「つぶやき・日常」のブログ記事一覧(2ページ目)-ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい> ちょっと若い頃のシャロン・イスビン

 久し振りにワクワク・ドキドキしながらCDを聴いた気がする。近頃の私にしては珍しいこともあるもんだが、それがどんなCDかというと、今やアメリカを代表する実力派ギタリストといってよい女流ギタリスト、シャロン・イスビン(1956年、ミネソタ州)が1984年、27歳の時に行った録音で、バリオスから始まり、ラウロ、サヴィオなど南米もののほか、グラナドス、トゥリーナ、ロドリーゴなどのスペイン、そしてイタリアのテデスコと、主にどちらかといえば民族色の強い作品ばかりを収めたものだ。
 はっきりとは覚えていないが、録音されてから1・2年後に発売となり、私としてもそのころ手に入れたもので、現在7・8枚所有しているシャロン・イスビンのCDの内、一番最初に手に入れたものということになる。もちろん当時私はこの人のことはその名前しか聞いたことがなく、どんな演奏をするギタリストなのかまったく知らずに購入した。
解説書を読むと、何でもトロントの国際ギターコンクールで、あのマヌエル・バルエコを押さえて第一位優勝を果した経験の持主と書かれているが、それを読んだ時は「コンクールなんて所詮そんなもんで、女性ということが審査員に対して少し有利にはたらいたんじゃねぇべが」くらいに思っていた。何しろバルエコよりも優れていると審査員が認めたわけだが、正直「そんなアホなことがあるかぁ!」という気持ちが拭えず、このCDからは、その経歴とは裏腹に「なんという荒削りな、独りよがりな演奏をする田舎のねぇちゃん!」という印象を受け、それ後は自分で「我流で品の無い演奏」というレッテルを貼り、ほとんど聴く気がしなくなっていた。その後少なくとも4・5回は聴いたことがあるような気はするが、その都度このCDに対する印象はあまり変わらず、ここしばらくはまったくといってよいほど自宅で聴いたことがない。
 それがどうしたことか、日曜日の今日、思い出したかのようにこの演奏が聴いてみたくなり、朝起きて一番にかけてみたのだった。
 するとどうだろう。あんなにも悪い印象しかもてなかったこの演奏が、素晴しく活々としてスリルに満ち、最初にもいったようにワクワク・ドキドキするような感動に満ちた演奏に聞えてしまったのだ。
こりゃどうしたことだ。当然CDに入っている演奏の内容が変化するわけもないので、これは聴くこちら側の変化というしかない。こっちがブレちまった訳だ。それを認めるしかない。こりゃ困ったゾ。毎回ここで(ミューズの日記)あれやこれや演奏について偉そうなことを書いている私が、同じ演奏について、どこかの国の漢字の読めない元総理大臣のように、これほどブレてしまうとは「みぞうゆう(?)な」大事件だ。まずいことになっちまった。これからは自分の発言にもう少し気をつけて、あんまり偉そうなことは言わねぇ方がよさそうだ。いずれにしても勝手に印象が変わっちまったのは仕方がないとして、何故なんだろうと考えざるを得なくなった。

とにかくこの時のシャロン・イスビンの演奏は、お世辞にも洗練されたものとは言い難いし、その素晴しい指のテクニックにも関わらずいたってバタ臭い。バリオス(ワルツ)にしてもトゥリーナ(ファンダンギーリョ)にしても、そしてグラナドス(スペイン舞曲)にしても、かなり癖のある演奏だ。歌いまわしやアクセントの取り方もかなり自己流だし、テクニックに任せての弾き飛ばしと思われても仕方のないような箇所も随所に見られ、とても一般的に言う正統派な音楽とは言い難い。現に私もこのCDを手に入れたときはあまり気に入らなかったわけだし、聴く人によっては好き嫌いがはっきり分かれる演奏といえるだろう。しかし今日の私の耳には、正統派の音楽とは違うが、むしろ「これこそ本物のギター演奏」というように聞えてしまったのだ。しかも演奏されている音楽がすべて民族色豊かなラテン系の作品ばかりである。ドイツやウィーンを中心とした、いわゆる現在世間一般に正統派と考えられている音楽とは違い、何か別のものを容認するというか、むしろ王道とは違う何かを要求する作品ばかりである。だからこそ「そうよ、こういう曲はこう弾かれてこそ初めてその魅力を発揮するんだわサ」と思えるのだった。(実はイスビンの別なCDの解説には、1978年、イスビン初来日の時の演奏を聴いた感想として、「ギターを聴いている以上に音楽を聴いているという実感を覚えた」とあるが、正直そんなはずはないという気がして仕方が無い。それはあくまでも解説を依頼された方の演奏者に対するお世辞に近い発言であって、私としたら「正統的な音楽の王道とは言い難いが、ギターの魅力を存分に発揮した素敵な演奏。むしろこれこそギターだ」と言うだろう)

