とまず述べます。
 まず前提は、ピッチャーの手を離れた瞬間(どうやってかは知りませんが)ボールは(徐々に加速するのではなくて一気に)光速の90%の速度を獲得する。するとそのボールがホームベースに到達するのは約70ナノ秒後。
 ここで私もちょっと自分の脳みそを使ってみることにします。このスピードだと、超音速による衝撃波が発生するでしょう。これだとたしかにバッターとピッチャーには気の毒なことになりそうです。だけど、それだけかな?
 そこでまたページに目を落とすと、1ナノ秒ごとの考察で驚愕の事態が発生しているではありませんか。いやいや、これは大惨事です。そして、洒落たオチ。いや、たしかに野球規則ではそうなるんでしょうけれどね。
 著者は非常にサービス精神が旺盛なようで、一見くだらない質問にでも過剰なくらい厳密に科学的に論理的に数学的に学際的に微に入り細にわたり答えようとします。この回答一つをするために、どのくらいの基礎教養が必要だろう、と感心することもしばしば。著者に対するのと同時に、こういった「面白い質問」をする人たちにも私は感心します。どんなにくだらない質問に見えても、好奇心は知性の発露の一つの形ですから。
 ちなみに私のお気に入りの質問は「暴風雨に含まれる水分がすべてひとかたまりになって落ちてきたらどうなるか」です。その答は、直径1km以上の水の塊が音速の半分の速度で地面に激突。これ、すごいことになりそうです。近くにいたくはありませんけれど、著者はなんとその「水滴」の中で泳ぐ人のことまで想像しています。



右左

2018-02-15 22:21:52 | Weblog

 私から見たら右翼も左翼も似たようなものです。どちらも、全体主義的だ、という共通点を持っています。

【ただいま読書中】『文部省の研究 ──「理想の日本人像」を求めた百五十年』辻田真佐憲 著、 文藝春秋(文春新書1129)、2017年、920円(税別)

