小学生が『狭き門』(ジイド)を読んだり中学生が『罪と罰』(ドストエフスキー)を読んで「わからない」と言っていたら、「それは当然。ちょっと背伸びしすぎでは?」と言いたくなります。だけど高校生が『憂鬱なる党派』(高橋和己)や『嘔吐』(サルトル)を読んで「全然わからん」と言っていたら「ちょっと努力してみたら?」と言いたくなりません? ちなみに上記の小学生~高校生は私のことです。実際、わからなかったんですよねえ。だから今からぼちぼち読み直してみます。
【ただいま読書中】『嘔吐』ジャン-ポール・サルトル 著、 鈴木道彦 訳、 人文書院、2010年、1900円(税別)
本書は「アントワーヌ・ロカンタンの書簡」という体裁です。ほとんど人間と交わることなく生活していた彼は、ある日周囲にある「もの」が変化したことに気づきます。そして、それらの「もの」を見たときに感じるのは〈吐き気〉。
ここで話は一挙に「ものの実在」について突っ走る……わけではありません。「人間と交わることのない生活」のはずなのに、ロカンタンは実に様々な人と会話をしたりゲームをしたり手紙をやりとりしたり、なかなか多忙なのです。ただ、そういった細々と語られる「生活」の裏側からまるで世界の細かい亀裂を通るようにときどき〈吐き気〉が顔を出してくれます。
ところでこの〈吐き気〉、一体誰が感じているのでしょう。ロカンタンが感じている、というのが普通でしょうが、私には「社会がロカンタンを吐き出そうとしている」のではないか、と思えて仕方ありません。「もの」にはすべて「歴史」や「物語」があります。しかしロカンタンはその「歴史」も「物語」も読めなくなっているようすです。そこで生じるのは「もの」との関係を絶たれたことによる「世界からの疎外(拒絶)」、つまり〈吐き気〉なのです。
さらにロカンタンは「過去」からも拒絶されます。昔の恋人アニーと再会しますが、彼女には「あなたはあたしに再会しなかったのよ」と宣告されてしまうのです。
となると、ロカンタンに残されたのは「未来」だけです。本書の最後でそのビジョンは唐突に提示されますが、でもなんだか現実感が全然ないビジョンです。「ものの存在感」だけではなくて「ことばの意味の感覚」までも、ロカンタンは失ってしまったのでしょうか。まあ、ことばが頼りにならなくても、感覚は残されているのが救いです。だからこそ「音楽」が本書では重要な役割を果たしているのでしょう。
ふーむ、わかったようなわからないような、それでも高校時代よりは読みやすかった、という感想です。10年くらいしたらまた再読してみようかな。また違った読みができるかもしれませんから。そのためには、私自身がもうちょっと成長する必要があるのですが、そちらは大丈夫かな?