そもそも「個性」というものはそんなものなんではないだろうか。全てに渡って「完璧」であればあるほど個性というものの入り込む余地は少なくなってくるものだ。女性も完璧な美人ともなると、目鼻立ちなど全てが整いすぎて個性が薄れてくるものだ。世に出て人気を博しているタレントの顔やスタイルを良く観てみると、やはりどこか整い過ぎず、少しくずれた部分がある。人はその何か整い過ぎたところから少しはみ出た部分に「愛嬌」とか「可愛さ」、そして「他の人とは違う美しさ」つまり「魅力的な個性」そのものを感じているのではないだろうか。つまり少し危険な言い方をさせてもらえば「個性とは、正統とは異なる許せる範囲での欠点」とでもいったらいいのかもしれない。
(注)私だったら・・・、完璧な美人が出てきても我慢する覚悟はすでにできているが。
ともかく今日何年かぶりに若きシャロン・イスビンの演奏を聴いて、久しぶりにこういう感想を抱き、なんだかギターもまだまだ捨てたもんじゃないなという気になった。今私が件のコンクールの審査員だとしたら、やはりバルエコの上にこのイスビンをもってきただろう。どうやら私も少し歳を取って趣味が変わってきたようだ。
また録音に際して使用された楽器は「トマス・ハンフリー(1981)」とあるが、これがまたなかなかドスの効いた低音と明瞭な高音の魅力を発揮して、音色そのものも随分魅力的な録音となっている。以下に収録曲を上げておく。
●バリオス:ワルツ第3、第4番、フリア・フロリダ●ロドリーゴ:ファンダンゴ●ラウロ:エル・マラビーノ、ベネズエラ・ワルツ第3番、セイス・ポル・デレチョ●A.ヴィアナ:コチチャンド●サヴィオ:バッカーダ●トゥリーナ:ファンダンゴ●グラナドス:スペイン舞曲第5番●テデスコ:タランテッラ
内生蔵幹

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<あれも聴きたい、これも聴きたい>イエペスの弾くヴィラ=ロボスの練習曲と前奏曲

 先回はイエペスの弾くソルの練習曲集を紹介したが、今回はヴィラ=ロボスの12の練習曲と5つの前奏曲を紹介しようと思う。演奏は1971年なので、前回のソルの練習曲集の4年後の録音。1927年生まれのイエペスの46歳のときの演奏になる。イエペスはご存知の通り、それまでにも芸術家として充分な実績を上げており、今回取り上げたLPの初出の時のジャケットの写真(同じ写真が使われていた)にも、すでにベルナベの10弦ギターを構えている写真が出ていることもあって(ソルの時はラミレスの10弦を持った写真が出ていた)、このころ既にかなりの年齢だったのではないかと思っていたのだが、その若さに改めて驚いた。
ところでこのころのイエペスは、何か教育的な目的で強くこれらの録音を残しておく必要性を感じていたのだろうか。4年経っているとはいえ前回紹介したソルの練習曲集に続きさらに大作のヴィラ=ロボスの練習曲全曲。しかも前奏曲も5曲全て(当時)とは。当時のイエペスの心の中を覗いてみたいような思いがする。何か強い使命感のようなものを感じていたのかもしれないが、我々ギター音楽の愛好家としては、よくぞこの演奏を残してくれたものと深く感謝したい。解説を読み返してみると、私たちのそんな受け取り方を証明するかのように、ソルの練習曲のレコードにもイエペスの言葉として「ギターを学ぶ人達に非常に助けになると考えて…」とか、「教育的な配慮から…」といったコメントが紹介されている。いずれにしてもこのレコードを聴いて行くとその意図は十分かなえられているといってよい名演奏となっている。音色、歌い廻し、音楽の運び等には、あまり過度ではないが十分なイエペスの個性が発揮されており、ほとんどの作品が素晴らしい芸術となっている。

