以下の文章は、以前掲示した当寺の山門伝導版の文章に若干の加筆訂正をしたものです。
あきらめるは明らめるに通ず
「あきらめる」という言葉、おそらくみなさん嫌いなのではないでしょうか。
でも私は、この「あきらめる」という言葉と、この行為の持つ深い意味に、安らぎの念と、多少大げさですが慈悲の可能性を感じています。もちろんこの言葉の持つマイナス面も認識しています。ですが私たち、特に日本人は、この語が持っている隠された大きな力に気づかず、マイナス面ばかりにとらわれているのではないでしょうか。私たちは、あきらめないことは、美徳であり、あきらめることは、すなわち敗北、恥辱であるという考え方を社会通念として当たり前のように吸収し、その考え方に心が支配されているように思います。
私自身も、テレビドラマ「スクールウォーズ」が流行した時代に青少年期を送り、特にテレビに影響されたわけでもありませんが、劇中で繰り返されるセリフ「ネバーギブアップ」に代表されるような、何事も「決してあきらめない」ということが、人の目指すべき美しく力強い生き方であるという価値観をもっていました。現代の青少年の風潮は変化しつつあるようですが、それでも日本社会の中には
、根底に「あきらめない=素晴らしい生き方」という価値観が根付いているのではないでしょうか。もちろん私は、あきらめないということを否定しません。「念ずれば通ず」という言葉があるように、あきらめずに成功をひたすら念じ、挑戦をし続けることで、私たちの文明は進歩し、歴史的にさまざまな偉業を成し遂げてきたからです。
しかし、少なくないであろう人々が、自分の夢や願望を追い求めても、それがかなわず、あきらめられないということで、あまりにも大きな苦しみを抱えているのではないかと思うのです。
あきらめられないことには、さまざまな対象があるでしょう。人間関係(親子、夫婦、嫁姑、職場、恋人、友人etc)、仕事、地位(出世)、進路(進学)、能力、財産、健康、名誉、容姿、等々。まさに人間の願望の数だけ、あきらめられない対象があるといえます。
あきらめないことで願いがかなうことも人生のうちには何度も訪れるでしょう。しかし、心のどこかで、これ以上あきらめないでいても願いがかなわないことを知りながら、それでもどうしてもあきらめられなくて、はかり知れない苦悩を抱えている人々がいることも事実なのです。
ではどうして、ひとはなかなか「あきらめること」ができないのでしょうか。ひとつには、先述したなかば洗脳されたかのように根強い、日本人らしい情緒的価値観が挙げられます。ですが、もっと本質的な理由は、それまで自分がその願いを実現するために費やしてきた時間と労力(精神的・身体的)が、「あきらめること」で、すべて無意味になってしまうということへの恐怖心に原因があるのではないでしょうか。
では、自分がどれだけ努力して願いを強く持っても、自分の思い通りにかなえられない願望を「あきらめること」は、はたして逃げでしょうか?敗北でしょうか?
いや、私はむしろ上手にあきらめることは、健全で爽やかな生き方、その人の人生及び人間性を豊かにすることにつながるのではないかと考えます。たとえば、自分や、ひいては周囲の人々を苦しめると分かっているようなときに、己の願望にひたすらしがみついてあきらめないのは、エゴへの執着であり、苦悩を生む根源となります。こうした事態は逆説的な現実逃避といってもいいでしょう。しかし、あきらめ上手であれば、そうした状態に陥る前に、さらりと心を転換させて、自分のとるべき行動の選択肢の幅を広げることができるのです。
では、私たちがとりわけあきらめることを苦手とする人生上の問題は何でしょうか。
私は、人間関係にあると思います。
たとえば、親子関係、夫婦関係、恋愛関係、職場の人間関係、友人関係…etc。物理的な、例えば財産所有の多寡、社会的地位などの問題は、個人の努力である程度道が開ける可能性もありますが、人間関係は相手あってのことですから、思い通りにいかないことが多いものです。また人間は、言うまでもなく取替えのきかない存在なだけに、別離(生別・死別)への恐れや、嫉妬、憎悪の苦しみは他の諸問題と比べて、より深いといえます。
また、人間関係において「あきらめられない」という事態を観察すると、往々にして、相手の立場ではなく、おのれのエゴに基づいた視野狭窄に自らを苦しめている状況が見受けられます。つまり、相手を自分の思い通りにしたいという勝手な思いに振り回されるわけです。そして、そうした思いが強ければ強いほど、事態は深刻な様相を呈します。例えば、その極まった先に、殺人、ストーカー、自傷・自殺といった行為があるといえましょう。
