【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

無心

2018-02-05 06:52:57 | Weblog

 「無心で」と思った瞬間、すでに無心ではありません。

【ただいま読書中】『北斎漫画 ──肉筆未刊行版』葛飾北斎 作、セーラ・E・トンプソン 編、河出書房新社、2017年、3900円(税別)

 「富嶽三十六景」の展覧会を観に行って「現物の凄さと面白さ」を味わうことが出来ましたが、そういった展覧会にはなかなか行ける機会がありません。図書館で本書を見つけたので、早速借りることにしました。
 ところがぱらぱらめくってみると、私が知っている「北斎漫画」ではありません。全然知らない絵がごろごろ並んでいます。記憶が変になっているのかな、と心配になって解説を見ると「ボストン美術館に所蔵されている肉筆画帖3冊」なんだそうです。浮世絵は、版画にするときに肉筆画を版下に使いますから出版と同時に肉筆画は失われます。それが肉筆画が残っているということは、本書は何らかの事情で出版されなかったもの、ということになります。「『北斎漫画』の続編」用に描いたものだったのか、あるいは没原稿を和綴じしたものだったのか。
 ともかく、どんな経過はともかく、アメリカに渡ってそこで大事に保存されていたわけです。いやいや、アメリカさん、保存してくれてありがとう。
 ただ、できたらこの本、和綴じの製本で読みたかったなあ。



癒やされる

2018-02-04 17:37:55 | Weblog

 テレビなどで「癒やされる〜」が頻出していますが、ものや人や言葉によってただ「癒やされる」ことを求める態度は、非常に受動的で「自分は何もしない。さあ、癒やしてくれ」と言っているだけに見えることがあります。時に病的な雰囲気を感じることも。もうちょっと能動的に動いてその結果(自分だけが癒やされるのではなくて)自分もまわりも「癒やされる」方が健康的なんじゃないかな。

【ただいま読書中】『注文を間違える料理店』小国士朗 著、 あさ出版、2017年、1400円(税別)

 「テレビ番組を作らないディレクター」が取材に行ったグループホームで見かけた光景に心を動かされ、「注文を間違える料理店」を発想しました。認知症の老人がホール係として働くレストランです。そこでは注文したのと違う料理が出てくるかもしれません。それは「不謹慎だけど、面白い」。
 実際にオープンしてみると、「間違い」は続出します。料理は3種類に限定し、テーブルにはでかでかと番号を掲示し、注文伝票はお客が自分で記入して渡しても、料理を隣のテーブルに運んだり、水やサラダを2回持ってきたり、ピアノ演奏が始まるとホール係も椅子に座り込んで聞き惚れたり……だけど、働く人もお客も、そして裏方で働く人たちも、「暖かさ」を感じ続けることができる空間が成立しました。そして、全員の人生がほんの少し変わります。
 「間違えること」はこの料理店の目的ではありません。そもそも「間違える」は、間違えた人には苦痛です(これは認知症の人でも同じことです)。それでも忘れてしまう間違えてしまう。だけど、適切なサポートをすれば認知症の人は自信を持って働くことができる。そして、お客が喜ぶサービスの提供ができる。お客としてやって来た対人恐怖気味の知的障害の人も騒ぐ小さな子供たちもにこにこしながら過ごせる、そんな素敵な空間ができあがるのです。
 「コスト」から「価値」への転換、と著者は印象深い言葉を述べています。たしかに私たちは経済原理によって様々なものを、人さえも「コスト」として計算してしまっています。だけど「人」は「価値」のはず。そういった単純なしかし重要な主張(とその主張の根拠)が本書には詰まっています。現実離れした思い込みの強い主張やお涙ちょうだいが詰まった本ではありません。
 読んでいて、心がほっこりして、でも泣けるという、不思議な本です。「認知症」ということばを知っているつもりの(だけど実際に深くつきあったことはない)人は、こういった本を“入門書"にして一歩“現場"に踏み込んでみたらいかがでしょう。本当に“癒やされる"かもしれませんよ。読んだ後、どんな行動をするか、によりますが。



専守防衛

2018-02-03 19:30:23 | Weblog

 よく使われる言葉ですが、そもそも「専守」ではない「防衛」って、あるんです? わざわざ「専守」と言うのは「攻撃的な防衛」ではないぞ、という主張でしょうが、攻撃的な防衛ってのは、「防衛」を口実に「攻撃」をする、つまり、歴史上開戦理由として自己正当化に使われ続けたおなじみの手口でしかない、と思えるのですが。

【ただいま読書中】『キャビアの歴史』ニコラ・フレッチャー 著、 大久保庸子 訳、 原書房、2017年、2200円(税別)

