私が子供のころにはまだ紙芝居屋さんが活動していましたが、あれは活動写真に弁士がついたものの静止画版、とも言えそうです。だったらカット割りを増やして動作の場面では二枚の絵を出したり入れたりを活発にしたりしたら、「これはアニメの御先祖様である」という主張ができそうな気がします。
【ただいま読書中】『天井桟敷から江戸を観る』渡辺豊和 著、 原書房、1991年、2427円(税別)
日本の芝居は“野"から育ったのに対して、ヨーロッパの演劇は“都市"から発生した、と著者は主張します。たしかにヨーロッパでは劇場は古代ギリシアまで遡れますが、日本では門付けの芸人ですね。ヨーロッパの都市の中心には広場があるので、そこに舞台をしつらえ広場そのものと広場を囲む建物も“客席"とすることが可能でした。この基本構造はたとえば中庭がある宿屋でも同じで、中庭とそれを取り囲む客室はそのまま“客席"になりました。そういえば古いオペラ座などは客席が個室になっているところがありますが、あれはヨーロッパの伝統がそのまま生きているんですね。
日本の「劇場」は「能舞台」から始まります。室町初期には、舞台を座敷が円形に取り巻きそれを幔幕で囲む仮設劇場が作られました。屋根がないので空間としては開かれていますが、そこで劇が演じられることで空間は閉じられました。この「仮設劇場」は江戸中期まで続きます。そもそも江戸の町自体が定期的に大火で焼けては再生する、まるで舞台上の書き割りのような存在でした。寛政期ころから歌舞伎劇場が整備されますが、著者は「劇場」と「江戸」とを対比させながら、当時の江戸の人々のあり方を見つめようとしています。まるで「江戸」が一つの「劇場」であるかのように。たとえば「橋掛り(能舞台では楽屋と本舞台をつなぐ場所、歌舞伎では袖の部分で揚幕の場所)」にあたる江戸の場所は両国橋だ、とします。旧市街地の神田や日本橋界隈と新開地の本所・深川をつなぐ橋は、楽屋と本舞台のように全く異質の世界をつなぐ機能を持っているのです。
そもそも江戸は、無計画都市と言っても良いくらい、無秩序に発展した町でした。ですから、江戸の街中にはあちこちに「橋掛り」があったと言っても良いかもしれません。
江戸の「作者部屋」は奉行所、というのは、さて、どうでしょう。たしかに町奉行は町人の生活に密着はしているようですが、基本は放任政策のように見えるものですから。
劇場都市江戸で主役を張ったスターは、次々変わります。たとえば、赤穂浪士、紀伊国屋文左衛門、松尾芭蕉、
初代市川團十郎……みな「カリスマ性」を持っています。そして、そういった「主役」に拍手喝采を送ったのが、江戸の町人たちでした。そして、文化・文政のころから、町火消しや鼠小僧次郎吉といった変わり種のスターも登場します。
ところで、タイトルの「天井桟敷」から江戸を観ている著者にとって、「天井桟敷」はどこにあるのでしょう? 芝居の一番の見巧者が集う天井桟敷から「江戸」に向かって絶妙のかけ声をかけているのは、誰なのでしょう?