2009年11月24日のブログ記事一覧-ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい> 中川祥治 リュートリサイタル

 11月14日、電気文化会館で行われた中川祥治リュートリサイタルでは、ひさかたぶりに彼の演奏する清々しく純粋な「音楽」に接し、大変心地よい時間を過ごすことができた。
彼は私と同じく青春とよばれる時分にはギターを弾いていたが、いつのころからか古楽、それもリュートに目覚め、以来その世界一筋に研鑽を積んできたのは皆さんよくご存知のところ。
何年か前、彼が2年間のスイス留学を終え帰国した当初、私は彼の自宅を訪問し、早速素晴しい楽器やその音色を聴かせてもらったことが今懐かしく思い出される。その時は古くからの友人が古楽器、それもリュートのプロフェッショナルとして戻ってきてくれたことに対し、心からの感動を覚えたものであった。その彼が今回17世紀から18世紀に渡るバロック時代の巨匠たちの名曲ばかりを取り上げ、研鑽の成果を披露してくれた。

 私は古楽に関してはまったくの素人であるため、あまり偉そうなことをいうつもりはないが、プログラムの冒頭、フィリップ・フランツ・ルサージュ・ドゥ・リシェーなどという今まで耳にしたことのなかった長ったらしい名前(まるで日本の「九郎 判官 源 義経」のような)の作曲家によるプレリュードそしてシャコンヌという素敵な作品を聴かせてくれたのは収穫であった。まだまだ我々の知らないこのような優れた芸術作品が、この時代には数多く埋もれているんだろう。そしてギターの世界でも良く知られているS.L.ヴァイスの大曲、ソナタ ヘ長調とおなじみのファンタジアも演奏されたが、これらの曲を聴く限り、ヴァイスがいかに優れた作曲家で、当時においても一頭抜きん出ていた芸術家であったかということが大変よく理解できる。もしヴァイスがリュートだけに留まらない作曲家であったなら、どれほどの名声と栄光を後世まで残していたであろうか。歴史では「もし・・・だったら」が意味のないこととわかっていても、敢えてそう考えさせられてしまうほど、当日の演奏はヴァイスの真価を知らしめるに充分な芸術性を発揮していた。そしてこの日の白眉は、やはりプログラムの最後におかれたバッハのチェロ組曲第4番 BWV1010であろう。なんとこの曲は演奏者自らの編曲とのこと。しかもそれが編曲とは思えないほどの効果を上げていたのは心地よい衝撃であった。編曲にありがちなオリジナルの幻影がちらつくこともなく、むしろ「この曲にとってはこちらの方が・・・」と思えるような効果を上げていた。リュートのオリジナル作品はいくらでも存在するなずなのだが、敢えて他の楽器のための作品を、しかもバッハの超有名曲を自らが編曲してまで取り上げたのも、聴き終わってみると理解できるような気がする。

 ギターの世界では古典ギターが大流行で、最近手に入れたソルやジュリアーニの作品を入れた何種類かのCDは全てそれで演奏している。確かにオリジナルの状態で古典を聞けるのはありがたいのだが、私の好みとしてはいつも割り切れない物足らなさを感じてしまう。現代のギターの演奏と比べると音が平坦で変化に乏しく、しかも弁当箱に弦を張ったような何だかペナペナな音に聞える。特にジュリアーニのロッシニアーナのような大曲になると、私にとっては、やはり現代のギターで演奏したものの方がはるかに表現に幅があり、音にも艶や深みもあって、音楽そのものがより大きく感じられる。おそらく当のジュリアーニさんもそのような表現がしたかったのではないだろうか。敢えて「もし・・・だったら」をいわせていただくと、ジュリアーニが現代のギターを知っていたら、迷うことなくそれを選んだことだろうと推察する。
19世紀の後半になって、次第に皆が古典ギターの表現力に不足を感じ始めたからこそ、A.トーレスという製作家が現れ、試行錯誤の上現代のギターを完成したのである。つまり古典ギターは、「楽器の改良」という名の元にその生命を終え、現代の楽器にとって代わられた楽器なのだ。すなわちチェンバロと同じ立場にある楽器といってよいであろう。ご存知のように、チェンバロも時代の要求とともに「ピアノ」というより大きな音と表現力をもった楽器に置き換わってきた。20世紀になって復活してきてはいるが、現代のピアノの表現力に比べるとやはりその能力の限界は致し方の無いところで、時としてはバッハのチェンバロ作品といえども現代のピアノの方がより優れた表現力を発揮することがある。(かといってチェンバロという楽器の存在そのものを否定しているわけではありません)
それに引き換えリュートは、音楽が時代とともに宮廷や貴族のものから庶民のものとなるに従って、より大きなホールで大勢の聴衆に対して大音量で演奏することがかなわなかったことにもより、やむを終えず音楽の表舞台から次第に遠ざけられていくことにはなったが、自身何か別の楽器にとって代わられたわけではない。つまりリュートは、使われている弦やその構造には多くの改良がほどこされてきたのであろうが、楽器そのものとしては、当時からもはや改良の余地のない完成されたものだったのである。改めてこの日の作品を聴いていると、私がソルやジュリアーニの作品を古典ギターで聴くときに感じるような一種の「ものたらなさ」といったものはまったく感じられず、やはりリュートの曲はオリジナルの楽器であるリュートで聴くことが最もふさわしいと感じたものであった。
当然だがレコードやCDで聴く限り、リュートの絶対的な音量の小ささはまったく気にならない。また今回のようによく響く会場であれば、数百人収容できるようなホールでも充分楽しんで聴くことができるということは証明された。現代こそリュートという楽器の本領を発揮できる時代なのではないだろうか。ひょっとしたら今後リュートを使って新しい作品を創作する作曲家がどんどん出てくるかもしれない。リュートは決して過去に封じ込められた楽器ではないのだ。
しかしその前に中川さんには、古きよき時代の超一級の芸術作品を、これからもどしどし我々の前に披露していただきたいと思っています。
<内生蔵 幹(うちうぞう みき)さんによる投稿>


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