 「キャビアって、何?」……もちろんチョウザメの卵(の塩漬け)です。「では、チョウザメって、何?」……えっと、カスピ海の魚?
 チョウザメは、最古の硬骨魚で、1トン以上にまで育つことがある最大の硬骨魚でもあります。古代ギリシアやローマ時代からチョウザメは大いに好まれましたが、好まれたのは魚肉の方でした。とても美味しく、部位や味つけによって獣肉や鳥肉のようにもできるのだそうです。
 魚卵はどれも栄養豊富ですが、キャビアには長鎖脂肪酸(俗にオメガスリー)が豊富に含まれています。古代から魚卵も食されていたことは確実ですが、記録にしっかり登場するのは11〜12世紀頃から、ビザンティン帝国で「(キリスト教徒が肉食を禁じられる)摂食期間に食べても良いもの」と書かれるようになります。ロシアではキャビアを扱う職人は「イクラーチカ」と呼ばれます(ロシア語の「ikra」は「魚卵一般」と「キャビア」を意味します)。
 ロシアのキャビアは、征服者にも供されました。1240年頃、ウグリチの復活修道会修道院でバトゥ・ハンに供されたメニューに、チョウザメのスープやチョウザメのローストがあり、デザートは熱い砂糖漬けリンゴにキャビアをのせた一品でした。その後、ステップ地方をモンゴルから取り戻したロシア皇帝は国境警備隊としてコサックを住まわせましたが、彼らからキャビアも皇帝に献上されました。19世紀にはキャビアは「皇帝のごちそう」となります。すると儀式めいた扱いや専用の器具が登場します。たとえば「金と真珠貝でできたスプーン」「クリスタルと銀のアイスバスケット」など。すると「豪華なごちそう」はヨーロッパの他の宮廷にも広がっていきます。
 キャビアの人気が高まれば、当然乱獲が起きます。チョウザメは成魚となって産卵するまで20年かかりますが、寿命は長く100年以上生きます(だから巨大魚が多いのです)。しかし乱獲で幼魚も大量に獲られるようになり、誰もがカスピ海のチョウザメが減少していることに気付きます。すると当然、それまでの漁場以外での漁獲が始まります。「金の卵を産む鶏を殺す」のは、人間の大好きな行動のようです。さらにダム建設が遡上するチョウザメの行く手を塞ぎ、工場からの排水が水質汚染をもたらします。キャビアを食べられなくなるようにする人間の努力は果てがありません。ソ連の崩壊はチョウザメにさらに災厄を付加しました。密漁の横行です。
 ヨーロッパ各地では養殖キャビアが盛んになります。そういえば日本でもあちこちでチョウザメの養殖が行われるようになりましたね。一度近くでやっているところに行って、チョウザメ料理でも食べてみたいものです。
 取引規制を徹底してチョウザメを保護するのも一つの手ですが、それをすると「チョウザメで儲ける」ができなくなります。すると金儲けのネタではなくなったチョウザメの保護をしようとする大金持ちもいなくなります。
 他の魚介類(サーモン、ニシン、ロブスター、カニなど)の卵によるキャビアの代用品もいろんな製品があります。中にはけっこう美味しいものがあるそうです。
 本書を読んで、キャビアの美味しさには、ただの「味覚」以外のものもたくさん含まれているように私は感じました。人がキャビアを口に入れたとき、口の中で弾けるのは「キャビアの神話」なのかもしれません。



難民格差

2018-02-02 18:45:56 | Weblog

 シリアなどからの難民は欧米で嫌われていますが、北朝鮮からの難民は(まだ)それほどでもありません。これって、国による差別? 単に数の問題?

【ただいま読書中】『天女の密室』荒巻義雄 著、 実業之日本社、1977年

 「浦嶋伝説」を下敷きにした伝奇推理小説、だそうです。面白いのは「玉手箱」を一種の「密室」とする「見立て」でしょう。開けてしまったらすべてがおじゃんですから、蓋を開けずにいかに中を操作するか、という着想から本書は始まったように私は読みました。
 大資産家の宇良家の当主が密室状態の茶室の中でガス中毒で死亡します。状況は自殺に見えますが、幼い一人娘(名前は乙女子)を残して自殺をする理由が見当たりません。発見者は、母屋に泊まっていた財産管理人。そして20年後、乙女子が新婚旅行から帰ってからその同じ茶室(しかも同じく密室状態)でガス中毒で死亡します。発見したのは,乙女子の友人(かつ親戚)で乙女子の夫である嶋成のパリ時代の愛人の女性。
 同じ茶室にいた嶋成はガス中毒の後遺症で記憶喪失となり、北海道で3年間療養生活を送ることになります。やっと帰宅して「何があったのか」と「自分の過去」を探る嶋成ですが……
 この人が、探偵としては未熟だし、女にはだらしないし、金銭感覚も生活力もゼロに等しいし……そもそも探偵なのか被害者なのか、もしかしたら犯人なのか、まったくわけがわかりません。嶋成は手探りで霧の闇夜を歩いている気分ですが、読者も視界ゼロ。しかも次々登場する人がみな「謎」を持っている様子です。
 嶋成は新進の画家で、パリである程度のものを身につけ、日本でも“出世コース"に乗っていたところでこの「事件」でした。だから画家としての成功を夢見ています。ところが自分が乙女子(というか宇良家)の資産を全部相続しているらしいことが知らされます。ただし財産管理人は何も積極的に教えてくれようとせず、自分の孫娘との結婚を勧めてきます。これがまた魅力的な娘なんだなあ。
 「ハイミス」「トルコバス(トルコ風呂)」「自動引き出しの秘密番号(キャッシュカードの暗証番号のことです)」など古い言葉がいろいろ見つかって、懐かしい気分にさせられる、という“副産物"もある本です。同時に「銀行は、金の貸し借りだけではなくて、個人の資産管理などももっと熱心にやるべきだ」なんて“新しい"主張もあります。40年前からそうやっていたら、銀行も今の体たらくではなかったでしょうね。



