昨日、新年教区会の席で、隣になった先輩ご住職(以下A師)に私の思いを打ち明けました。
まずA師について話したいと思います。
A師は私が当寺に来て以来、精神的な支えとなってくださった方の一人です。
A師は、お寺で坐禅会はもちろんのこと、ジャズコンサートを催したり、ヨガ、太極拳、居合道、書道などのカルチャースクールを開いたり、地域開放に向けた積極的な取り組みをされており、将来的なお寺の一つのあり方として私も大いに勉強させていただいております。
また、世俗的なことに留まらず、ご自身については安泰寺僧堂で長年安居(修行)され、現在も毎年、臘八摂心(8日間にわたる坐禅三昧の期間)に随喜(参加)されるなど、道心を保っておられる希少な僧侶の一人です。
私は、そんなA師から会ってお話を伺うたびに少なからず仏道について教えられていました。
また、残念なことに現在の宗門には、肝心な仏道について話し合う雰囲気がないのですが、A師は私の実行の伴わない青臭い論議も、いやな顔ひとつせず受け止めてくださり、またご自身の持論や信念も縷々述べられたり、師と対話をする中で私自身つねに一僧侶であることを自覚させられておりました。
さて、そんなA師に、私の最近の学びを含めた将来的な方向性について、また、道元禅師の禅について思うところを申し上げたのです。
ほとんど愚痴に近かったかもしれません。
いつものようにあ~だこ~だ屁理屈をこね回していたかもしれません。
一通り聞いてくださったあと、A師いわく。
「正しいか正しくないかは、あまり問題じゃない。あなたがそれに殉じることができるかどうか。そこが問題だ。これだと思ったら、誰がなんと言おうと突き進むべきだ。そこに真価がある。あなたがこれから道元禅師とどう向き合っていくか。ここで正しいか正しくないかは大事ではない。あなたが迷わずに信じた道を歩むことこそがあなたの力量となり、人間的魅力になる」
というようなことを言われました。
自分の信念に殉じることができるかどうか。
これだと思ったら迷うことなく突き進むこと。
周囲の意見や干渉に惑わされないこと。
あたたかくも厳しいご忠告はとても心に響きました。
今ここで、やるかやらないか。
「信現成」は、いまぎり、ここぎり、身心丸ごとの没入以外にはない。
自分の信じるところに没入すること。
しかし、そうは言っても現状、弱腰の自分がどっしり居座っていることは事実。
「すったもんだ、格闘するのもいい」
そんな私を見て取ったのか、そう言ってくれた師の言葉に安らぎを覚えます。
可能な限り、道を明らめて生きたい。
時には勇気を振り絞って飛び込むことも必要。
私は、周囲の人々に恵まれています。
まことに有り難いことです。
※当ブログを応援してくださる方はお手数ですが下のバナーをクリックしてください!
ありがとうございました!
