一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

葬儀について思う

2006年02月28日 | 思い・お寺の活動
ここのところ、葬儀が立て続けである。

僧侶としてあるまじき物言いかもしれないが、弱音を吐けば、正直、葬儀の導師を勤めると、精神的エネルギーを激しく消耗する。

葬儀は、ほかの勤めとは明らかに違う。

私もまた「死」という厳然とした事実に対峙せざるを得ないからだ。

「死」とは終わりではなく、新たな旅立ちであると信じているものの、遺族にとって愛しい者の死は愛別離苦を伴う。

私もまた遺族の悲しみの念を引き受けざるを得ない。

しかし、共感はしても、その感情に飲まれてはいけない。

その時点で導師とは言えないのだ。

これから臨むのは、自ら命を絶った青年の葬儀である。

うつ病で苦しんでいたと聞く。

以前、母親に、悩んだら彼に電話させるように、話したいことがあったら寺に来させるようにと言っていたものの、なんら連絡はなく最悪の結果になってしまった。

自責の念と無力感を覚える。

住職になって、時折自殺者の葬儀に立ち会ってきた。

二度と自殺者が出ないよう、今後の方策を考えること。

いのちの意味を伝えられる僧侶になりたい。

そのためには、自分のいのちの意味を明らめること。

頭で理解するだけでなく、全身心で腑に落ちるほどの体得をしてゆきたい。


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ありがとうございました

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7 コメント

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霊魂・気 (zazen256)
2006-03-01 04:58:47
 人は心でもその生前の霊魂は死なないと思います。例えば、私の場合父と祖父母が四十年以上も前に死にましたが、未だに私の思いでの中に現われて来て、力づけてくれます。

 

なによりも、死者の顔は生きる人々に対して、全てを許すから仲良く生きよ、といわれているように私には見えます。



 どのような方でも、自殺だけは避けてほしいと思います。

自殺する前に何か気付きを感じさせてあげる方法はないものでしょうか?



 例えば、「幸せだなあ」と700回以上、毎日唱えることを勧めるとか、・・・・・・・



 言葉の力は何よりも強力な味方になると思うのですが、如何なものでしょうか?

 特に、プラス言葉は自分で選ぶのが善いと思います。



 人間は人生経験や社会環境などに迷わされて、何でもないことや大切なことを無視してしまう傾向が強過ぎると思うのですが如何なものでしょうか?



 生意気なことをコメントしてすみません。

 お許し下さい。

 今後とも、何卒、よろしくお願いします。

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Unknown (風月)
2006-03-01 19:49:20
本当に自殺した方のご葬儀は辛いです。私も鬱病の青年の時のご家族の辛さを忘れられません。母親の涙は何年経っても乾きませんね。僧侶として、りょうさんの言うように「いのちの意味を伝えられる僧侶になりたい。」という言葉に同感致します。

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コメント有り難うございます。 (りょう)
2006-03-01 22:21:26
>zazen256さん

こんばんは。はじめまして。ようこそいらしてくださいました。



そうですね。人は亡くなっても、私たちの心に生き続けますね。たとえ忘れ去られたとしても、その人が生きたという痕跡は、しっかりと世界に、全宇宙に刻まれている。



また、死者からプラスのメッセージを聞く姿勢も大事だと思います。



仰るとおり、言葉の力というのは、はかり知れないですね。私たちを苦しめるのも言葉なら、私たちを救うきっかけとなるのも言葉。プラスの言葉を習慣化すれば、必ず種子となって、心の深い部分に蓄えられる。それがいつか芽を出す。

人ってマイナスの言葉を無自覚のうちに使いがちですね。それをプラスの言葉に矯正することは、そうとう有効だと思います。



私の場合、いのちの意味について説明する場合は、私の師事している岡野先生が提唱する、仏教の縁起・空観に基づき、現代宇宙論の最新の成果によって構築された「つながりコスモロジー」という体系を用いて、お話しています。

よろしければ、ブログ左側に張ってある、カテゴリ「つながりコスモロジー」、あるいはブックマークの岡野先生のブログにアクセスしてみてください。

『「生きる自信の心理学」岡野守也著PHP新書』に詳しく述べられています。

「つながりコスモロジー」は、近代科学的思考に慣れている現代人には、いのちの意味を考える上で、そうとう有効な方便だと思っています。



本当に若い人の自殺は心が痛みます。

仰るとおり、若者が目先の環境や困難を絶対視することをやめさせたいものです。

温かいご助言をくださいまして、誠にありがとうございます。



こちらこそこれからもよろしくお願い致します。





>風月さん

風月さんもそうですか・・・。

本当に若者の自殺は辛いです。



うつ病は脳の機能的疾患であるとも言われているようですね。

そうした場合はやはり薬で自殺衝動を抑えなければならないでしょう。

だけど、ほとんどの鬱は心因的なものに由来するように思われます。こうした欝に対しては、特に心のケアがそうとう有効であるはず。僧侶として、そこに食い込んでいきたいと思います。

