観覧車の魅力は、その遅さと高さでしょう。
ちょっと発想を変えて「下」への観覧車なんてのはいかがでしょう。たとえば水族館付属の観覧車で、乗り込むのが円弧のてっぺんになっていて、そこから下へ降りていきそのまま水中へ。もちろん水密構造です。ゆったりと水の中でお魚さんを眺めてからまたしずしずと上に戻っていきましょう。
問題は、事故の時にどうするか、ですが、とりあえず切り離し用の爆破ボルトでぷかぷかと浮いてもらう手段をメインにして、それがうまくいかなかったときのために中に非常用酸素吸入器(007がくわえたやつ)でも設置しておきましょうか。
しまった、水槽になぜかサメが!
【ただいま読書中】『カフェ ──ユニークな文化の場所』渡辺淳 著、 丸善ライブラリー、1995年、641円(税別)
2009年12月23日に読書日記で書いた『コーヒーとコーヒーハウス ──中世中東における社交飲料の起源』(ラルフ・S・ハトックス 著、 斎藤富美子・田村愛理 訳、 同文館、1993年)では中東のコーヒーハウスについて詳しく論じられていましたが、本書のその後、ヨーロッパにコーヒーとコーヒーハウスが広まってからのお話です。
江戸時代に、日本人は「海外」に一種独特の憧れを持っていました(その残滓は現代にも残っているように感じます)。それと同様に、近代のヨーロッパ人もイスラム圏に一種独特の思いを持っていました。その一つが「コーヒー」です。だからでしょう、コーヒーが安定して供給されるようになると、ヨーロッパの各所にコーヒーハウスも林立することになりました。ただ、地域差があります。ロンドンのコーヒーハウスは紫煙もうもう、しかしパリのカフェの多くは禁煙でした(店内がヤニで汚れることが嫌われたのだそうです。だから戸外のテラス付きのカフェが多くなったのかもしれません)。なお、イスラムと同様ロンドンのコーヒーハウスははじめ男専用だったそうで、そのためか政治談義も盛ん、権力者からは煙たい存在だったようです。パリのカフェは、はじめは文学や哲学系のサロンで、ついで政治的な集会所になり、革命後はまたサロンに戻っていったそうです。
ウィーンのカフェには有名な“伝説”があります。トルコ軍の包囲が解けたときに、コーヒーがもたらされた、というのです。ナポレオンの大陸封鎖令がエスプレッソの生みの親、という話もあります。コーヒー豆がヨーロッパに払底し、カフェ・グレコの主人はコーヒー茶碗を小さくしてサービスした、それが起こりなのだそうです。
ヌヴェリスト(日本だったら瓦版屋)もカフェを舞台に活躍しました。ニュース・ゴシップ・作り話、客に受けるものなら何でもありです。カフェのメニューも各店で工夫があります。18世紀のパリでは、イタリアから入ってきたアイスクリームやリキュール入りのシャーベットを売り物にする店もありました。
パリのカフェに「ガルソン」はつきものだそうですが、初期のガルソンは文字通り「少年(ガルソン)」だったという説があります。もっとも長く勤めているうちに高齢化してはいくのですが。なお「ガルソンから店主へ」というのは、「出世コース」の一つだそうです。
19世紀には、アブサンが流行し、また、芸人の余興付きのカフェ(カフェ=コンセール)が増えます。飲食つきの小劇場のようなものです。ムーラン・ルージュももとはこのカフェコンスだったそうです。
日本でも19世紀にコーヒーハウスができています。1888年の上野の可否茶館です。ただ、コーヒー以外にもアルコール飲料や軽食を出す「カフェ」は1911年の銀座「カフェ・プランタン」「カフェ・ライオン」「カフェ・パウリスタ」が最初期のものです。大正デモクラシーの時代には、女給つきのカフェが流行りますが、昭和になるとそれらは風俗営業のバーやキャバレーか、あるいは「喫茶店」になっていきます。
20世紀のパリ。『パリは燃えているか』でもヘミングウェイが良い味を出していましたが、本書でも存在感があります。なんだか急に『移動祝祭日』が読みたくなってきました。
ダダイズムや実存主義(の担い手)もまたカフェと密接な関係を持っています。実存主義の影が薄れると同時にカフェと文芸(の特に創造)との関係は薄れていきます。それでも、社会的ヒエラルキーを無視して人が交流できるユニークな文化の場所であり続けているそうです。日本ではそういった、文芸とカフェのような施設との幸福な関係ってありましたっけ? というか、日本の文化で、そうやって人が自由に交流する「場」から発展した文化活動(とその成果)ってどんなものがあったかなあ。
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