 文部省は明治以来150年間ずっと「理想の日本人像」を教育を通して実現しようとしてきました。だから他の組織が文部省に介入し続けています。戦前は内務省、戦中は陸軍省、敗戦後の占領中はCIE、高度成長期は自民党や日経連、最近は首相官邸。
 明治政府は「日本の近代化の基礎は教育」と認識していて、1871年9月2日(廃藩置県の4日後)に湯島(昌平坂学問所の場所)に文部省を設置しました。ここで文部省は「理想の日本人像」に関して「欧米列強(グローバリズム)」と「日本固有(ナショナリズム)」に板挟みされることになります(実は現在までそれは続いています)。
 ここで「グローバリズム(本書では「普遍主義」)」があくまで「欧米列強」で、アフリカやアジアや中南米やオセアニアが最初から除外されていたこと、「ナショナリズム(本書では「共同体主義」)」が明確に定義されていなかった(そもそも「江戸時代」を否定していた)こと、この二つが「理想の日本人像」をぼやかせることになった、と私は考えています。
 文部省の前身は1869年に設置された大学校(現在の大学と文科省を併せたような組織)ですが、ここは「国学派」「儒学派」「洋学派」のすさまじい内部対立できちんと機能しませんでした。新生文部省の文部大輔(トップの文部卿に次ぐナンバーツー。ただし最初は文部卿は空席だったので実質的ナンバーワン)に就いた江藤新平は、わずか半月の在任期間に洋学派の教官や事務官を多数登用し、文部省を「洋学派の牙城」にしました。彼らはただちに「學制(教育法令)」を整備し始めます。その前文に示された「理想の日本人像」は「国家に依存せず、自力で身を立て、生計の道を図り、仕事に打ち込む、独立独歩の個人」でした。さすが「洋学派」です。同様の主張は『学問のすすめ』にも見えています。しかし士族の乱と予算不足と明治政府のあまりに中央集権主義的な態度に対する批判などから、学制はすぐに見直しを迫られました。1879年にはアメリカを手本とした「教育令」がまとめられます。これは、地方の裁量と私学の存在を認め、国家の押しつけではなくて自分で考える独立独歩の個人育成を目指す、自由主義的なものでした(「自由教育令」とも呼ばれています)。世間でも「自由主義」「啓蒙」がもてはやされます。それに対する「反動の狼煙」はまず宮中で上がりました。「教学聖旨」で天皇は儒学の復活を唱えます。その意向を受け、さらに自由民権運動に対抗するために、政府は中央集権的な教育体制を是とし、教育令を「自由主義」から「干渉主義」に改正します。教育の義務化の強化、「修身」を科目の筆頭として採用、教科書の国家統制などがその目玉です。そして、国民に「尊皇」「愛国」をたたき込む手段として、音楽や体操が注目されました。そして、啓蒙主義でも儒学主義でもない教育方針が求められるようになり、そこで出現したのが「教育勅語」でした。これは、「個人を近代国家の道徳に結びつけること」が目的で、特定の立場を利することがないように工夫されたため、かえって多義的な解釈を許す文言となっています。この勅語が示す態度を東京日日新聞は「国体主義」と呼びました。本来これは「明治時代の『理想の日本人像』を示すための、異なる主義者たちを満足させるための暫定的な宣言」だったはずですが、「勅語(天皇の言葉)」であることから神聖視・絶対視されるようになっていきます。しかし、多様な解釈ができるものが「絶対」になると、あまり良いことは起きません。
 「日本が大国になっていったこと」「勅令主義」などにより、文部省の弱体化が始まります。朝鮮独立運動の発生により「他民族にも通じるように教育勅語を修正するべきではないか」と言う人が登場しますが、この人がばりばりの国粋主義者なんですから、「独立運動の衝撃」はとても大きいものだったようです。
 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と、戦争ごとに「理想の日本人像」は揺らぎます。そして時代は昭和へ。文部省は「思想官庁」として共産主義などの「危険思想」に対峙することを求められます。そこで文部省は直轄の国民精神文化研究所(精研)を1931年(昭和六年)に設立して、マルクス主義に対抗できる「国体観念」「日本精神」を構築することにしました。この研究部で究明された「国体、国民精神」は事業部によって教員の再教育と学生の教育に注ぎ込まれました。
 本書で紹介される「国体の本義」は、大仕掛けな理論体系ですが、論理や史実にはアラが目立つものです。ただ「その時代に役に立つもの」という点では及第点が取れるものだったのでしょう。この壮大なイデオロギーが一度構築されると、こんどはそれが全てを縛っていき、教育勅語も「国体」によって再解釈をされるようになります。なんか本末転倒な気もしますけどね。こうして、戦争直前にアメリカから来た特派員(先月末に読書した『トーキョー・レコード』オットー・D・トリシャス)が理解困難で悩んだ「八紘一宇」の思想も確立し、国定教科書は第五期改訂となります。
 そして、敗戦。「時代に合わせて『理想の日本人像』をさぐること」に長けている文部省は、当然のように「時代の変化」に適応しようとします。「軍国主義の払拭」「民主・平和国家」「黒塗り教科書」です。しかしGHQはその程度の自主改革には満足せず、明治以来の教育制度に大きな揺さぶりをかけてきます。ただ、GHQも教育勅語には触ろうとしませんでした。というか、その権威を利用しようとしたフシがあります。また文部省も、GHQの権威を利用して、戦前にはできなかった教育改革を推進しようとしていました。キツネとタヌキの折衝、と言った感じでしょうか。「アメリカの押しつけ」と片付けたら簡単ですが、文部省もけっこうしたたかに立ち回っています。
 独立後、文部省の大きな仕事は、日教組の押さえ込みでした。冷戦の政治情勢まで利用しつつ、「監督官庁」として文部省は少しずつ中央集権的な権能を取り戻していきます。高度成長期には「勤勉で愛国的な企業戦士」が理想像です。しかし成長が鈍化すると、また「理想の日本人像」に改めてスポットライトがあたり教科書問題などが発生します。
 本書では「普遍主義」と「共同体主義」の相克が150年間継続されていて、文部省がその間で右往左往していることがわかりやすく描かれています。つまりは「理想の日本人像」とは時代が決めるもので、教育はそれを普及させる機能を持っている、ということ? 著者は「紋切り型の反動批判とワンパターンな愛国教育の二者択一は、いつの時代も有益な議論につながらない」と言います。私は歴史から学んだその意見に賛成です。