あきらめることには、はかりしれない苦痛を伴います。その願望が大きいほど、真摯であればあるほどに、あきらめることには大きな恐怖を覚えます。しかしあきらめる時が来ているにもかかわらず、自分の願望にしがみつき、あきらめることをしなければ、いつまでも生き地獄は続くことになります。自分の可能性はその一点に縛りつけられて閉ざされてしまいます。感受性も乏しくなり、人生の豊かさを体験することもできません。しかし、時間はかかっても勇気を振り絞って、(いったん)あきらめることにより、心の風通しが良くなり、大きな挫折を乗り越えた経験が、より深い他者への共感と愛につながっていきます。
ここには、人生最大の妙薬「ゆるし」という行為が潜んでいるのではないでしょうか。それは、他人に対する「ゆるし」である以上に、実は自分に対する「ゆるし」であるのです。これまで自分を縛り付けていたエゴを手放すこと。それは、本当の意味で自分の全存在を丸ごと受け入れることであり、そのときにはじめて、私は何があっても全てにおいて「オッケー」だと言うことができるのだと思うのです。
真剣に努力奮闘したにもかかわらず、かなえられない願望であれば堂々とあきらめればよいのです。罪悪感、敗北感を持つ必要はまったくありません。あきらめないこと以上に、あきらめることは勇気ある選択なのですから。とにかく苦しくて仕方なければ、(いったん)あきらめてみること。括弧して「いったん」としたのは、完全にあきらめるよりも、可能性を多少なりとも残しておくほうが、無理がなく苦しみが少ないと思うからです。ここはMUST化(こうあらねばならないという思考)せずに、戦略的にいきましょう。ここで重要なのは、心をニュートラルに戻し、一つの対象への執着から自己を解放するということです。
さらに、わたしたちはあきらめる以上は、正しくあきらめることが大切です。正しくあきらめるとは、あきらめる行為自体が、すべて自己責任に帰するということを深く自覚することです。つまり他者や、周囲、環境のせいにしない。苦しくても、自ら望んであきらめるのだということをしっかり自覚するということです。そうしないと、いつまでたっても、憎悪や失意の感情は消えないまま人生を送ることになるからです。かえって苦悩を増す結果にならないとも限りません。
あきらめるのは決してたやすいことではありません。特に周囲に真面目で誠実だと思われている人ほど、あきらめるのが下手であるように思います。言い方はきつくなりますが、不器用で融通がきかない堅物ほどあきらめが悪い。生きていく上で生じるさまざまな問題に、どうしてもあきらめがつかない。
では、それでもどうしても「あきらめること」ができない人はどうすればいいのでしょうか?
実はここにそんな人のために、最後の手段、悪あがきの秘策が残されています。
それは「あきらめることをあきらめる」というやり方です。矛盾しているように思うかもしれません。でも本当にあきらめられないで苦しんでいる人には、この方法しか残されていないように思うのです。
私は、「あきらめることをあきらめる」ということが、「あきらめる」ということと同じ意味ではないと考えます。あきらめることをあきらめることによって、執着している対象を客観化する道が開き、頭の中で凝り固まってしまった思いがほぐれ、理性が介入するきっかけが作られるのではないかと思います。
狂おしいほどの願望をあきらめるのには、はかり知れない苦しみを味わうでしょう。それでも、人生のドロドロ、自分の中のドロドロした部分から目をそらさずに、苦悩するときはとことん苦悩する。そして、かならずいつか苦悩を乗り越え、その体験を糧に、より人として豊かになっていくと信じる姿勢が大事なんだと思います。人生に無駄はない。人生のどんな経験も自己成長の学びに溢れています。
近年流行りの人生論や自己啓発論では、プラス思考、ポジティブシンキングなる言葉が安易に流布されているような気がします。言葉自体は私も好きだし、実際素晴らしい力を発揮することも多く、人生の姿勢の根幹として据えておくのにやぶさかではありません。ですが、人生はそうした概念の表面的な解釈だけで乗り越えられるほど生易しいものではないことは事実です。悩み苦しむべきときにそれを避けていれば、目先の快楽におぼれて、人生は平板になり、感性も乏しくなります。
今回は、あえて人々に忌み嫌われている(と思われる)「あきらめるということ」の意外な効用を取り上げました。
最後に、改めて誤解のないように申し添えれば、この文章のはじめの方でも述べた通り、「あきらめる」ということを無条件で推奨しているわけではありません。「あきらめない」ことが、自己や他者の成長と幸福につながるのであれば、たやすくあきらめるべきではありません。
その願望が、自分の欲求を満たすためだけの小さなエゴに基づいたものなのか、それとも、エゴを乗り越えようとする偉大なはたらきを秘めたものなのか、ここを見極めることが何より大事なのでしょう。
拙文のヒントとなった本は『「あきらめ上手は生き方上手」下園壮太 マガジンハウス』です。
※当ブログを応援してくださる方はお手数ですが下のバナーをクリックしてください!
