2009年8月15日のブログ記事一覧-ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい> 今、タレガの時代がやって来た?

 「いつか私の時代がやって来る」と言い残したグスタフ・マーラーとは少し趣が違うかもしれないが、近年やけにタレガの音楽を耳にするようになってきた。「アルハンブラ」のように誰にでも知られた超有名曲の作曲者であり、ギターを持つものならばその作品に触れたことがないというものはいないタレガ。にもかかわらず、今までそのタレガにスポットを当てた録音というものがほとんど見られなかっただけでなく、コンサートにおいても正規のプログラムとして取り上げられることはむしろ少なかったように思える。そんなタレガだが、なぜかこのところその音楽を耳にする機会が増えてきたようだ。
タレガの亡くなった1909年からちょうど100年を経た今年。そろそろタレガの時代がやってきたのだろうか。まだ聴いてはいないが福田進一さんも最新の録音ではタレガ・オンリーのものを出したようだし、いろいろな演奏家達がそのプログラムにタレガを取り上げてきている。そして現代ギター社からは、エミリオ・プホール著作になる「タレガの生涯」の訳本がタイミングよく再版になり、私も初版は購入できなかったので今回早速手に入れ一気に読んでみた。(ところで3・40年ほど前はどの楽譜、書籍を見ても「タルレガ」と表記していたので、最近の「タレガ」、ないしは「ターレガ」という呼び方にはなかなか慣れることができない)
 日本語訳がまったくの直訳調で読みにくいこと夥しいのではあるが、それでも作者であるところの直弟子、E・プホールの師に対する愛情が文章のあちこちに溢れ、タレガの知られざる生涯を知るにつれ、その人となりに自然と親しみを覚えるようになった。少なくともその作品に、楽譜からだけでは得られない「何か」を感じ取ることができるようになった気がする。そして、よくぞその時代に貴方のような芸術家が生まれ、またギターというあまり恵まれているとはいえない楽器に生涯を費やしてくれたものだ、という感謝の念のようなものも湧いてきた。

 ところで、このようにタレガの音楽が、今あたかも再評価され始めたように見えるのは世界的な傾向なんだろうか。それとも海外では昔からタレガの音楽は演奏され続けていて、ここ最近頻繁に演奏するようになってきたのは日本だけなのであろうか。(もちろん没後100年という節目の年であるということも世界的に無視はできないとは思うが)
 タレガは1852年、セゴヴィアが生まれるおよそ約半世紀近く前に生まれており、没年は1909年となっているので、セゴヴィアがギターと出会った幼い頃にはまだ現役で活躍していたことになる。しかしそのセゴヴィアも、生涯を通じてタレガの音楽に関してはごく限られた作品しか録音として残していない。多くのオリジナル作品の他、少ないとはいえない優れた編曲作品があるのにもかかわらず、タレガを中心としたレコードというものがほとんどない。かろうじてLPの裏と表にソルとタレガを収めた白黒ジャケット写真のものがあるのみだったと記憶している。(このレコードは、友人には何度も聴かせてはもらったのだが、残念ながら自分では購入できなかった)もちろんその他の作品についてもセゴヴィアは演奏、録音はしてはいるが、その種類は多いといえるほどの量ではない。
もっともセゴヴィアの時代にはすでにタレガの音楽は過去のものになっていたのかもしれない。タレガの他、ソルやアグアドといった古典も演奏はしているが、それらは一般音楽の世界から見ればあまりにもマイナー過ぎる。セゴヴィアはむしろ当時第一線で活躍する一般音楽の作曲家達に声を掛け、新しい時代の作品を提供してくれるよう働きかけることの方により関心があったようだ。
たしかにそれまで小さいサロンかホールで、しかも少人数の聴衆のみを対象としてきたギターという楽器を、ピアノやヴァイオリンに負けない表現力をもった楽器として一般音楽界に認めさせるためには(言い換えればクラシックの音楽界において大きな成功を手にするためには)、当時誰もが認める一流の作曲家を担ぎ出すのが必須であり、また最も手っ取り早かったのであろう。結果セゴヴィアの目論見は功を奏し、今我々は、独奏・協奏曲を問わず、驚くほど著名な作曲家のオリジナル作品を数多く手にすることとなった。
そこでタレガであるが、私の知っている範囲で言えば、ずっと下って1982年、やっとイエペスが「タレガ作品集」として1枚裏表全てタレガ作品というLPレコードをD.グラモフォンに残している。もちろんその中にはアルハンブラも入っているし、ラグリマやアデリータといった小品のほか「演奏会用大ホタ」というタレガとしては珍しい大曲も入っていた。作曲者がこのように弾いたとはとても思えないほど演奏者の個性が強く前面に出た演奏ではあったが、「さすがイエペス、先見の明あり」といった企画ではある。
その後は1991年マリア・エステル・グスマンというスペインの女性ギタリストが、日本のファンハウスというレーベルから「タレガ讃歌」と題した、やはりタレガばかりを集めたCDを出しているが、こちらの方は「椿姫の主題による幻想曲」のような珍しい大曲のほか、「シューマンの断章による前奏曲」といった短いが(1分ない)技巧的な作品も取り上げられている。このグスマンさんは、充分に個性的な上現代の演奏家には珍しく、古きよき時代のスペインを思い起こさせる演奏をする。しかしひょっとしたらタレガ自身は意外にもっとあっさりとした演奏スタイルだったのではないかというような気がしないでもないが。(ラフマニノフも自作の協奏曲を意外とすっきり弾いている)
その他有名なナクソスですらも、未だタレガにスポットを当てた企画を実行するに至っていない。とにかくタレガの作品ばかりを集めた録音ということになると、それほど少なかったのである。
しかし1822年生まれで1872年まで生きたG.レゴンディの作品はすでにナクソスのほか尾尻さんも大挙してCDに入れているし、村治奏一君もまた自らのレパートリーに取り入れて今年素晴しい演奏を聴かせてくれた。そしてレゴンディと同時代(1832年~1882年)に活躍した大ギタリストJ.アルカスの作品も、ステファノ・グロンドーナがA.トーレスのラ・レオナという名器で録音しているし、タレガの弟子でもあるM.リョベートはナクソスでロレンツォ・ミケーリが紹介しており、リョベートという芸術家の真価がカタロニア民謡の編曲集だけではないことを証明している。さらに今私の手元にはリョベート同様タレガの弟子であったダニエル・フォルテア(1878年~1953年)の作品ばかりを集めたCD(演奏はA.マルーリ。使用楽器は1928年製のD.エステソ)や、エミリオ・プホールの作品のみというCD(演奏はクラウディオ・マルコトゥーリ)もある。(これらのCDについてはまた別の機会にご紹介したい)
それらには、芸術作品としての限界を自ずと露呈してしまうものが多いのはいたし方がないとしても、ソルやジュリアーニといった古典の巨匠達が去り、レニャーニやメルツ、そしてコストなどが活躍したのち、次のセゴヴィアの時代を迎えるまでの間を埋めるものとして、今味わうことができるようになってきたのはまことに喜ばしい。
とにかく「近代ギター音楽の父」とか「ギターの聖フランチェスコ」とまでいわれながら、代表的な「アルハンブラの想い出」以外あまり世に紹介されてこなかったF.タレガの作品が、少しづつ全貌を現しつつある。せっかくのこの夏、その音楽にゆったりと浸ってみることにしよう。
内生蔵 幹


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