戦う相手

2018-02-14 20:07:03 | Weblog

 夏のオリンピックでは、アスリートは「他のアスリート」「記録」と戦っているように見えます。大変です。冬のオリンピックでは、それに加えて「過酷な自然環境」(寒さ、雪、突風など)とも戦わなくちゃいけないので、もっと大変そうですね。

【ただいま読書中】『石巻ボランティアハウスの橋本ごはん』橋本信子/INJM 著、 セブン&アイ出版、2013年、1600円(税別)

 「3・11」の直後、自宅の片付けを手伝いに来てくれて泥まみれになったボランティアたちのために「自分に何かできることは」と思った橋本さんは「何か食べさせてあげる」ことを始めます。はじめは夏みかんを剥いたものとかインスタントのコーヒー。自宅の台所は使えないから、七輪、ポータブルガスコンロ、最後にはブロックを積んでかまどを作ってしまいます。毎日新しいことに挑戦してメニューはどんどん進化。ボランティアはなぜか橋本さんの家を“基地"として使うようになり、機材を置かせてもらったり食事をしたり。そこで橋本さんはボランティアのために6箇月間毎日(一日も欠かさず)食事を作り続けました。平均30人ですから、30×30×6食です。ご本人は「だって、楽しかったんだもの」とけろり。食費のために「これだけは絶対に手を付けないでおこう」と貯めていたお金にも手を付けてしまったそうですが「だって、ほんとうにありがたかったんだもの」とやはりけろり。こういった人は、催促されなくても応援したくなるんでしょうね。
 フルタイムの仕事を東京でし、夜行バスで被災地に駆けつけ続けたボランティアもいますが、「すごいご飯が食べられる」のが疲弊した体に染み渡るエネルギーになっています。家の泥出しをしても、達成感は乏しい。だけど、皆で集まってわいわい言いながら笑いながら食事をして地元の人の「今日は窓がきれいになって嬉しい」とかの話を聞いていたら、それがエネルギーになっていったそうです。
 で、その「橋本ママの絶品料理」のレシピがずらりと並んでいます。見ると、みりん・醤油・砂糖などがたっぷり入っています。おそらくミシュランの星はもらえないでしょうが、でも、ミシュランは被災地などには最初から入らないでしょうからその評価は無視して良いでしょう。被災地で、被災者とよそからやって来たボランティアが、笑いあいながら「美味しい」と言える料理が「ごちそう」なんだろうな。たぶん、このレシピ通りに我が家で料理を作っても、橋本ごはんのような「美味しさ」を味わうことはできないでしょう。あのごはんの“隠し味"を徹底的に欠いていますから。
 ボランティアの中には「橋本ごはん」で人生が変わった人もいます。たとえば被災地に継続的な支援をするために西荻窪に「石巻やきそば」を看板メニューにした店をオープンした人。本当は橋本ママの「きゅうりと鶏肉のラー油漬け」を出したかったようですが、どうしてもあの美味しさが再現できないから、オリジナルの石巻やきそばで勝負することにしたそうです。これは実はほんの一例。他にもたくさん「ごはんで人生が変わった人」がいます。
 本書の著者のところにある「INJM」はイギリス人のジェイミーという人が被災地で始めたブログ「It's Not Just Mud」(ボランティア活動の報告や、言葉がわからない外国人ボランティア志望者の連絡先として機能)から発展してできたボランティア組織です。ジェイミーもまた東北の家庭料理に“やられてしまった"一人のようです。



血液が先か吸血鬼が先か

2018-02-13 20:24:43 | Weblog

 もちろん血液が先でしょう。ただ、動物が進化して血液が発生するまでの間、吸血鬼(の祖先)は何を吸って生きていたのでしょう?