ありがとうございました!
あきらめるは明らめるに通ず
「あきらめる」という言葉、おそらくみなさん嫌いなのではないでしょうか。
でも私は、この「あきらめる」という言葉と、この行為の持つ深い意味に、安らぎの念と、多少大げさですが慈悲の可能性を感じています。もちろんこの言葉の持つマイナス面も認識しています。ですが私たち、特に日本人は、この語が持っている隠された大きな力に気づかず、マイナス面ばかりにとらわれているのではないでしょうか。私たちは、あきらめないことは、美徳であり、あきらめることは、すなわち敗北、恥辱であるという考え方を社会通念として当たり前のように吸収し、その考え方に心が支配されているように思います。
私自身も、テレビドラマ「スクールウォーズ」が流行した時代に青少年期を送り、特にテレビに影響されたわけでもありませんが、劇中で繰り返されるセリフ「ネバーギブアップ」に代表されるような、何事も「決してあきらめない」ということが、人の目指すべき美しく力強い生き方であるという価値観をもっていました。現代の青少年の風潮は変化しつつあるようですが、それでも日本社会の中には
、根底に「あきらめない=素晴らしい生き方」という価値観が根付いているのではないでしょうか。もちろん私は、あきらめないということを否定しません。「念ずれば通ず」という言葉があるように、あきらめずに成功をひたすら念じ、挑戦をし続けることで、私たちの文明は進歩し、歴史的にさまざまな偉業を成し遂げてきたからです。
しかし、少なくないであろう人々が、自分の夢や願望を追い求めても、それがかなわず、あきらめられないということで、あまりにも大きな苦しみを抱えているのではないかと思うのです。
あきらめられないことには、さまざまな対象があるでしょう。人間関係(親子、夫婦、嫁姑、職場、恋人、友人etc)、仕事、地位(出世)、進路(進学)、能力、財産、健康、名誉、容姿、等々。まさに人間の願望の数だけ、あきらめられない対象があるといえます。
あきらめないことで願いがかなうことも人生のうちには何度も訪れるでしょう。しかし、心のどこかで、これ以上あきらめないでいても願いがかなわないことを知りながら、それでもどうしてもあきらめられなくて、はかり知れない苦悩を抱えている人々がいることも事実なのです。
ではどうして、ひとはなかなか「あきらめること」ができないのでしょうか。ひとつには、先述したなかば洗脳されたかのように根強い、日本人らしい情緒的価値観が挙げられます。ですが、もっと本質的な理由は、それまで自分がその願いを実現するために費やしてきた時間と労力(精神的・身体的)が、「あきらめること」で、すべて無意味になってしまうということへの恐怖心に原因があるのではないでしょうか。
では、自分がどれだけ努力して願いを強く持っても、自分の思い通りにかなえられない願望を「あきらめること」は、はたして逃げでしょうか?敗北でしょうか?