しかしながらこれほど高度な練習曲も12曲全てとなると、イエペスの不得意(?)な部分をも垣間見られて面白い。それらは主に練習曲の2番、3番に表れている。イエペスは同じ音形が高速に続くパッセージにはやたらと強く、たとえば練習曲1番に見られるようなアルペジオのスピード感などは見事というほかないし、後半1弦と6弦は開放のままに、同じ押さえ方で1フレットづつ順に下がってくる部分の強調された2弦の響きなど「あっぱれ!」というしか言いようの無い個性的な表現になっている。さらに7番冒頭のスケールなども機関銃のように気持ちいいほど決まっている。しかし2番に採用されている左手によるアルペジオとでもいえる音の連続や、3番に出てくる同じような多弦に渡る音階にスラーが入り混じったような動きになると、途端に音の連続性が不安定になる。このような一種の癖とでもいえるような特徴は、実はイエペスの演奏には若いころから見ることができた。普通であればなんでもないと思えるようなパッセージで、時としてリズムが前のめりになったり、突っかかったように不規則にリズムが乱れる。その部分だけ取り出して聴いてみると、とても正確さに欠ける素人っぽい弾き方に聞える。これをイエペスの個性とみるか欠点と見るかは人それぞれとは思うが、私としてはやはりイエペスが生涯不得意とした指の動きのような気がしてならない。なぜならその突っかかったような、または時として前のめりになったような音の繋がりが、私にはどうしても必然的な音楽表現とは思えないからである。このあたりはイエペスのことをよくご存知のはずの荘村清志さんにいつか訊ねてみたいと思っている。

しかしその他の曲に関してはまったく見事としか言いようの無いテクニックと表現で演奏されており、練習曲としての目的にプラスアルファ、イエペスの個性が随所に、しかもいやみなくちりばめられており、何度聴いてもまったく飽きることが無い。ただ一つだけ最後に演奏される5つの前奏曲の最後、第5番だけは今のところ私としても正直言ってよく理解できないでいる。中間の短調の部分がその前後の長調の部分とまったくといってよいほど速度が異なり、聴いているとまるで楽章が変わったかのように完全に遊離し、異常なほどにゆっくりと演奏されていることだ。私にはそこだけはどうしても理解できない。何度聴いても「なるほどなぁ、そういう表現もあるかぁ」と納得できないのだ。もちろんこれも人によって感じ取り方の違いはあろうかとは思うのだが。

まったくの私の個人的な感想なんだが、イエペスは若い頃は当然のことながら自分の弾きたいように弾きまくっていたように思う。それが私たちの耳には斬新で、若々しく、しかもこの上なく芸術性高く聞えたものであった。しかし歳を重ねるごとに自分がどう弾きたいかではなく、その音楽が「どう弾かれるべきか」を追求していったように思えてならない。それは時としてギターという楽器の表現力を超えることを要求するため、私たちの耳には不自然と感じられたり、わざとらしさを感じてしまったり、言い換えれば「やろうとしていることは解るが、なにもそこまでしなくても・・・・」と思わせてしまうような表現を我々につきつけてくることがあった。それはあまりにも自然さを追求するあまり、知らぬうちに不自然な世界に迷い込んでしまっているかのようにも思えた。晩年のイエペスにはそんな姿が時折見られたものであった。しかし、今回取り上げたヴィラ=ロボスの練習曲と前奏曲全曲の演奏は、新しい世界を切り開いていこうとしながらも適度なバランス感覚を維持した芸術家イエペスが、我々に残して言った貴重な遺産という気がしてならない。
内生蔵幹(うちうぞうみき)

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<あれも聴きたい、これも聴きたい> イエペスによるF.ソルの24の練習曲集

