8月12日のブログ「特命職 手工ギター担当」と言うタイトルのヤマハ名古屋店時代のお話の最後に突然のメキシコ転勤の内示を受けて困惑した事を書きました。そして困ったことにその時に既に吉本光男さんとジョイント・リサイタルを企画していてチラシとチケットを配り始めていたとお話しました。
そうそう、その時のブログで一つ訂正があります。当時名古屋店のアドバイザーをやっていた酒井康雄さんが店長に私がヤマハに入社した事を話したと書きましたが、当時は酒井さんではなく中川祥治さんがコンサルタントをしていたようです。酒井さんは当時は学校の先生への講習会などでヤマハのお仕事をしていた関係で店長に話をしたとの事でした。
さて、話を戻します。
私にとっては青天の霹靂で何がなんだか分からない状態でした。当時名古屋支店にはもう一人ピアノの技術者で山下さんと言う方が居ましたので、「支店長はもう一人の山下さんと勘違いしてるんじゃないかな?」と1週間ほどは信じられませんでした。ギターが好きでヤマハに入って、好きなギターの担当をさせてもらい、好きな事をさせてもらっていましたから人も羨む仕事環境だったわけです。自分でも演奏活動をしながらヤマハでギターの仕事をする。こんないい事はそうそうありませんよね。高須勉民さんを中心とした演奏グループで演奏したり、ヤマハの講師だった橋本先生のポピュラーバンドで演奏させてもらったり、リコーダーの大岩広子さんとジョイント・コンサートをやったり結構活動をしていました。
そして吉本さんとジョイント・リサイタルを企画して、チラシ用の写真を我が家のソファーに二人が並んで座り、ギターを手前に置いて撮影しました。添付の写真がそれです。リサイタルの日はいつだったかもう記憶にありませんが、私がメキシコ転勤の内示をもらったのが1978年3月、正式辞令は4月、赴任が5月でしたのでリサイタルは5月の某日だったと思います。
内示をもらってから悩みました。リサイタルを実施してからの赴任にしてもらえないか、それをお願いできないか。名古屋店内ではまだその甘えも通用したかも知れませんが、4月に辞令をもらい一旦は本社外国部に転属になるため本社に挨拶に行った時にはその様な甘えは到底許される雰囲気ではないことを悟りました。
吉本さんには本当に申し訳ないけどサラリーマンの、宮仕えの辛いところ、社命を優先してジョイント・リサイタルを諦めることにしました。もう吉本さんには平謝りに謝って配り始めていたチラシとチケットの回収に走り回りました。
吉本さんはきっと凄く憤慨してみえたんだろうと思いますが、私は浜松外国部預かりとなり、5月23日に羽田からメキシコに向かって飛び立ちました。それから吉本さんの顔を見るのが恐くて、何年もの間ご無沙汰いたしました。再会したのは20数年経った5-6年前。その時に私は真っ先に27年前の不義理を謝りました。吉本さんは笑顔で「もうそんな事はいいですよ」と言ってくれホッとしました。
今ではご存知のようにブログへの投稿も含めて仲良くしていただいています。吉本さんには感謝しています。これからもよろしくお願いします。(ペコッ)
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ちなみに私谷村が、山下さんが転勤される時にギターコンサルタントをさせていただいてました。(たしか3代目)
その前に(2代目)二宮さんと言う方がいたような気がするんだけどナー
懐かしいパンフレットですね!
ニューヨークからブログを見てくれてるんだ!
ありがとう!
Blog楽しみにしてますよ。中川さんところにもたまに出入りしてます。
二代目は確か二宮さんと言う人だったよね?