いや、私はむしろ上手にあきらめることは、健全で爽やかな生き方、その人の人生及び人間性を豊かにすることにつながるのではないかと考えます。たとえば、自分や、ひいては周囲の人々を苦しめると分かっているようなときに、己の願望にひたすらしがみついてあきらめないのは、エゴへの執着であり、苦悩を生む根源となります。こうした事態は逆説的な現実逃避といってもいいでしょう。しかし、あきらめ上手であれば、そうした状態に陥る前に、さらりと心を転換させて、自分のとるべき行動の選択肢の幅を広げることができるのです。
では、私たちがとりわけあきらめることを苦手とする人生上の問題は何でしょうか。
私は、人間関係にあると思います。
たとえば、親子関係、夫婦関係、恋愛関係、職場の人間関係、友人関係…etc。物理的な、例えば財産所有の多寡、社会的地位などの問題は、個人の努力である程度道が開ける可能性もありますが、人間関係は相手あってのことですから、思い通りにいかないことが多いものです。また人間は、言うまでもなく取替えのきかない存在なだけに、別離(生別・死別)への恐れや、嫉妬、憎悪の苦しみは他の諸問題と比べて、より深いといえます。
また、人間関係において「あきらめられない」という事態を観察すると、往々にして、相手の立場ではなく、おのれのエゴに基づいた視野狭窄に自らを苦しめている状況が見受けられます。つまり、相手を自分の思い通りにしたいという勝手な思いに振り回されるわけです。そして、そうした思いが強ければ強いほど、事態は深刻な様相を呈します。例えば、その極まった先に、殺人、ストーカー、自傷・自殺といった行為があるといえましょう。
あきらめることには、はかりしれない苦痛を伴います。その願望が大きいほど、真摯であればあるほどに、あきらめることには大きな恐怖を覚えます。しかしあきらめる時が来ているにもかかわらず、自分の願望にしがみつき、あきらめることをしなければ、いつまでも生き地獄は続くことになります。自分の可能性はその一点に縛りつけられて閉ざされてしまいます。感受性も乏しくなり、人生の豊かさを体験することもできません。しかし、時間はかかっても勇気を振り絞って、(いったん)あきらめることにより、心の風通しが良くなり、大きな挫折を乗り越えた経験が、より深い他者への共感と愛につながっていきます。
ここには、人生最大の妙薬「ゆるし」という行為が潜んでいるのではないでしょうか。それは、他人に対する「ゆるし」である以上に、実は自分に対する「ゆるし」であるのです。これまで自分を縛り付けていたエゴを手放すこと。それは、本当の意味で自分の全存在を丸ごと受け入れることであり、そのときにはじめて、私は何があっても全てにおいて「オッケー」だと言うことができるのだと思うのです。
真剣に努力奮闘したにもかかわらず、かなえられない願望であれば堂々とあきらめればよいのです。罪悪感、敗北感を持つ必要はまったくありません。あきらめないこと以上に、あきらめることは勇気ある選択なのですから。とにかく苦しくて仕方なければ、(いったん)あきらめてみること。括弧して「いったん」としたのは、完全にあきらめるよりも、可能性を多少なりとも残しておくほうが、無理がなく苦しみが少ないと思うからです。ここはMUST化(こうあらねばならないという思考)せずに、戦略的にいきましょう。ここで重要なのは、心をニュートラルに戻し、一つの対象への執着から自己を解放するということです。
さらに、わたしたちはあきらめる以上は、正しくあきらめることが大切です。正しくあきらめるとは、あきらめる行為自体が、すべて自己責任に帰するということを深く自覚することです。つまり他者や、周囲、環境のせいにしない。苦しくても、自ら望んであきらめるのだということをしっかり自覚するということです。そうしないと、いつまでたっても、憎悪や失意の感情は消えないまま人生を送ることになるからです。かえって苦悩を増す結果にならないとも限りません。
あきらめるのは決してたやすいことではありません。特に周囲に真面目で誠実だと思われている人ほど、あきらめるのが下手であるように思います。言い方はきつくなりますが、不器用で融通がきかない堅物ほどあきらめが悪い。生きていく上で生じるさまざまな問題に、どうしてもあきらめがつかない。
では、それでもどうしても「あきらめること」ができない人はどうすればいいのでしょうか?
