2009年1月23日のブログ記事一覧-ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい> パールマン&ウィリアムス デュオ

 随分長いあいだ聴くことのなかった、というよりも聴く気になれなかったレコードを出してきて聴いてみた。そのレコード(LP)は、テーマに掲げたようにヴァイオリンのイツァーク・パールマンとギターのジョン・ウィリアムスが1975年に録音したパガニーニとジュリアーニのヴァイオリンとギターのための作品が収録されたもの。一応演奏されている曲目を紹介しておくと、パガニーニは①チェントーネ・ディ・ソナタ第1番、②ソナタ第6番ホ短調 作品3、③ソナタ・コンチェルタータ イ長調、④カンタービレ、以上の4曲に加え、ジュリアーニ作曲ヴァイオリンとギターのためのソナタの計5曲。このレコードを夕食後出してきてお茶を飲みながらプレーヤーに乗せ、「聴く」というより「聞く」といった方がよい聴き方をしたわけだ。

 いつも思うのだが、この種の音楽は聴き方がとっても難しい。第一我らギター愛好家としては、これらの曲はヴァイオリン曲の範疇に入るのか、それともギター曲のジャンルに入れた方がよいのかと考えさせられてつい悶々としてしまう。しかしギターは一部を除いて終始単純な伴奏に甘んじており、あきらかにヴァイオリン主体の音楽といわざるをえないのだが、かといってヴァイオリンの奏でる音楽に深みというか芸術性は乏しく、ただ美しい旋律が次から次へと流れるだけの、いわば大そう退屈な音楽に終始している。当然ヴァイオリンをやっておられる方達が、こぞって演奏したがるようなレパートリーとも思えない。時代的にもう少しさかのぼったモーツァルトやベートーベンのヴァイオリンソナタのように、主役がヴァイオリンなのかピアノなのか、まだ決めかねているような作品ですらもっと深遠な芸術性をたたえていることを思うと、このパガニーニとジュリアーニの作品は、はるかに安易な娯楽性に傾き、その音楽の成り立ちから考えて、「演奏している自分達が楽しければそれでいいじゃん」といった傾向の音楽となっている。従って芸術作品を鑑賞させていただいて、できれば「なんとか深い感動の嵐につつまれたい!」。「感動にむせび、溢れんばかりの涙を流したい!」というようなむきには当然ながら耐えられるようにはなっていない。暫く集中して聴いていると、演奏している本人達の楽しさ(おそらく)とは裏腹に、なんとも居心地が悪く、一種の「イライラ感」がつのってきてしまうのはどうしようもない。もちろん今回紹介するこのレコードで、パールマンとジョンの演奏に非の打ちどころなどどこにもないばかりか、それぞれのテクニックは当然有り余っているであろうし、アンサンブルも完璧だ。しかし細部に渡ってケチなど付けようがないほど立派な演奏である反面遊びもなさ過ぎることもまた事実。従ってそのような立派な名演奏であるにも関わらず、リクルートファッションできっちり身を固めた新米サラリーマンを見るがごとくなんとも面白みに欠ける。おそらくこれは作曲家そのものの才能によるところが最も大きいのであろうが、少しだけ二人の作曲家の味方をして言わせてもらえば、ギターは大見得の切れるヴァイオリンの表現力の前には思う存分その魅力を発揮することができず、ひたすら単純な伴奏に徹するほかなく、反対にヴァイオリンもギターに遠慮して小さくまとまってしまい、かえって大見得を切ることもできずイジイジするしかなくなってしまったのではないだろうか。つまりお互い個性の潰し合いになってしまったということだ。たしかにギターは和音を爪弾いて伴奏することには向いているとは思うが、はたしてギターの性能はそんなものかというと決してそうではなく、もっと違った面で大きな表現力をもっている。ギターは「伴奏もできる」楽器ではあるが「伴奏しか出来ない」楽器ではない。またヴァイオリンはその表現能力をいかんなく発揮しようとすれば、組む相手としては、少なくともピアノや場合によってはオーケストラのような楽器が必要になってくるのかもしれない。つまりヴァイオリンとギターではその表現の向っている方向性がまったく異なるため、今回取り上げたレコードに収録されているような音楽は、お互いの個性を打ち消しあって、言い換えれば遠慮し合って小さくまとまらざるを得なくなってしまったのではないだろうか。だからこちらとしてはレコードをかけている間、じっと「聴く」という姿勢でいることに少なからず耐え難きものを感じてしまい、どうしても「お茶でも飲みながら」、あるいは「本でも読みながら」ということにならざるを得ないんだろう。「風呂にでも入りながら」なんていうことができれば最も適しているような気がする。
 しかしながらである。今回取り上げたパールマンとジョン・ウィリアムスが何かの拍子に皆さんの前に現れて、あるいは彼らが混じったパーティかなんかで、どちらかが「おい、一緒に演奏してみーひん?」というようなことにでもなって、ありあわせのヴァイオリンとギターを取り上げて、おもむろにパガニーニの曲を演奏し始めたらどうゆうことになるであろうか。おそらくその場に居合せた人たちの拍手と喝采に包まれて「大盛り上がり」になることは必至である。それほど今聞き返してみても彼らの演奏は一点の乱れもなく見事だし、ブラームスやフランクのヴァイオリンソナタのように、その場の雰囲気を高貴且つ重厚なものに変えてしまうような心配をする必要もない。
 これらの曲はこの二人ほどの実力が無くても充分弾きこなせるが、反対に当代随一の名手が時と場所を心得て弾いてこそ初めて生きる曲なのかもしれない。パールマンとジョンといえども姿かたちの見えないレコード(あるいはCD)というものなってしまうと、なかなかその魅力は伝わりがたく、32年ほど前に購入したレコードなんだけども、今日やっと30年ぶりくらいに聞いてみようかという気になったくらいで、この次また聞こうという気になるのは果して何年後のことであろうか。


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