【ただいま読書中】『吸血鬼伝説 ──ドラキュラの末裔たち』仁賀克雄 編、原書房、1997年、1845円(税別)

目次:「黒の啓示」カール・ジャコビ、「血の末裔」リチャード・マシスン、「炎の十字架」レスター・デル・リー、「吸血鬼の村」エドモンド・ハミルトン、「心中の虫」シリル・M・コーンブルース、「狼女」バセット・モーガン、「夜だけの恋人」ウィリアム・テン、「影のない男」シーバリー・クイン、「アヴロワーニュの逢引」クラーク・アシュトン・スミス、「墓からの悪魔」ロバート・E・ハワード、「お客さまはどなた?」オーガスト・ダーレス、「わたしは、吸血鬼」ヘンリー・カットナー、「聖域」A・E・ヴァン・ヴォークト、「マント」ロバート・ブロック、「会合場所」チャールズ・ボウモント

 本書に集められた作者の全てを知っているわけではありませんが、知っている人の名前を見るだけで「これは、きっと、すごいぞ」と私は呟きます。作者のラインナップがすごければ、作品もきっとすごいだろう、と単純に期待しているのです。
 実際、読んでいると、堪能できます。ただ、かすかな不満が。
 こういった短編は読者が感じる「ショック」も持ち味の一つです。登場人物がかすかな不安や不信を持ちつつ行動していて、ある人が(あるいは自分自身が)吸血鬼であることに気づく「ショック」ですが、吸血鬼アンソロジーだと、最初から誰かが吸血鬼であることが前提ですから、この「ショック」が減殺されてしまうのです。これはちょっと残念。ただ、そのハンディキャップを乗り越えて、新たな「ショック」を与えてくれる作品もちゃんとあります。さらに完全な「ハッピーエンド」の作品まで。これは別の意味で「ショック」でしたね。



株価の変動

2018-02-10 07:25:53 | Weblog

 アメリカで長期金利が上昇したことを理由として株価が急落、そのあおりで日本の株価まで下がってしまいました。これで私は3つのことを思いました。
1)アメリカの株価が下がっても日本の実体経済には変化はないのに、どうして日本まで一緒に株価が下がる必要があるんだろ?
2)これは、日本で金融緩和をやめたら株の大暴落が起きる、ということ? となると「デフレを脱却」したとしてもアベノミクスを終了できなくなるのでは?
3)株価が上がっているときは胸を張って「自分の手柄だ」と主張している政治家は、下がったときには何を言うのかな?