今回の若者は、薬を服用していたそうですが、心因的な要素も多く、私の方からアプローチしても良かったかもしれません・・・。いたずらに自己非難することなく、今後に活かそうと思います。

ありがとうございました。
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お疲れ様でした。 (ちこ)
2006-03-01 22:34:47


 辛いおつとめでしたね。ご苦労様です。



 ご家族のやりきれないだろう気持ちを思うと、たまりませんね。



 私の年配の知人も鬱で、本を差し上げたりしていますが、なかなかです。

  

 りょうさんのような、熱心で温かい人柄の僧職の方の力も、とても必要ですね。
返信する
無力ではなく微力 (おかの)
2006-03-01 22:36:08


 本当に残念でしたね。



 そういう時には、無力感と自責の念、ということになりがちです。なっても、当然ともいえます。



 でも、私たちは微力なだけで、無力ではありません。



 とても残念ながら、すべての人をお救いすることはできませんが、何人かの生きるお手伝いはできると思います。



 その何人かのお手伝いの力を、協力することで微力を強力に変えていきましょう。



 そして自殺する人がかぎりなくゼロに近い社会を創り出しましょう。



 そうすることが、若者の死を意味あるものにすることになると思います。
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Unknown (バスと椅子)
2006-03-01 23:28:32
   そんなに責任を感じないでご住職。悔しい気持ちは分かるが、あなたはそんなに必要とされていなかったのでは。



   遺族の悲しみも分かるが、「自殺」という結果の原因に、遺族のあんたらも含まれている。でしょ?「ちこ」さん。



   岡野先生素晴らしい。私もそういった形で社会に貢献出来ればいいなあと思う一人です。如何せん、微力であり、無力であり、名前も明らかにしない小心者です。



   
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コメントありがとうございます (りょう)
2006-03-02 20:20:50
>ちこさん

ありがとうございます。

昨日お通夜で、今日告別式が終わりました。

一人息子だっただけに、遺されたお母さんの悲しみははかり知れなかったと思います。早くにご主人も亡くされていたので、お母さん一人ぼっちになってしまいました。

これから時折、声を掛けていこうと思います。

私の先輩も主に鬱が原因で命を絶ちました。



ある意味で、純粋で優しい人ほど、この時代の毒気に当たりやすいのかもしれません。

前途のある若者の死をストップさせたいです。





>おかのさん

ありがとうございます。

いつも励まされ、力をいただいています。



無力ではない。微力であるとのこと。

そうでした。

微力でも、力はある。

その微力が集結して、一致協力すれば、強力になりますね。

昨日のお通夜の席では、「つながりコスモロジー」を説きました。正直迷いました・・・。何を話しても虚しく響くだけだろうと・・・。でも、やはりここで伝えるべきだと思い直しました。

うまく伝わったか自信はないんですが、微力ではあっても、プラスの影響を及ぼすことを信じます。

自殺者は交通事故で亡くなる人より、多いそうですね。

私も5人くらい、自殺者を葬儀で送っています。

かぎりなく、自殺がゼロに近づいていくように、力を結集させていきたいですね。





>バスと椅子さん

はじめまして。こんばんは。ようこそおいでくださいました。

そうですね。残念ですが彼からすれば、私は必要とされていなかったのかもしれません。ただ、遺族のお母さんは、彼がいつでもお寺に電話で相談ができるよう、お寺の電話番号を紙にでっかく書いて電話のところに張ってくださったとのことでした。



ご指摘の通り、昨今の若者は、既成仏教寺院に心のケアを期待していないのかもしれません。その原因はわれわれにもあると思います。私含めて、寺院側が自省しなければならないことだと思います。

鬱病の対応は、専門家であっても難しいものであるはず。私としては、遺族の責任について問うより、前向きな対応を考えたいと思います。



バスと椅子さんの「社会貢献できたらいい」という、思いこそがスタートでしょう。自己から、他者への視点の転換は、力がなければできないことだと思います。決して無力ではない。微力ではあっても、その思いが少しでも行動に反映されるようにお互い頑張りましょう。



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