意見が違う集団が話し合うというのは、結構大変ですね。外交交渉に準じて考えてみました。
まず行なうのは「話し合うこと」自体に合意を取り付けることでしょう。その合意がなければ、話が始まりません。
つぎは「何語」で話し合うか。日本人同士だったら日本語、と言いたくなりますが、専門家集団だったら「単語の意味」が異なることがけっこうあります。つまり「共通言語の設定」という作業が必要です。
その次は「どこ」。外交だったら多くは中立的なところですが、日本だったら、中立的でしかも公開の場、といったらどこが代表的でしょう?
次は「代表団の構成」。人数で片一方があまりに優勢になるようだったらいけません。それと、代表がどの程度の権限を持つか、も重要です。理想は全権大使かな。
こういったことにこだわるのは形式主義かもしれません。しかしこういった些細なことを軽視していたら結局「話し合い」そのものが形式的な手続きになるだけでしょう。
【ただいま読書中】『細雪(上)』谷崎潤一郎 著、 中央公論社、1949年(50年7刷)、350圓
舞台は戦前(作中に西安事件の翌年、とありますので、まず間違いなく昭和12年)の蘆屋(芦屋)、登場するのは良家(といっても蒔岡家が全盛だったのは大正時代までで、昭和になってからは没落中)の四姉妹。一家で演奏会にお出かけで、みなさんお化粧などに余念がなく、話題の中心は三女の雪子の見合い話、という情景描写で始まりますが、驚くのは会話が関西弁で統一されていること。舞台が関西だから当然と言えば当然ですが、映画などで異星に着陸したらそこの異星人が平気で英語をしゃべる、なんてことに慣れている身には軽い衝撃です。
言葉と言えば、大商店が株式会社となったときに、番頭が常務と呼ばれるようになり、羽織前掛・船場言葉から洋服・標準語になった、と述べられているのには、笑いながら頷いてしまいます。そうか、常務さんは番頭さんだったんだ。そして、見合いの席でも使われるのは基本的に標準語です。
三女の雪子の見合いの場で、電車の中でコンパクトを開けて白粉をぱたぱたする女性のせいで回りの男にくしゃみが出た、という話が登場します。最近「電車の中での化粧」が評判が悪いのは、マナー違反だから、という論調ですが、本書ではくしゃみを誘発する「迷惑行為」だから、という扱い方です。戦前はそういったことにこだわらない風潮だったのか、それとも「お化粧直し」だったらOKだったのかな。
四姉妹といって思い出すのはもちろん『若草物語』。あれが青春の物語なら、こちらは成人の物語。欲や色や世間体もたっぷりまぶされています。会話を主体とする人々の関係の描写の緻密さには、読んでいて「お腹いっぱい」と呟きたくなります。さらに「時代の描写」も。人々が何を気にして世間で生きていたのか、「これだけは譲れない」という価値観は何か、などがあちこちに仕込まれていて(というか、当時の世界を丹念に描けばそこに「時代」が含まれるのは当然とも言えるのですが)、時間旅行をした気分です。
人物関係の描写だけではなくて、風景描写もみごとです。たとえば京都の花見。自分が満開の桜の下にいるような気分になれます。著者はまさか映画化を念頭に置いて書いていたわけではないでしょうが、本当にそのまま映画にできそうな文章でした。
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