もう死語ですが、昭和の時代のオリンピックでは「ステート・アマ」という言葉が言われていました。自由主義国家では「アマチュアリズム」を大切にしているのに、ソ連や東独などでは国家がバックとなって選手の生活を保障して「アマチュア」を養成している、だから競技にだけ集中できてメダルを大量に取ることができる、だけどこれは「純粋なアマチュア(学生や社会人が“本業"の合間にトレーニングをしているスポーツマン)」ではない、という非難の論調でした。
ところがいつのまにかオリンピックに「プロ」が平気で参加するようになりました。さらに最近の日本では「1年のうち300日の合宿をする」なんて「真の意味でのナショナルチーム」が機能するようになりました。ところでこれは、かつて日本で非難されていたステート・アマとどこが違うのでしょう?
かつての共産主義国家のレベルまで日本のスポーツ界が“進歩"した、と喜ぶべき?
【ただいま読書中】『日本の養老院史 ──「救護法」期の個別施設史を基盤に』井村圭壯 著、 学文社、2005年、2200円(税別)
「養老院」は1932年(昭和7年)施行の「救護法」で「孤児院」と並列で使用され、昭和の時代には一般化した用語として使われていました。私自身、子供時代から平気でこの言葉を使っています。たぶん平成になる頃まで使っていたんじゃないかな。
本書では、戦前から戦後まで存在した「養老院」をいくつか取り上げ、そこに残る原史料を元に日本の社会や政策について述べようとしています。
まずは「佐世保養老院」。これは浄土宗の僧侶川添諦信が1924年(大正13年)寺の境内に創設、佐世保仏教婦人救護会がその運営を支えました。年次報告書には、慈善家の寄付などの他に、市や本山からの補助金も記載されています。昭和元年からの補助金一覧表がありますが、3年からは県の補助金、8年からは内務省の助成金や下賜金が記載されています。
1929年に成立した「救護法」では、認可された施設は公的な救護施設として扱われ、依託救護費が支給されました。ただ、収容者の中で救護法による被救護者が少ない施設は、救護費は少ない上に補助金は削られて内情は火の車になったようです。佐世保養老院では被救護者の比率が高く、事業収入や土地柄か海軍からの寄付金もあり、そこまで苦しい思いはせずにすんだようです。
「別府養老院」の年次報告書は大正14年から昭和16年度までのものが保存されています。戦前の養老院は、数自体が少なく、史料が戦火で焼けてしまったものが多いので、佐世保や別府の年次報告書は存在するだけで貴重だそうです。
昭和13年に「社会事業法」が成立。この法律の目的は、「慈善事業」を「社会事業」として戦時体制に組み込むことでした(同じ年に「国家総動員法」も公布されています)。養老院をどうやって戦時体制に適応させるのか、と私は一瞬きょとんとしてしまいます。戦時下では募金も集めにくくなり、病人や死者が増え、しかたなく閉鎖する養老院もあったそうです(当時の養老院は街中に作られていたため、空襲で焼失というケースも多かったようです)。
養老院の運営には,地域の婦人会などの戸別訪問での募金要請などの協力が欠かせませんでした。しかし戦時色が強くなると、人びとは余裕をなくし、婦人会は他の仕事が増えます。養老院の衛生状態は悪化して、ノミ・シラミの巣窟となるところもありました。温暖な九州であっても冬には死者がどんと増えます。国家体制に組み込んだくせに、厚生省からの補助金は十分なものではなかったのです(国庫補助金が増額された場合、地方からの補助金が減額されました)。
「福祉」という概念が戦前には未成熟だったから、内務省や厚生省の政策は「戦争のために身寄りのない病弱の老人をどう活用するか」に偏っていたようです。おっと、最近の政府も「福祉」政策で軸がぶれ続けているように私には見えます。「戦争」ではなくて「金がない」ことが大義名分となっていますが、「福祉」をきちんとやる気がないのか、あるいは「福祉の概念」をお役人はきちんと獲得できていないのかもしれません。まさかお役人の意識は、戦前とそれほど変わりがない?