 時が過ぎていくということは、良いこともあれば少なからず寂しい思いをさせられることもある。ついにかの有名なナルシソ・イエペスを知らないギター愛好者が出てきてしまった。
「あの有名な映画『禁じられた遊び』のテーマをギター一本で弾いていた有名なギタリスト」といっても、その若者は「禁じられた遊び」という映画自体を知らないらしい。メロディを教えてやると「あぁ、その曲だったら知ってるよ」といった程度の認識で、映画に使われた音楽ということをまったく知らないでいるようなのだ。そんな状態なので、ましてや「アンドレス・セゴヴィア」なんてえらーい人のことなんぞ、まったくご存じなくて当たり前らしいのだ。
こいつらギターやっておるくせにギターのCD(まさかLPとまでは言う気はないが)なんぞは聴かないのか、と思うとそんなことはないらしい。これだけ世の中CDやDVDだけでなく、YOU TUBEなんぞといったインターネットの世界でいくらでも新しいギタリストの演奏を見たり聴いたりすることができるので、我々のようにセゴヴィアやイエペス、はたまたジュリアン・ブリームやジョン・ウィリアムスがレコードで聴ける唯一のギタリストだった世代とは違って、セゴヴィアやイエペスを知らなくても、ましてや「禁じられた遊び」といった戦争の悲惨さを描いた映画なんぞを知らずとも、なんの不都合も来たさないのだ。
たしかに最近のギタリストは、そういった昔(?)の有名なギタリストに比べれば遥かに技術的には優れており、実際の演奏を生で聴いてもまるでCDを聴いているかのように完璧に近い演奏をしてしまう。ましてやCDなんぞはあくまでもデジタルの世界。ツギハギも修正も思いのままだ。あやうい演奏なんぞは皆無といってよく「こんなんでもええんだべか?」というような気がするだけでなく、どの演奏もあまりに完璧なため、CDを聴いただけではまったく演奏者の区別がつかないようになってしまった。これも時代なんだろうが、時が過ぎて、どうも芸術の世界そのものが変化してしまったのかもしれない。
 
ところで今回のテーマであるイエペスの弾くソルの練習曲なんだが、解説には1967年の録音とあるからもう既に44年も前の演奏ということになるが、イエペスがソルの練習曲ばかりを24曲そろえて録音しているLPがあった。
*今までソルの練習曲をかなりの数まじめに取り上げた録音といえば、古くはジョン・ウィリアムスがあり(これはさすがに立派な演奏ではあるが、少々生真面目過ぎて物足らないような気がしてしまう)、最近ではナクソスが何人かの若手演奏家を起用してソルの作品全曲録音を行ったものがあるのは皆さんご存知のことと思う。またごくごく最近では「ポルケッドゥ(?)」とかいうギタリストが録音した20の練習曲が出たので聴いてみたが、あまりにも・・・・な演奏であったため正直途中から腹が立ってきた。表現がわざとらしく、いやみなことこの上ない。
イエペスにしてみたらなんのことはない曲ばかりであろうし、曲の並び順もセゴヴィアの編纂した20の練習曲とはまったく異なり、あまり必然性を感じさせるものとは言い難いが、それぞれの曲の内容はさすがと思わせるものがあって、このような練習曲でさえも、ここまで細心の注意を払って演奏すべきなんだと感心してしまうほど立派な演奏になっている。しかもイエペスが時おり見せる「なにもそこまで・・・・」というような“これみよがしなわざとらしさ”は、無くは無いが気になるほどではない。
とにかく作曲者のソルがそれぞれの曲に込めた訓練としての技術的、あるいは音楽的な要求は見事に再現されているだけでなく、イエペスの個性といったものもいやみなく、しかも充分に発揮されており、聴いていて気持ちが良い。曲によっては演奏のスピードやスタッカートの使い方に異論を挟めなくはないが、それでも旋律と伴奏の弾き分けや音楽そのもののうたいまわしには誰もが規範とすべきものがあり、このレコードがさすが超一流のギタリストの仕事といえる見事な芸術作品となっている。時代様式はともかく、これほど単純で簡単な音楽でさえ、芸術としてはここまでやることがあるんだということを聴くものに教えてくれる優れた演奏になっている。

