引き算 - ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい> ゲージツはバクハツ・・・じゃなくて引き算 編
今日は,これから音楽をやっていく上で、ちょこっとは皆さんの参考になるかなというようなお話をひとつ。
世界にはいろんな楽器がある。
一つの楽器として最も規模が大きく、幅広い表現力をもっている楽器といえば、言わずと知れた「オーケストラ」。いろんな音程の、いろんな音色の楽器が沢山そろって一つの楽器として成立しているので、絶対音楽から表題音楽のようなものまで、あらゆる表現が可能。リヒャルト・シュトラウスじゃったか、オーケストラの扱いのうまい作曲家に言わせると、どんな表現でもで朝飯前にできるそうな。
そのオーケストラに比べたら、ピアノといえども、「単色」っぽくなるのは仕方が無い。音域ということからいけばいい勝負だけども、音色となるとそうはいかねえ。

じゃあピアノはオーケストラに比べたら表現力が劣るんか。「そうだ」と言っちまったら、ピアノをやっておるお方が黙っちゃいねえわなあ。
ほんじゃあヴァイオリンのような弦楽器はどうじゃ。
ろくに和音も弾けん、ましてやピアノのように伴奏をしながら旋律を弾くなんざあ、ちょっと特殊な奏法で、「らしく弾く」のが関の山。
ではヴァイオリンはピアノより表現力が劣るんでっか?(と大阪弁で訊いても)
「そうだ」っちゅうと、ヴァイオリンをやっとる人から刺されっちまうかもしれん。

フルートやオーボエのような管楽器なんかはどうや。
人間が、直接自分の息でもって音を出すんじゃから、たしかにええ音色をもっておるが、そのかわり、まるっきし単旋律一本槍。(山内一豊か加藤清正みたいなもんだ)これは人間の声でも同じで、モンゴルの「ホーミー」じゃあるめえし、一人で同時に2種類の声や音を出すわけにゃあいくめえ。
でも、だからといって管楽器はだめっちゅうような人はあんましおらん。
おらんどころか、その音色に魅せられて、管楽器をやってみたいという人はいくらでもいる。その表現力たるや、「田へした(大した)もんだ、いなごの小便」ときたもんだ。(下世話な表現で失礼)

そこで肝心な我らがギターはどうなんじゃってえと、和音は出せるし旋律も弾ける。その上伴奏と旋律を同時に弾くことだってできる。
しかし、反対に音程は4オクターブ弱しかねえし、音は一番とは言わんがかなり小せえ。それに、開放弦を除いたら左手の人差し指と小指の届く範囲でしか音程の幅が取れん。ピアノみてえに右手と左手で同時に音を出すっちゅう訳にはいかねえし、どうせ弦だって普通6本しかねえんだから、どんなに頑張ったって、同時には6つまでしか音は出ない。
「ちょっと待って。8弦ギターだってあるし、10弦もある。なんだったら11弦だってあるでねえか」というお方は、この際ちょっと引っ込んどいて。「シッ、シッ」
しかもギターは、音を段々大きくしていくっちゅうことが、金輪際できんわね。
これはピアノもおんなじで、ヴァイオリンや人間の声のように、一度出した音をクレッシェンドしていくことが、どうがんばったって無理。
勿論、自由にディクレッシェンドっちゅうのだって、ちょっとしんどい。
こりゃあ音楽を表現するにあたって、決定的な欠点だ。
「そんなこと、やろうとも思わん!」とおっしゃっても、できる楽器もある限りは、これは残念ながら、あきらかに欠点になる。
じゃあその表現力といやあ、ピアノなんかと比べて劣るんか?ヴァイオリンにも負けとるんか。「そうだ」っちゅうと、恐らく名古屋の街を無事には歩かせてくれんわね。
こんなどうしようもねえ欠点だらけのギターでも、皆さんのように「大好き!」という人が、世界中に大勢おる。ウジャウジャおる。
おそらく、クラシックギターの生の音を蕎麦、いや、そばで聴いて、「いやん」という人はいないか、もしいたとしても、よっぽどの変わりもんだっちゅう気がするべ?(ギターを弾く人がムチャンコ下手だったら、そったらこともあるかもしれんが)

オーケストラはいろんな楽器の集合体だから、たしかにいろんな音色があって、幅広い表現力をもっておる。
しかしそれは幅広い表現力をもっておるっちゅうことであって、全ての表現力をもっておるっちゅうこととはちょと違う。
ギターの奏でるアルハンブラの想い出の世界は、どう頑張ったってオーケストラで表現できるわきゃあない。ピアノで弾くショパンの小犬のワルツは、これまたオーケストラでは表現できんし、ましてやヴァイオリンなんかじゃ無理だんべ?
絵画の価値は、使ってある絵の具の種類の多さとはなんの関係もないことはあたりまえっちゅうことは言わんでもわかると思うけども、むしろそこに制限があった方が、より楽しいし、やりがいもあるっちゅうもんだ。
それはあたかもスポーツが、ある制限とも言える「ルール」を、自ら課しているからこそ面白いのとよく似ていて、「なんでも有り」にしたら、ただの喧嘩と変わらんことになっちまう。
絵画で言えば、まず画面の大きさに制限がある。
無制限に大きくするわけにはいかんべな。
絵の具という制限もあるが、その絵の具もどんどんその種類を減らしてみれ。
極限までいくと、明るさの変化だけ、つまり白と黒の世界、墨絵の世界になるずら?それでも充分な表現はできるし、むしろその方が表現できることは広いかもしれんとさえ思えるような気さえする。

文学もしかり。
例えば短歌や俳句なんざあ、文字数を極限まで限定した上で、何かを表現しようっちゅう魂胆だ。言いてゃあことがあったらなんぼでも言やあええのに、わざわざ五七五たら、おしりに七七と付けたりして。そこまで言葉を少なあした上で、独自の世界を表現しようとしとる。

写真も同じ。
カメラの表現できる「明るいところから暗いところまで」の幅(ラチチュード)は、人間の目のそれに比べると遥かに狭い。もしカメラに、人間の目と同じラチチュードがあったら、そんなもん人間の目で見たのと同じ写真ができるだけで、面白くもなんともにゃあわな。
画面の中のどの明るさから上は白くとばしてしまうか、同じくどの暗さ以下は黒くつぶして闇にしてしまうか。もともと制限のある諧調の幅を、明るい方にもってくるか、はたまた暗い方にもってくるか。場合によっては、色を抜いて白黒にしてしまうか。そこが芸術としての表現に大きく関りをもってくるっつうもんだ。
だから写真はおもしれえんだわ。

要するに、なんでもかんでも、盛りだくさんに見せるんではのおて、「何を」「どこまで」「減らしていくか」。つまり引き算をしていかんとあかん。
つまり、自分の言いてえことは何なのか、限界まで絞っていくことが重要となる。
「SIMPLE IS BEST」ですなあ。
これはおいちゃんが勝手に考えておることだもんで、反論は受け付けまへん。


コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
再認識 (Toan)
2006-05-18 03:08:55
引き算を再認識しました。

そういえば,写真をやっていたとき「写真は引き算」だということを勉強したような。忘れるものです。

これは音楽にも言えることですよね。
 
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