【ただいま読書中】『ビーグル号世界周航記 ──ダーウィンは何をみたか』チャールズ・ダーウィン 著、 荒川秀俊 訳、 築地書館、1975年、1700円

 本書はダーウィンの著書からの児童向けに抜粋・編集された「What Mr. Darwin saw in his Voyage round the World in the Ship "Beagle"」を翻訳したものです。古風な銅版画も豊富に含まれ、良い味の本となっています。講談社学術文庫からも発行されていますが、図版のことを思うと大きい本の方が良いかな。
 まずは南米で出会った動物たち。馬、騾馬、牡牛、犬、猿、グァナーコ(野生の駱馬(らま))、ピューマ、昆虫などが次々登場します。著者はそのどれに対しても、とても楽しそうに描写を続けます。
 次の章は「人類」。最初は「未開人」なのですが、そこのさし絵が「砂漠のライオン」「さい」なのが笑えます。フェーゴ人(グッド・サクセス湾)、インディアン(北アメリカ)、オーストラリアの原住民なども登場します。ダーウィンが人類学者だったら狂喜乱舞だったでしょうが、博物学者・進化論者としては「人も自然にある観察対象の一部分」でしかなかったようです。もしかしたら「文明人」もまたそういった「一部分」でしかなかったのかもしれませんが。実際にこの章には「チリー人」「スペイン人」も登場しますが、それに対する描写の態度は「未開人」とほとんど無差別です。
 地理の章で「チリーの地震」が大きなスペースを占めています。1835年2月20日に著者は大地震を経験してひどく驚きました。この地震によって発生した津波で、チリの沿岸は大きな被害を受けましたが、住民の目撃証言や著者のリアルな目撃談もあります。また、「大地震と火山噴火」の関係についても重要な示唆があります。津波の被害とその土地の近くの海の深さとの関係についての考察を著者がしているのも、鋭い、と感じさせられます。プレートテクトニクスなどについての知識がなくても知性があれば、いろんなものに気づくことができるようです。そして、こういった考察の積み重ねから仮説のブレイクスルーがもたらされるのでしょう。
 進化論で重要な役割を果たしたフィンチは登場しません。ただ、「ダーウィンという人」について、本書から様々なイメージを得ることができました。昔の本でも、子供向けの本でも、読む価値がある本は、読む価値があります。



読むと読める

2018-02-09 07:14:19 | Weblog

 「何を読む」を決めるのは、自分です。でも、「何が読めるか」を決めるのは、流通です。
 ただ、昔の「流通」は「書店の店頭」「書店で注文」「近くの図書館」「近くの古書店」だったのが、最近は「ネット書店」「ネット古書店」「ネットでつながった図書館」まで利用できるようになって、「読める本」の範囲はずいぶん広がりました。読書にとってもネットはありがたいものです。

【ただいま読書中】『復刊ドットコム奮戦記』左田野渉 著、 築地書館、2005年、1700円(税別)

 日本では毎年7万点以上の書籍が出版されています。しかし書店のスペースは限られているため、せっかく並べられても短期間であっさり返品、倉庫で保管されますが、やがて断裁、品切れ、絶版。つまり本は「出版されたらすぐ買わないと、二度と手に入らない商品」になってしまったのです。日販の王子流通センターには「品切れ本への注文」が毎月7万点あるそうです。しかし「ないもの」は送れません。そこで「絶版本への注文をオンデマンドで出版する」ブッキングという会社が1999年10月に設立され、著者はその責任者に任命されました。
 はじめは出版社からコンテンツを預かってオンデマンドで少量出版する、という方針でした。しかしこれでは大赤字(社員6人で月商16万円、ということもあったそうです)。そこで様々な試みをして「インターネットで読者の希望を募る」方向に著者らは進むことにします。2000年6月「復刊ドットコム」の設立です。投票を始めて著者は驚きます。入手困難な専門書が票を集めると思っていたら、コミックや文庫、ゲームの攻略本が人気なのです。茫然としたまま3箇月。白泉社が三原順の『かくれちゃったのだぁれだ』の復刊協力を申し出てくれます。集まった票数は90だったのに対して出版数は500。ところがこの復刊第一号が、1週間で完売(最終的に2000冊以上売れました)。
 絶版になるにはいろんな理由があります。たとえば差別語。『ダルタニャン物語』はこのために絶版だったのですが、著者らは訳者の著作権継承者と交渉して許諾を取り、翻訳に若干の修正を加え、出版をしてしまいました。
 『藤子不二雄ランド』は元々は中央公論社から刊行されていた301巻の大全集です。問い合わせをすると「復刊は難しい」。だったら自分たちでやろう。ただ「A」本人からは快諾だったのですが「F」の方は関係者の意見が揃わず、『藤子不二雄(A)ランド』149巻の復刊となりました。ブッキングにとっては、会社の存亡がかかる復刊です。じっくり2年間準備をして、ついに刊行。その結果は……
 本書には,「復刊できた本、漫画、写真集」などの個別の紹介、交渉の難しさ(そもそも絶版になったのには、それぞれの理由があるのです)などが具体的に紹介されています。ただ、インターネットのおかげで入手困難だった本に手が届くようになったのは、ありがたいことです。「どうしても読みたい」場合に、国会図書館まで行かなければならない、というのはちょっと避けたいですから。



