父が残していったレコード - ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい> 父が残していったレコード
 今年1月の28日(木)、私の父が病院で亡くなった。83歳であった。その父がずっと昔、私のために生涯でただ1度、お土産にと買ってきてくれたものがある。それはジュリアン・ブリームの弾くバッハのリュート組曲1番と2番が収録されているLPレコードだ。
 私は中学の2年生の初め頃からギターを始めたんだが、父はそのことに対しては何の反応も示さなかった。むしろ小さな家のこととて、ポロン・ポロンと弾いているうちはよかったのだが、高校生にもなると、結構なクラシックの名曲をバリバリ弾いていたので、父の虫の居所がよくないときなどは、あまりいい顔はしなかったように思う。だから私から見ると、私がギターをやっていることについて、父はあまり賛成ではないんだろうとずっと思っていた。6年前に亡くなった母親なんぞは、どちらかといえば「学業の差障りにならない程度にやるのだったら」と、基本的には陰日向になり応援してくれたんだが、父の方は私のギターのことについては一切何も語らなかった。従って公開の演奏会などは一度も来てくれたことがなかったし、興味を示したこともなかった。もっとも私の父親は元来そういうことが苦手で、私や私の妹(私の9年下)の父兄参観日にも、ついに一度も顔を出したことがなかった。小学校の低学年のころはそれが不思議で、「今度の参観日には来てくれないの?」と何度も訊ねた覚えがあるが、それも年を経るにつれ、いつしか私たち兄妹も「父は参観日がきらいなんだ」とあきらめるようになっていた。
そんな父が、あるとき仕事から帰ってくるなり突然、黙って私にレコードの入った紙袋を渡すではないか。「なに?これ」と訊いても特別な返事はなかったように思う。その日父は仕事の会合とかで名古屋へ行っていたんだが、名古屋などは年に何回も行っていたわけではないので、知っているレコード店などあるとは思えない。しかも会合となると大勢で酒や食事になるだろうから、それが終わってからではレコード店なんぞは開いているわけがない。だとすると名古屋へ着いたときまず最初にどこかのレコード店に入って、クラシックギター関係のコーナーをいろいろ物色した挙句、このブリームのバッハを見つけて購入したあと、会合やその後に続く会食の席に持って行き、忘れないよう気にしつつ、自分の座る横かうしろに置いて、その後家まで持って帰ってきたのではないだろうか。
 あまり言いたくはないのだが、私の父は母にとっては良い夫ではなかった。それは私が物心がつくかつかないかの頃からいやというほど見せられてきた。私たち子供の前で、母に向かって手を上げていたことも一度や二度ではなかったし、私自身わけもわからず何度も父に殴られたことがあって、長い間私と妹にとって、父親とはあまり有り難い存在ではありませんでした。
 そんな父が、私が18歳のころ、突然なんのいわれもなく(私にとってはそう思えた)ジュリアン・ブリームの当時新譜で出ていたバッハのリュート組曲のレコードを買ってきてくれたのだ。ジャケットは写真にあるように、当時のものとしては大変品がよく格調も高かった。なによりもバッハというのが驚きであった。当時私はギターでバッハを弾けるということは知ってはいたが、実際の演奏として聴いたことはなかった。かけてみると当然のごとく素晴しい名演が入っていて、何度も聴くうちにその良さが理解できるようになってきた。しかしそんなレコードを買ってきた父は「おれにも聴かせろ」というわけでもなく、私から見るとそんなレコードにはなんの興味ももっていないそぶりであった。
そもそも私の家にはそれまでレコードというものはあるにはあったが、私が自分で買ってきたもの意外では、特別クラシックのレコードがあったわけではない。せいぜい民謡や童謡のレコードがわずかにあったにすぎない。なのに何故あのとき父はジュリアン・ブリームの弾くバッハのリュート組曲のレコードを購入しようと思ったのか。
 そんな父が昨年の1月、近所の路上でなにかの拍子にころび、その後2月から入院することになって、この一年間何度も病院を代わったりして私たちは右往左往させられた。
 父はどんな気持ちで私たち自分の子供を見ていたのであろう。兄・妹揃って母親の見方になって父親を敵対視している子供たちにどんな感情を抱いていたんだろう。あのときどんな気持ちで息子のためのレコードを選んでいたんだろう。どんな思い入れを抱いて会合の間レコードを見ていてくれたんだろう。
去年暮から今年にかけては見舞いにいっても、私のことを分かっているのかいないのか、もはやそれほどまでに意識が朦朧としていた。
最期まで病院で父の面倒を見てくれていた伯母(母の妹から)から聞いた。まだ父の意識が朦朧となってしまう前、父は言ったそうだ。「あいつは(私のこと)今まで一度もおれに困ったから助けてくれと言ってきたことがない。えらいやっちゃ。おれとは違う。」父は自営で商売をしていたが、私には「こんな商売は斜陽だから」と、一度も後を次いでくれと言ったことはない。しかし私には次いでほしいと思っていることは何かにつけてわかっていた。家の中ではまったくの身勝手でいいところがないように思えた人だが、一歩外に出れば誰もが「あんな優しくていい人はいない」と評判の良かった父であった。
そんな父がこの1月28日の夜、肺炎を起こし呼吸困難に陥って亡くなった。
「あの時はどんな気分になってこのレコードを買ってきてくれたんや?」とひとこと訊いてみればよかった。もちろん父はそんなことはとうに忘れてしまっていただろうが。
今私にとってこのレコードは、ずっと繋がることのなかった父と、やっぱり繋がっているのかもしれないと思う唯一心の糸となっている。
内生蔵幹

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