<あれも聴きたい、これも聴きたい> レストランでの生演奏
若い頃からの下戸、つまり酒が飲めなかったせいかもしれないが、その分多少食べるものにはこだわりがあった。「どうせ同じお金を払うなら旨いものを」と考える方だった。それでは「旨いものだったら金には糸目をつけねえよ」となるかというと、正直そこまでいうほどの金もなけりゃ度胸もない。当然「なんでもいいや、腹が膨れりゃあ」というわけにもいかぬ。ところが世の中にはそういう人たちが結構いるもので、私の知り合いの中にもお昼一緒に食堂に入った時「オレ、定食!」といって、その中身も確かめず注文するものがいる。(ね、あなたのそばにもそういう人っているでしょ?)メインのおかずくらい確認してもよさそうなのに、彼らは一向に頓着しない。訊いてみると大概「大して違わないよ」といってはばからない。こちらとしちゃあ今これから自分の口に入るものが秋刀魚の塩焼きなのか豚の生姜焼きなのか。味噌汁なのかおすましなのか、そして付け合せはたくわんなのか白菜付けなのかは大いに興味があるところだ。そもそも重大事なのだ。なんといっても現在59歳の私が80歳まで生きるとすると、残り21年。一日に3回食事をするとしてもあと22995回しか食べられないことになる。昼食だけに限定すれば、その3分の1、7665回しかないことになる。北朝鮮の拉致問題ほどではないにしても、とても彼らのように粗略に扱えるような問題ではないのだ。たしかにそういう連中は、出されたものに何の文句を付けることもなく、結構満足して食べていることが多い(ように思う)のだが、後で訊いてみても大概「あんなもんじゃねえの」となんともそっけない。それに引き換えこっちとしちゃあそうはいかない。出てきた秋刀魚の生きが悪いだの、味噌汁が薄くて飲めたもんじゃないだの、はたまたたくわんがえらく薄くて歯ごたえがないだのと、文句のひとつも必ず言いたくなってしまう。これも持ち前の性分からどうしても「同じお金を払うなら少しでも旨いものを・・・」と考えてしまうところからきているらしい。あくまでも「あんなもんじゃねえの」と安易に妥協はしたくない。ましてや自分のふところ具合で食せる可能性のあるものに関しては異常な関心を示してしまう。私にしたらその中のひとつが「そば」だ。そう「蕎麦」。シコシコツルツルの日本蕎麦。これに関しては若いときからお気に入りで、結構あちこち食べまわった経験がある。第一蕎麦なんてものは食べ物のなかでもそんなに高いものではない。一人でしこたま食べても多寡が知れている。蕎麦を食い過ぎて家を潰したという話もあまり聞いたことがないし、蕎麦に惚れこんで身を持ち崩したというのもあまりないようだ。それに旨いと思う蕎麦も、これはあんまり・・・と思える蕎麦も、値段からすれば大して違わないものだ。おそらく普通であれば倍も違わない。なのに見ていると、その「これはあんまり・・・、蕎麦としてはいかがなものか・・・」と思えるようなものでも結構「うまいうまい」といって食べている人はいるものだ。もっともその蕎麦屋が今もって潰れずに営業しているのだから、世に存在価値を認められているというのも事実であろう。しかしこちらとしては「いっぱしの金を取りやがって、こんなものは蕎麦とは認めんぞ!」と、とにかくなんとも釈然としない。
話は代ってある有名なステーキ専門のレストランでのこと。そこは本格的なステーキ料理を食べさせてくれるお店であるが、その割には法外に高い料金を取るということもなく、いたって良心的で、しかもチェーン店を展開しており、あちこちにお店を出していて、そのほとんどの店舗でクラシックの生演奏を聞かせてくれることでも有名な店だ。あるときそんな店のひとつにかみさんと入り、まさに料理が運ばれてきた時、店内の一角で例のクラシックの生演奏が始まろうとしていた。それはピアノ伴奏のフルート演奏だった。一瞬自分の今までの経験を忘れ、「ド素人」となっていた私は、料理をチラッと見ながらも、固唾をのんでその演奏が始まるのを待っていた。ところがそのフルートの音が出た瞬間、ほんとのところずっこけてしまった。なんとまあひどい音。ひどい演奏だこと。音もそうだが内容たるやひどいもので、とても音楽になっていない。演奏しているのは十人前のご器量の娘さんなんだが、こちらとしてはかわいそうなくらい音楽になっていないのだ。伴奏のピアノもしかり。ちゃんとお稽古をしてあるのかしていないのか。弾いている音がぼろぼろ欠けており、リズムもあやふや。フレーズもアクセントもあったもんじゃない。それから先は料理の方に専念して音楽を聞かないようにしようとしたのだが、そこはもうだめ。お店としちゃあお客様に音楽を聞きながらお食事をというのを売り物にしているわけだから、どうしたって聞えてきてしまう。もうこちらとしてはステーキどころの騒ぎではない。しかし、しかしである。周りを見渡してみると、なんと皆さんいかにも楽しそうに音楽を聞きながらお食事をされているではないか。中には食事の手を止めて音楽に耳を傾けている家族ずれさえ見える。こちらとしては耳栓があったら一時お借りしてでも、なんとかその音楽(?)が聞えないようにしようと必死であるにもかかわらずである。早々にそのお店を出て車の中でかみさんに「えらいもんを聞かされた」といったら、かみさん曰く「えー!そうだったぁ?いい雰囲気だったのに」。我かみさんは世に聞えた「クラシック音楽音痴」だからして、言った自分を反省してしまった。
昔、子供のころ、学校から帰ってきて、お腹がすいているのにまかせて、そこらにあるお菓子をつまんでいると、お袋さんから必ず「そんなもん今から食べると、晩御飯食べられないよ!」といってしかられたものだった。そして晩御飯の時出された料理にケチでもつけようものなら、たちどころに「だから言ったでしょ。お腹がすいてりゃ何でもおいしいの!」と言ってまたまたしかられたものだった。考えてみればその通りだ。お腹がペコペコのときはたしかに何を食べてもおいしく感じるものだということは、その後の人生で何度も経験している。普段贅沢をせず、三度の食事の時に何を食べてもおいしいと感じたり、普段音楽なんてものに縁のない生活を送っていて、久しぶりに家族そろってレストランで食事という時、「素敵だね」といいながらみんなで食事ができる。こちらとしては食べたいお菓子を食前に食べてしまって、ちょっとやそっとではおいしいと感じなくなっている。うまい蕎麦を知っているがために下手な蕎麦では食べる気もしなくなる。また、なまじっか音楽というものにたずさわったことがあるというだけで、折角のレストランでの生演奏に閉口させられてしまう。はたしてどちらが幸せな人生なんだろう。
どちらにせよ「おいしいものにありつくためには金に糸目はつけねえ」ほどの財力も度胸もないのだから、1回の公演に何万ものチケット代を取られるようなオペラなんざぁ行ったこともない。所詮「あそこの店の蕎麦は結構いけるよ」程度の人生を送ることになるんだろうなあ、と思っている。
内生蔵 幹
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