「知る」そして「分かる、判る、解かる」 - ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい> 「知る」そして「分かる、判る、解かる」

「わかる」とはどういうことでしょう。
クラシック音楽をやられている方なら、一度は誰かに言われたことがあるのではないかと思うが、「クラシックはよくわかんない」という言葉をよく耳にする。
自分だってクラシック音楽が「わかって」聴いているのとはちょっとニュアンスが違い、ただなんとなく「聴いていていやな気がしない」だけか、あるいは「結構いいやんか」と感じているだけのような気がするんだが、あまりクラシック音楽になじみの少ない人にとってクラシック音楽は「わかって聴かなくてはいけないもの」のようだ。そもそもクラシック音楽を「よくわかる」必要があるのかどうか。

ある時、まったくの素人がギターをやりたくなって、友人に楽器を選んでもらったそうだが、その時の言葉に「あの友達はギターのことをよく知っていて、いろいろ教えてくれた」と喜んでいた。だが、はてな?待てよ。
まったくの素人が、要するにギターのことをまったく知らない人が、どうして「あの人はギターのことをよく知ってる」と判断できるんだろうか。
ひょっとしたらまったくの出鱈目か、ウソを教えてくれたのかも知れないというのに、彼ははっきりと「あの友達はギターのことをよく知っている」と断言した。

「あの人知ってる?」という質問に「ああ、知ってるよ」と答えるが、はたしてその人のことをどれだけ知っているというのか。
どれだけ知っていれば「知っている」ことになるのか。
その人のどんなことまで知っていれば「知っている」と言えるのか。
我々は「顔を見たことがある」あるいは「名前は聞いたことがある」ないしは「そういう人がいることは聞いたことがある」程度で、簡単に「知ってる」と言っていないだろうか。

私たちが「あそこの蕎麦屋さんおいしいよ」と言っても、その蕎麦屋の美味しさを人に伝えることは難しい。その店の蕎麦がどのように美味しいのか、食べたことの無い人に、言葉で説明して理解してもらうのは至難の技だ。
同じように「あのいい人よ」といっても「どういい人なのか」伝えるのは難しいし、また聞かされた方も、なかなか真実は理解し難いものだ。

以前、部下に「電子顕微鏡って知ってる?」と訊いてみたことがあるが、その時彼は「はい、知ってます」と答えたので、「それでは、電子顕微鏡の原理は?、光を使っていないのに、何故物体が見えるの」と再度たずねてみると、「いえ、それはわかりません」という答えが返ってきた。
どうもよく聞いてみると、彼の電子顕微鏡のことを知っているという意味は、電子顕微鏡という言葉を聞いたことがあるか、せいぜいそういうものがこの世の中にあるということを聞いたことがある程度らしかった。(仕事は、そういった研究設備などを扱う仕事だったので、そのような会話があったのですが)

はたして我々は、その程度の理解度でもって「知っている」と答えてしまって良いものなのだろうか。
そう考えてみると、これから人との会話が成り立っていくんだろうか。
常識に長けている人には、常識を超える話はとんと通じないものだ。
常識とは、ある意味思考が止まったようなもので、それ以上知る必要を感じていないことが多く、「違う」と言って説得できるようなものではなさそうだ。
宗教のようなもの言ってもよさそうなくらい、ある人にとっては絶対的なものらしい。下手をすれば、こちらが「常識はずれ」と軽蔑されてしまうことにもなりかねない。

そう考えていくと、会社の会議などで、はたして議論というものが成り立つのかどうか、なんとも心もとない限りだ。
「知る」とはどういうことなのか。
「わかる」とはどういうことを意味するのか。
「知る」とか「わかる」というのは、自分にとって「こんな程度のことしか知らない」ということを知ることなのではないか。
言い換えれば「どれくらい知らないか、ということを自覚できるか」ということなのではないか。(ちょっとややこしいが)
いずれにしても、そう簡単には「知ってる」だの「わかった」などと人様に言えないような気がして仕方がない。
なーんちって。今回はえらいまじめなお話でおひらき、おひらき。

内生蔵 幹(うちうぞう みき)


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
また一言 (文科系)
2006-07-09 12:49:22
こういう書き方良くないと思います。



ソクラテスの「汝自身を知れ」も、デカルトの「我思う、故に我あり」も確かにここで言われていることが土台にあるのは確かでしょう。因みにデカルトの「思う」は疑うということ。全てを疑ってもそのように疑っている我だけは確かに存在するとして、そこから「近代哲学」の一つの体系を作った。



ですが、ギターなどという一つの具体的な対象の場合にこういう言い方をしたら「煙にまく」ということになりませんか?

具体的な対象は「貴方の、ここがこう無知または悪いと思います」というように、具体的な話として語られるべきものでしょう。抽象的にこのように語ったら、初心者は黙っておれという理屈を語ったということにしかなりません。だから「煙にまく」と言うしかない。たとえ初心者でも、語って良いはずでしょう?それを一般的に禁ずるような理屈に思えます。

「ギター同好会」としては良くないことです。「発達の原動力はその人自身の能動的活動だ」とも言いますから。

 
 
 
そうですね。 (理科系)
2006-07-09 22:58:35
文科系さんと同意見です。電子顕微鏡の原理を知らなくても有効に活用している人は多いですよ。どこまでが無知なのか理解できません。商売っ気なしでギターの購入について来てくれた人はありがたい存在ではないでしょうか? どうも、先回の大阪人の話もうなずけるけど・・・。レッテル貼りしていいものか・・・。
 
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