核兵器今昔

2018-02-08 07:04:00 | Weblog

 昔「きれいな水爆」
 今「小さな原爆」

【ただいま読書中】『真説 鉄砲伝来』宇田川武久 著、 平凡社新書、2006年、800円(税別)

 「鉄砲伝来」は「1543年種子島に漂着したポルトガル人によって……」と私は日本史で習いましたが、その根拠は慶長十一年(1606)の『鉄炮記』という書物です。著者は「本当?」と疑問を投げかけます。半世紀も後の文献だし、日本各地への伝播や戦法の革新が「1543年種子島」だけでは説明がつきにくいのではないか、と。著者は、膨大な量が残されている鉄炮師の秘伝書を参照しつつ、新しい視点を本書で提示するそうです。
 実は「1543年種子島」以外の説を唱える人はこれまでに何人もいたそうです。それらは「通説打破」はできませんでしたが、『鉄炮記』のみを根拠とする通説から、残された鉄炮そのものを研究する方向へと進化していきました。
 鉄炮をはじめは猟師が「便利な道具」として愛用をし、大名は「珍奇なもの」として贈答品扱いをしました。1550年ころには各地に鉄炮師が登場し、玉の構造や火薬の配合や射撃術などの「秘術」を弟子に伝えました。彼らは「武芸」をもって大名に仕えました(「家来」ではなくて「お抱えの職人」のような立場です)。そもそも「鉄炮」は単体では役に立ちません。それを扱える人がいて、その知識と技能を伝えてくれたら、そこで初めて「鉄炮」は各地に伝播できるのです。毛利元就は永禄十年(1567)ころ「最近戦場では鉄炮という新兵器が出てきて思わぬ被害に遭うから気をつけるように」と家臣を諭しています。天正年間(1573-92)には長篠合戦のように鉄炮が大量投入されるようになりました。鉄炮鍛冶も大量の注文にてんてこ舞いとなります。
 種子島への鉄炮伝来には倭寇の頭目である五峰が関与していました。そして、1543年以降、西日本に続々と鉄炮(南蛮筒)が伝来します。種子島が日本の“中心地"ではなかったようで、各地でそれぞれ特徴のある「鉄炮」が製作されました。そしてそれはやがて朝鮮へも伝わっていきます。
 たしかに、それほど威力のある武器だったら、惜しげもなく日本中に情報を公開する、というのは考えにくいですよね。戦国時代なのですから。むしろ南蛮商人あるいは倭寇が商売としてがんがん売り込んだ、と考えた方がわかりやすい。これって、江戸時代末期に西洋の死の商人が日本に鉄砲を売りまくったのとちょっと似ているかもしれません。



今昔

2018-02-07 06:33:39 | Weblog

 昔の人間を「遅れている」とか「無知だ」とか馬鹿にする人がけっこういますが、「その時代の限界の中で最善を尽くす人」もいれば「適当に不真面目にやっている人」もいただろうと私は思います。そしてそれは、昔だけではなくて今でも同じことではないか、とも。

【ただいま読書中】『ガレノス ──西洋医学を支配したローマ帝国の医師』スーザン・P・マターン 著、 澤井直 訳、 白水社、2017年、4800円(税別)