勝利の標

2018-02-01 19:50:15 | Weblog

 外国の侵略軍に対する勝利、で、ロシアだと「冬将軍」もありますが「スターリングラード」「レニングラード」もあるし、ベトナムだと「ディエンビエンフー」です。だけど日本だと「神風」。なんだか“負けた"気がします。

【ただいま読書中】『最後の高地 ──小説ディエンビエンフー』フー・マイ 著、 栗田公明 訳、 東邦出版社、1975年、980円

 1945年8月革命から戦争が始まり、1954年フランスに対するベトナムの独立運動は9年目に入っていました。フランス軍費に占めるアメリカ出費の割合は、51年には15%でしたが、54年には80%になっていました。泥沼から一気に逆転を狙うナヴァール(フランスのインドシナ派遣軍総司令官)は、険しい山に囲まれたディエンビエンフーに落下傘部隊を降下させて堅固な陣地を構築し、それを拠点に北部ベトナム地域の解放区をすべて奪取しようと考えました。ベトナム人民軍(ベトミン)は、3箇月の包囲戦と55日間の激しい戦闘で、ディエンビエンフーを制圧、その結果ジュネーブ協定が成立します。著者はこの戦いに一将校として参加していました。本書で扱われるのは、激戦の中でも最重要地区とされていた「A−1高地」をめぐる戦いです。
 砲撃を受けながら前進する兵隊たちは、立ちふさがる鉄条網や地雷を、ダイナマイトを仕掛け自分のライターで導火線に点火することで突破していきます。ただし、援護物はありません。機関銃に撃ちまくられながらやっとダイナマイトを爆発させたら、こんどはその爆発を目印に敵の砲弾が辺り一面に降り注ぎます。やっと敵の掩蔽壕に飛び込んでも、背後、というか、敵の側には入り口が開いているから敵はそこに丘の上から射撃を集中します。ベトミン軍はどんどん人数を減らしていきます。
 民族主義のイデオロギーで結束した勇士たちの決死の物語、かと思っていましたが、本書に登場する兵士や将校は、けっこういろんな性格を持っています。というか、実際にそこにいた著者はそういった様々な人たちと一緒に戦っていたのでしょう。
 石のように硬くてツルハシも受けつけなかった土は、砲弾によって耕されていきます。水がないため自分の尿を飲むエピソードが複数回登場しますが、これは著者の記憶に深く刻みつけられた体験だからでしょう。
 両軍とも消耗疲弊し、局面は一時膠着状態となってしまいます。そこで行われるのが「思想集会」
というのがいかにも共産主義らしいですね。敵を撃破できないのは思想が堅固ではないからだ。だったら思想を点検したら局面は打破できるはずだ、という論法です。手法は自己批判。ただし「必ず自己批判をして自分の中の問題点を指摘しなければならない」という「義務」ですから、これはしんどい。「ばか正直者」や「小心者」ほど損をするのではないか、なんて余計な心配をしてしまいますな。
 ベトナム中から補充兵がやって来ます。まだ若い人たちを見て古参兵は、戦争が“世代交代"をしていることを実感します。そして、決戦の朝。フランス軍陣地の地下施設の直下にトンネルを掘って1トンのダイナマイトを仕掛け、それを爆破すると同時に突撃。高地の背後にある秘密の道もすでに発見されているので、駆けつけようとする援軍はそこで足止めの予定です。上手くいけばそれであっさり高地は落ちるはず。だけど戦争で「予定通り」は普通ありません。ディエンビエンフーでもやはり……
 北ベトナムの奥地、少数民族が住む土地で「ベトナムの運命」が決せられたのですが、実はこれは「ベトナム戦争」の始まりでしかありませんでした。どうしてアメリカはここまでベトナムに“肩入れ"をしたんでしょうねえ。いや、「ドミノ理論」は知っていますが、それでここまでの資金と兵力をつぎ込んだことをすべて説明できないのでは、と私の直感はささやくのです。