実はここにそんな人のために、最後の手段、悪あがきの秘策が残されています。
それは「あきらめることをあきらめる」というやり方です。矛盾しているように思うかもしれません。でも本当にあきらめられないで苦しんでいる人には、この方法しか残されていないように思うのです。
私は、「あきらめることをあきらめる」ということが、「あきらめる」ということと同じ意味ではないと考えます。あきらめることをあきらめることによって、執着している対象を客観化する道が開き、頭の中で凝り固まってしまった思いがほぐれ、理性が介入するきっかけが作られるのではないかと思います。
狂おしいほどの願望をあきらめるのには、はかり知れない苦しみを味わうでしょう。それでも、人生のドロドロ、自分の中のドロドロした部分から目をそらさずに、苦悩するときはとことん苦悩する。そして、かならずいつか苦悩を乗り越え、その体験を糧に、より人として豊かになっていくと信じる姿勢が大事なんだと思います。人生に無駄はない。人生のどんな経験も自己成長の学びに溢れています。
近年流行りの人生論や自己啓発論では、プラス思考、ポジティブシンキングなる言葉が安易に流布されているような気がします。言葉自体は私も好きだし、実際素晴らしい力を発揮することも多く、人生の姿勢の根幹として据えておくのにやぶさかではありません。ですが、人生はそうした概念の表面的な解釈だけで乗り越えられるほど生易しいものではないことは事実です。悩み苦しむべきときにそれを避けていれば、目先の快楽におぼれて、人生は平板になり、感性も乏しくなります。
今回は、あえて人々に忌み嫌われている(と思われる)「あきらめるということ」の意外な効用を取り上げました。
最後に、改めて誤解のないように申し添えれば、この文章のはじめの方でも述べた通り、「あきらめる」ということを無条件で推奨しているわけではありません。「あきらめない」ことが、自己や他者の成長と幸福につながるのであれば、たやすくあきらめるべきではありません。
その願望が、自分の欲求を満たすためだけの小さなエゴに基づいたものなのか、それとも、エゴを乗り越えようとする偉大なはたらきを秘めたものなのか、ここを見極めることが何より大事なのでしょう。
拙文のヒントとなった本は『「あきらめ上手は生き方上手」下園壮太 マガジンハウス』です。
※当ブログを応援してくださる方はお手数ですが下のバナーをクリックしてください!
ありがとうございました!
なんか、何時に無く長い文を書いてるけど、何かあったの?
要領が大きすぎるから2日かに分けて2部作でやってよ。
僕、読書苦手で頭悪いからだから読むのに疲れた。
内容はその通りだとおもうけど、ブログはもと短いのがいいね。
あきらめる=諦める=四諦?
以前、教えに行っていた学校で、試験の問題に「諦の意味を答えよ」と出したことがあったのですが、しっかりと「あきらめる」と答えてくれた学生多数。ちゃんと教えたつもりだったのに、毛穴から入っていかなかった模様です。。。
そっか長かった?なにもないよ~(笑)
これは一年前の文章をちょっと加筆したものです。
いま、ジャンポルスキーって人の本読んでいて、過去に書いたこの文章を思い出したんだ。
なにげ、「愛とゆるし」をサブメッセージにして書いたんだけど、伝わったかな
アハハ
四諦、この四つを文字通りあきらめちゃったら、仏教はそこでジ・エンドになっちゃいますね・・・
tenjin95さんの論理的かつ熱い授業(想像ですが)も、生徒諸君にはなかなか伝わらないのかな・・・
めげずに、仏教の素晴らしさをお伝えになってください。
思い通りにならないことを、思い通りにならないことと明らかにすることが「あきらめる」ということですよね。
それは、しかたなくでも、我慢(仏教的でない意味)してでもなく、「諦」という真理としてです。
養老先生は、それを「覚悟」と言ってます。
>思い通りにならないことを、思い通りにならないことと明らかにすることが「あきらめる」=「諦」
すごい!
私が長々と書いたことを一言で要約されています・・・
コメントに目から鱗です・・・。
有り難うございました。
養老先生の「覚悟」の使い方、鋭い切り口ですね。
はじめまして。ようこそです!
拙い長文を読んでくださり有り難うございます。どちらかと言えば私もあきらめ下手な方です。だからこんな長い文章が書けたのかもしれません・・・。
しっかり苦悩することが大事なんて書きましたが、やはりできればキレイに爽やかに明らめたいものですね。これがなかなか難しい。
さて、サングラハを毎日読んでいると言うのは、岡野先生のブログのことでしょうか。それとも会報「サングラハ」か。ともあれ、サングラハにご縁があるようで嬉しいです。現実でも会えるといいですね。
坐禅は時折サボってしまいますが、なんとか継続しています。
お互い頑張りましょう!
あと、ご存知かとは思いますが、念のため、岡野先生の本は、ネット・アマゾンで検索すると、ズラッと一覧で出てきますよ。ご参考までに。
私の場合、書籍購入はほとんどアマゾン頼りです。入手困難な著書『美しき菩薩・イエス』なんかも、アマゾンの古本でたまに出ています。
よかったらまた覗きに来てくださいね。