一顆明珠~住職の記録~

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板橋興宗禅師(前総持寺貫主)の「道元禅師の禅」に対する一考察(「信」の問題を中心にして)Ⅱ

2006年02月02日 | 禅・仏教
一昨日の記事の続きです。

引き続き、板橋禅師の文章を引用します。『<いのち>をほほ笑む』春秋社より


 現代宗学の要旨 信を中心に
 現代宗学の根本的な考え方は、迷える凡夫が悟って仏になるための修行ではなく、すでに仏の座にある自分が仏の修行をするというものである。「悟」のかわりに「信」の仏法を展開したことに道元禅師の真面目(しんめんぼく)があるという。この点について、榑林博士の主張を要約して、次に述べてみよう。
 
 お釈迦様や祖師方が大修行の末に確証された結果はすでに明確に示されている。いまさら先哲が時間と労力を傾けて得られた結果を、自分も身心を労して追体験して検討する必要はない。ましてや機根の優れた修行者ならいざ知らず、われわれは古仏たちのような修行ができるのでもないし、古仏と同じ悟りを得られるとは限らない。自分が修行を見つめ、そのうえ悟ってみて、仏であることを確認しなくとも、「衆生本来仏なり」という古仏の証明を信ずれば、それでよいのではないか。
 自分が仏であることを信ずることによって、「仏としてのわれが」が仏祖道を実践する。修行の第一歩が、すでに仏の立場における第一歩である。そこには、本証の立場にある自己を具体化するものとして、不染汚の妙行が永遠につづき、始めも終わりもない。仏が仏の行をする。それが仏成仏、悟上得悟の道である。しかるに、迷える凡夫の立場を修行の発足とすれば、悟って仏にならなければならない。悟りを前提とした修行になる。これは迷いを転じて悟りを開く「待悟禅」である。道元禅師当時の中国に行われていた「宋朝禅」や「臨済流の禅」はみな、修と証を二元的にみる待悟禅である。頓悟成仏の仏法である。道元禅師の正伝の仏法はこれとちがい、自分が仏であることを堅く信受することからはじまるので、信性成仏である。「信の仏法」を展開することによって、修と証を一つに見る本証の妙修の仏法になった。これは従来の待悟禅から格段の飛躍前進と言うべきである。それで「信現成のところは仏祖現成なり」という道元禅師の一句を、極めて重要視するのである。
 
 以上のような考え方は、榑林博士ばかりでなく駒澤大学を中心とする、宗学の指導的立場にある諸先生方、あるいは著名な宗師家がたの基調をなす宗乗観といっても差し支えあるまい。そしてそれは、今や宗門の常識にまでなっている。
 この宗学のキイ・ポイントとも言うべきところは、自分が仏であることを、「信ずる」ことによって「仏の立場」になる。その仏としての自分が、仏の行を妙修する、というところにある。まことに巧妙な論理の運びで、誰にもわかりよさそうにみえる。「信ずる」ということは宗教の中核のように思うので、誰も合理的に究明しようとしない。だが実は、この「信ずる」というところに重大な問題がかくされている。これから「信」の問題を考察する前に結論だけ最初に言っておこう。
 普通一般の宗教といわれるものは、「信ずる」宗教である。ただ仏教だけは、信ずることさえも脱け落ちた、宇宙の真相のままに生きる「解脱」の道である、ということを示唆しておきたい。

以上引用です。

次回に続きます。


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