神が人を支配するのではなくて、人が人を支配している、と私は考えます。
だって、神は「人を支配する」なんて「つまらない仕事」に興味を持ってはいないでしょうから。
人が蟻や蜂や猿の群を細かく支配しようとするでしょうか? そんな「つまらない仕事」をするよりももっと楽しいことがいくらでもこの世にあります。それは神にとっても同じはず。猿の群に口をはさんで一匹一匹を自分の思い通りに動かして、何が楽しいのかな? もちろん「知的興味」のために観察することはあるでしょうが、観察に徹するのならますますちょっかいを出してはいけないはずです。
【ただいま読書中】『出雲と大和 ──古代国家の原像をたずねて』村井康彦 著、 岩波新書、2013年、840円(税別)
古事記で「出雲の大国主命」は有名です。日本書紀には因幡の白兎はいませんが、やはり国作りは重要なエピソードとして取り上げられています(出雲の国作りを行なった大己貴命(おおなむちのみこと)自身の「幸魂・奇魂(さきみたま、くしみたま)」が海からやって来たのを大己貴命は大和の三輪山に祭った)。古事記でも大国主命が妻の嫉妬から逃げるために「倭に行こうか」と言うシーンがあります。これらは「出雲勢力が大和に進出していた」ことを示唆します。
日本の神社には「出雲系」と「伊勢系」があるそうですが(そういえば『右?左?のふしぎ』(ヘンリ・ブルンナー)にもこの二つの神社の違いについて書いてありましたっけ)、著者は出雲系の神社を次々訪問し、「巨岩」が共通のキーワードではないか、という印象を得ます。(対して伊勢系の神社では「鏡」が重要となります)
「邪馬台国」の位置については、「南」を「東」に読み替えるという、良くある手段が登場しますが、これまでの説と違うのは「日本海ルート」を用いることです。水行20日の投馬国は出雲あたり、そこから水行10日で丹後あたりに到着。そこから陸行1箇月で奈良盆地に到着、というのが著者の推論です。これだと著者の唱える「出雲から大和に進出」を繋ぐルートにも合致しているので、とても意味がある、のだそうです。出雲勢力はこのルートを伝って大和に進出して「邪馬台国」を作っていたのではないか、と。ただし「邪馬台国」と「大和朝廷」はつながっていない、のだそうです。その根拠は、記紀に卑弥呼が登場しないこと。ただし「倭の女王」とか魏志についての記述は日本書紀にあります。つまり、日本書紀の記述者は魏志倭人伝は読んでいたのです。
著者はそこで空想の翼を広げます。大和に出雲系の「邪馬台国」があり、そこに「神武天皇の東征」が行われ、激しい闘いの後「国譲り」が行われたのではないか、と。月並みな言葉ですが「古代のロマン」を感じさせます。私にとって意外だったのは、“武闘派"だと思っていた物部氏が、祭祀を“武器"に邪馬台国滅亡後も生き延びた、という著者の見解でした。結局蘇我氏に滅ぼされるのですが、滅亡したのは本家だけで、支族は生き延びて石上家となっているそうです。さらに、大和王権が成立しても、まだ周辺諸国には“出雲系"の豪族が健在です。それらと、婚姻を通じたりあるいは武力を用いたりして政権安定を進めていった過程が、記紀に反映しているのではないか、と著者は述べます。
なるほど、そういった読み方も可能だな、と思えます。魏志倭人伝での「南」を「東」と読み替えるのは不自然だとは思いますが、それ以外の点ではなかなか魅力的な仮説です。記紀で、出雲が重要だと言いながらも妙に扱いが冷たかったりする点が私は引っかかっていたのですが、大和政権が成立してからその対抗勢力として地方の出雲政権を潰した、のではなくて、中央で出雲政権を(それも、闘いと『国譲り」で)潰すことで大和政権が成立した、と考えたらそのへんは納得できます。
あとは「証拠」ですね。遺跡や遺物でこういった仮説がどのくらい裏付けを得ることができるか。このへんはこれからの楽しみ、ということになるのでしょう。
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