一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

「足の裏で歩め(考えろ)」歩行禅のすすめ

2006年02月11日 | 禅・仏教
 元総持寺貫主の板橋禅師の著作を読んでいると、しばしば「足の裏で歩め」、「足の裏で考えろ」という言葉が出てくる。
 つまり、歩くときに足裏感覚に意識を集中するということである。
 以下、板橋禅師の言葉を引用する。
 
 足はアスファルトの上、あるいは砂利道の上を踏みながら、頭の中はこんな遠い道とか、車さえあったら汗はかかないのにとか、足の裏の刺激とは別な世界に住んでいるわけです。現実に身を置いている場所と、頭の世界に隙間があるわけです。隙間があるものですから、現に歩いているという実感が伴わない。
 (中略)
 「足の裏で歩め」というのは、足の裏の実感を伴って歩きなさい。足の刺激をよく知りながら歩きなさい。無駄な頭の考え癖を辞めなさいということです。足の裏のそのときの刺激はそのまま自分の「いのち」のすべてなのです。身体に実感することが、そのときの自分のいのちのすべてなのです。体で実感していることは事実そのものです。疑いようのない事実、それを仏といいます。
 (中略)
 その現実の生(なま)の体験、体の実感を仏というのです。
 ところが我々は頭に描いた仏を求める。何か別な仏があるような気がする。それで迷っているのです。自分の呼吸をしながら、自分の呼吸をどうすべきかを尋ねているのと同じような根本的な間違いです。
 (中略)
 足の裏の感覚がそのまま仏であり、いのちであるということを実感しなさいということを言いたいのです。
        (『むだを堂々とやる!―禅の極意』板橋興宗著 光雲社)

 実際に意識して実践するとすぐ気づくことだが、これをやると「あ~だ、こ~だ」といった雑念があまりわいてこない。自然に、こころもち重心が低くなった感じがして、呼吸もゆっくりしてくる。少し頭の中もクリアになるような・・・。
 この行を、あえて名づければ「歩行禅」と言えるかもしれない。
 徹底すれば、その先に意識の変容がありそうな気さえした。
 もちろんこうしたことを頭で期待してしまうと仏を追い求めることになってしまう・・・。歩くという行に全身心が没入すること。
 

 こうした行を、世界の高僧としてダライラマと並び称される、ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンが提唱していたように思い出し、さっそく、ネット・アマゾンで、師の著書を注文した。

 やはり結跏趺坐の坐禅が基本であろうが、歩行禅は時間のない人でもできるというところに魅力がある。
 
 さっそくこれから日常生活で実践してみようと思う。


<追 記>

うっかり、わが曹洞宗の伝統に、歩行禅とも言うべき、経行(きんひん)という坐禅の間に行う「行」があることを失念していました・・・。一息一歩、まさに牛歩の如く歩みます。
しかし、こうした自覚的歩行を日常底の実践として丁寧に説いたお師家(禅の指導者)さんは、これまで板橋禅師以外にはいなかったように思います。


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