皆さんはギターの練習をするとき、ここまで考えて演奏をしているだろうか。音階練習やアルペジオの練習といっても、出来ないところや弾き難いと感じるところだけちょこちょこっとやって済ましてはいないだろうか。
単純な音階練習といっても、まず楽器の構え方はどうであろう。理想的なフォームになっているだろうか。本当の意味で正しい左手の押さえ方はできているだろうか(指の曲げ方、押さえる角度、弦に触れる指先の位置など)。左肘はくねくねと左・右に動き回っていないか、肩には無駄な力が入っていないだろうか。右指からは正しく美しい音が出せているか。また左指と右指の押弦・弾弦のタイミングはベストであろうか。音階練習の最も重要な目的はこの左右の指のタイミングの練習といっても過言ではない。アルペジオの練習でも正しく均一な音量で弾けているか。またアルペジオに含まれるどの音にも自在にアクセントを付けて弾くことができるだろうか。
基礎練習はあまり楽譜を覚えるという必要がないからこそ、それらのことに気を配って練習に打ち込めるのだということを忘れてはいけない。基礎練習といっても、それがあたかも優れた音楽であるかのように美しい音で弾かれる必要がある。しかもそれが力学としてまったく理に適って効率よく(楽に)行われなければならない。いかなる基礎練習もただ音が出たというだけでは、なんの効果も望むことはできない。上達のコツとして、ぜひともこれらを忘れずに毎日の練習を行ってほしい。
内生蔵幹(うちうぞうみき)


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昨日、四日市のギターサークル「サルビア」の皆さんがミューズに来て下さいました。
しかも、8万円の義援金を封筒に入れて持って来てくれたんです。指導者で、リーダーの伊藤さん曰く「チャリティコンサートがミューズで開かれるのを知って、サルビア28名のメンバーから義援金を募って、このチャリティーコンサートで集まったお金に加えて頂こうということになりました。」とのこと。このお気持ちがうれしいではありませんか。

また、お一人、お一人がそれぞれのお気持ちで寄付して頂いたと思うのですが、総額8万円と言う金額は結構なお金です。お一人が数百円や千円ではこの額にはなりません。このお気持ちにも頭が下がります。
サルビアの皆さん、本当にありがとうございました。

地震、つなみの被害にあわれた方々、更に原発の被害を受けられている皆さんが元の生活に戻るには、長い年月と莫大な経費が掛かることは間違いありません。我々皆で支え合い、支援して行かなくてはならないと思っています。皆さん、一緒に頑張りましょう。

5月1日のミューズサロンでのギター・チャリティーコンサート、5月18日の電気文化会館でのマリンバ・ピアノ・チャリティーコンサートも是非よろしくお願いいたします。
山下高博

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こんにちは。スタッフの関谷です。
今日はお休みなのですが、いつも忙しくて、ゆっくり文章を考える暇がないのでおうちのパソコンから書いてます。

3月3日の素敵な1日のお話です。
朝、開店してすぐ「お早うございます!恋人を迎えに来ました!」っていらしたOさん
実は、彼女のギターのサドルの加工を依頼されてお預かりしていたのです。
完了連絡をしたら、朝一番で来てくださったんです。
帰られて、しばらくしてからこんな内容のメールが入りました。
「とてもよく響くようになりました。さっきは(ギターのこと)恋人って言ったけれど、まだ私の片思いなんです。両想いになれるよう頑張ります。」
なんて、かわいい!(失礼かしら?)
いいえ、もう両想いだと思いますよ。あなたが彼の怪我に気づいて直してあげたから、よく響いてくれるんですもの。もっと熱烈な両想いになれるよう祈ってます。

お昼前には、今月お引越しで退会されるkさんがレッスン時間を利用して、先生と一緒にプライベートコンサートを催してくださいました。
3曲披露してくださったのですが、プログラムを作ってお手紙まで下さって・・・。
2曲は先生とのギターデュオ。1曲は先生の演奏をBGMにメッセージを読み上げてくださった後に、以前習ったことのあるシャンソンを歌ってくださいました。

そのメッセージにグッと来て、逢えなくなるのがとても淋しくなりました。遠くに引越しされるけれど、繋がっていたいからと新しい住所も教えてくださいました。「私、ミューズ音楽館のファンなんです。」って泣きそう・・・
お嬢さん2人のママさんであり、しっかりした奥さんであり、おしゃれな女性であるkさん、元気でギターを続けてくださいね


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