まずA師について話したいと思います。
A師は私が当寺に来て以来、精神的な支えとなってくださった方の一人です。
A師は、お寺で坐禅会はもちろんのこと、ジャズコンサートを催したり、ヨガ、太極拳、居合道、書道などのカルチャースクールを開いたり、地域開放に向けた積極的な取り組みをされており、将来的なお寺の一つのあり方として私も大いに勉強させていただいております。
また、世俗的なことに留まらず、ご自身については安泰寺僧堂で長年安居(修行)され、現在も毎年、臘八摂心(8日間にわたる坐禅三昧の期間)に随喜(参加)されるなど、道心を保っておられる希少な僧侶の一人です。
私は、そんなA師から会ってお話を伺うたびに少なからず仏道について教えられていました。
また、残念なことに現在の宗門には、肝心な仏道について話し合う雰囲気がないのですが、A師は私の実行の伴わない青臭い論議も、いやな顔ひとつせず受け止めてくださり、またご自身の持論や信念も縷々述べられたり、師と対話をする中で私自身つねに一僧侶であることを自覚させられておりました。
さて、そんなA師に、私の最近の学びを含めた将来的な方向性について、また、道元禅師の禅について思うところを申し上げたのです。
ほとんど愚痴に近かったかもしれません。
いつものようにあ~だこ~だ屁理屈をこね回していたかもしれません。
一通り聞いてくださったあと、A師いわく。
「正しいか正しくないかは、あまり問題じゃない。あなたがそれに殉じることができるかどうか。そこが問題だ。これだと思ったら、誰がなんと言おうと突き進むべきだ。そこに真価がある。あなたがこれから道元禅師とどう向き合っていくか。ここで正しいか正しくないかは大事ではない。あなたが迷わずに信じた道を歩むことこそがあなたの力量となり、人間的魅力になる」
というようなことを言われました。
自分の信念に殉じることができるかどうか。
これだと思ったら迷うことなく突き進むこと。
周囲の意見や干渉に惑わされないこと。
あたたかくも厳しいご忠告はとても心に響きました。
今ここで、やるかやらないか。
「信現成」は、いまぎり、ここぎり、身心丸ごとの没入以外にはない。
自分の信じるところに没入すること。
しかし、そうは言っても現状、弱腰の自分がどっしり居座っていることは事実。
「すったもんだ、格闘するのもいい」
そんな私を見て取ったのか、そう言ってくれた師の言葉に安らぎを覚えます。
可能な限り、道を明らめて生きたい。
時には勇気を振り絞って飛び込むことも必要。
私は、周囲の人々に恵まれています。
まことに有り難いことです。
※当ブログを応援してくださる方はお手数ですが下のバナーをクリックしてください!
ありがとうございました!
りょうさんの思うところはだいぶこのブログを通じてお聞きしている気がしています。どうか今ぎりの道を存分にご精進くださいませ。
こういう議論を面倒くさく感じる人がありますが、残念なことです。
ですか?
A老師のような方が近くにいらっしゃってよかったですね。
ますますのご精進を祈ります。風邪にお気を付け下さい。
遅ればせながら、午後H寺に行き、先ほど戻りました。このたびも大役を仰せつかりました。よろしくご指導のほどよろしくお願い致します。
さて、この場を借りるまでもなく、teraさんもまた、私をこれまで精神的に支えてくださった方のお一人です。またteraさんから、いつもたくさんのことを学ばせていただいております。僧侶同士で仏道のことを話せないのは寂しい限りです。みなさんと議論をするなかで高めあえるような、そんな雰囲気になることを切望します。これからもご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。ちなみに、いまぎり、ここぎりという言葉は、teraさんのブログを見て思いつきました(笑)
>ぜんさん
私の寺が属する教区の中には、有り難いことにA師やteraさんのように、そうした話をさせていただける、または自らなさるご住職もおり、私は恵まれているかもしれません。
ですが全体としては・・・おそらくはぜんさんもお感じの通りです。これから間違いなく儀礼仏教が衰退する中で、法灯を守るためには、やはり住職が仏道に立ち帰らなければならぬと思うのです。そこが問われると思います。もちろん生き残るための発心ではありませんが。
>pumpkinさん
そうです。
○音兄です。
ご存知ですよね(笑)
特に彼の兄とは、高校時代の一個下の後輩で親しくさせていただいております。
この世界は本当に広いようでせまい・・・ですね。
>風月さん
こんばんは。
こちらにもようこそいらしてくださいました。
若輩ですが、これからもよろしくお願い致します。
内山興正老師のお話を直接聞かれたことがおありなんですね。うらやましい限りです。内山老師の慈しみ溢れるお顔素敵ですよね~。風の噂で正法眼蔵の専門家であられるとのこと聞き及びました。私はほとんど初学者のようなものですが、これから学んで行こうと思います。昨日は「嗣書の巻」を読みました。
風月さんもご自愛のほどをお祈り申し上げます。