 現在のトルコ西部にあったギリシア都市ペルガモンがガレノスの故郷です。西暦129年頃に豊かな家に生まれ、教育、特に医学教育を受けました。ガレノスは非常に優秀で頑固な性格だったらしく、当時の主流の医学教育(主に「経験主義」「理論主義」「教条主義」の学派があったそうです)にも様々な疑念を持っています。 ただ、ガレノスは最初に経験主義の教師に指導されたため、症例の記録や薬の有効性を実際に確かめることなどを重視する医者になりました。
 当時のローマ帝国では人体解剖は禁じられていました。しかし外傷などの治療に解剖学的な知識は必須だとガレノスは考えます。そこで参考にしたのが、マリノスという医師の著作です。ガレノスは先人に対する敬意を示すと同時に、その誤りを容赦なく指摘しました。(これはルネサンス期になって「近代解剖学の創始者」ヴェサリウスがガレノスに対して示した姿勢とうり二つです)
 前世紀の伝説の医者ヒポクラテスは、教条主義者でもあり経験主義者でもありました。ガレノスは熱心にヒポクラテスの文献も熱心に(かつ批判的に)学びます。さらに、解剖学を求めてアレクサンドリアへ。そこでは、過去の知識による解剖学の座学と、動物解剖、人骨標本による授業が行われていました。「ベスト」は人体そのものの解剖だったでしょうが、それができない社会では「ベター」で我慢するしかなかったわけです。
 当時の治療法では「瀉血」が重要な手技でした。血管を切って(あるいは刺して)「悪い血液」を体外に放出したら、それだけ体は元気になる、というリクツです(私から見たら「良い血液」も放出されちゃうんじゃないか、なんて思えますが)。
 古代ローマでは、動物の殺戮や殺人も娯楽でしたが、医学もまた娯楽の一つでした。公開手術や動物の生体解剖もまた“見世物"だったのです。ガレノスはペルガモンに戻るとすぐに剣闘士の医師に神官によって任命されますが、生きたサル(お気に入りはバーバリーマカク)の解剖も公開でやっています(さすがに残酷だと思ったのか、後年「マカクの生体解剖はお勧めできない」なんてことをいっているそうです)。
 30歳を過ぎ、ガレノスはペルガモンからローマを目指します。途中で放置された山賊の死体を見つけてその骨格を観察したり、求められるまま農民の手当てをしたりしながら(薬は現地で手に入るものなら何でも使ってます。チーズでさえガレノスには薬でした)、ガレノスはゆったりとローマに入ります。しかしローマは(新参の医者にとって)過酷な“戦場"でした。患者を治すだけでは駄目で、古くからいる医者からの揚げ足取りに対抗し論争し、時に暴力に訴えてでも評判を勝ち取らなければならないのです。やがて有力者を患者として獲得、そのつてで最終的に皇帝マルクス・アウレリウスお付きの医者の一人にガレノスは登っていきます。
 ローマでもガレノスは公開での動物解剖(死体および生体)をしました。これは娯楽でもありましたが、勝負の場でもありました。対立者が「○○を見せてみろ」とか挑戦するとガレノスはあっさりそれを示し(あるいは存在しないことを示して文献が間違っていることを示し)さらにはその対立者に「自分でもやってみせろ」と逆に挑戦するのです。当時のローマで、解剖の腕でガレノスを上回る人はいませんでした。だから圧倒的な勝利をガレノスは得ることになります。ただしこれは危険な賭でもありました。もし負けたら、名声も顧客も失う恐れがあるのですから。しかし、ガレノスは負けません。動物解剖だけではなくて、人間の患者の治療でも、過去の文献の研究でも第一人者だから、万が一劣勢になったとしても“他の方面からの攻撃"を始めることができるのです。
 皇帝マルクス・アウレリウスのヨーロッパ征服に同行した(同行させられた)ガレノスは「大疫病(おそらく天然痘の流行)」に出くわします。熱心に治療をしますが、なぜかガレノスは感染を免れました。また、この時期にガレノスはたっぷり著作の時間が取れました(他の医師との論争をせずにすんだからかもしれません)。ローマ帰還後、皇帝が重病となったとき、侍医団とはまったく違った見立てを下し、それを皇帝が採用したらすぐに治癒したことからガレノスは「医者の第一人者」とのお墨付きを皇帝からもらいます。
 192年のローマ大火によって、ガレノスは所蔵する著作や処方集や貴重な薬物のストックをほとんどすべて失ってしまいました。これは彼にとっては大打撃です。ただ、ガレノスの著作の多くは友人の要望によって書かれたもので、友人が所蔵したり回覧しているものも多く、著作に関しては多くのものが救われました(そのおかげを、後世のアラビア世界とヨーロッパがこうむることになります)。
 20世紀にガレノスの研究書を読んだときには、ガレノスの思想が「ヒポクラテスとアリストテレスのハイブリッド」だと知って私は混乱しました(だって、ヒポクラテスとアリストテレスは、全然思想が違って大論争をしていたんですよ)。だけどガレノスの目からは「哲学」と「医学」は結合可能なもの(というか、結合できなければ「世界」の説明ができないもの)だったのでしょう。こういった「大きな立場」は当然大人気となり、ガレノスの死後1000年以上アラビア医学及びヨーロッパ医学で「ガレノスの医学」はずっと「権威」として生き続けることになります。古代〜中世の時代、ヨーロッパよりもアラビア世界の方がはるかに知的な環境だったため、ガレノスの著作は盛んにアラビア語に翻訳され続けたのです。そしてルネサンスによってヨーロッパで“復活"することになります。やがて人体解剖学がヨーロッパで復活すると、それを踏み台にしてヴェサリウスが『ファブリカ』を出版してガレノスの解剖学を徹底的に批判し、近代医学が産声を上げることになります。これは、日本で『解体新書』によって「蘭学」が起きたことの相似形のように私には感じられます。解剖は「一目瞭然」だから、何かを革新するときには強力な“テコ"として働くのかもしれません。ただ、それだったらどうしてそれ以前の人が“それ"をできなかったんでしょうねえ。解剖をしたら誰でも“一目瞭然"だったはずなんですけど。思い込みが強いと「目で見ても見えないもの」がこの世には多いのかもしれません。



木登り

2018-02-05 22:09:46 | Weblog

 私は子供時代に「好きな木」が家の近所に一本ありました。登って枝に茂った葉っぱに隠れると、そこは想像力が働く限り何にでもなったのです。大人になってから久しぶりに行ったときには、なんだかみすぼらしい木になり下がっていて、それから数年後に行ったら、そのへんはスーパーの駐車場となってしまって木は一本も生えていませんでした。「みすぼらしい木」でも、あのとき登っておけば良かったなあ。

【ただいま読書中】『かぎっ子たちの公園』エリック・アレン 著、 清水真砂子 訳、 台日本図書、1972年(82年9刷)

 ロンドンの一角の公園、切り倒されたまま放置されている大木は少年三人少女一人の4人組に愛されていましたが、それが片付けられようとしています。コンクリート製の機関車が置かれる、と言うのですが、演説台にも見張り塔にも何にでもなる木の方が子供たち(少なくとも4人組)には好ましいものでした。
 そこで彼らは木の保存運動のために立ち上がります。立ち上がったのはいいのですが、さて、どこに行ってなにをしたものか。
 子供たちは思いつくまま走り回り、一人はとうとう国会議事堂にまで潜り込んでしまいます。別の子はテレビ局の人間と知り合いに。となると「権力」によってトラブルは一挙解決か、とはなりません。「決定事項は決定事項」「子供には発言権はない」で話はずんずん進んで行きます。
 しかし……ここで話は実に意外な展開に。
 本書の子供たちが「木」に何を求めていたのか、子供時代に木登りをしてその木が「ロケット」だったり「砦」だったりした私には、少しわかるような気がします。あの時の想像力と記憶は、かけらとなってはいますが、まだ残っていますから。そして、子供たちの行動や心の動きが、さりげない筆致でしかし実に生き生きと描かれているので、ロンドンの子供ではなくて自分の子供時代までもが本書に描き取られているような気分になってしまいました。