一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

曹洞宗侶に熱あれ!光あれ!まず一歩前へ!

2006年02月23日 | 禅・仏教
今日は、私が昨年来より教えを享けている岡野守也先生が、曹洞宗島根県布教講習会で講義をされている。

岡野先生については、これまでも当ブログで触れさせていただいたのでここで詳しくは述べない。

だが先生の見据えている展望をあえて一言で言えば、大乗仏教の精神を個人レベルで啓発し共有していくことによって、この混迷した現代をベターなベクトルに推進していくことにあると言っていいと思う。

もちろん、先生の研究の射程は、広義の大乗仏教にとどまらない。

禅、唯識をはじめ、トランスパーソナル心理学(K・ウィルバーを中心とした)、論理療法、アドラー、フランクル、マズロー、フロイド、ユング等の心理学。
また、、仏教の縁起と空観によって論理的裏付けがされ、現代宇宙論の成果をもとに構築された「つながりコスモロジー」という体系
実際これらの「知」を挙げれば切りがない・・・。

岡野先生は、これら洋の東西を問わない膨大な人類の叡智を統合把握し、エゴの肥大化が加速する現代を根底から変革していく活動を、サングラハ教育・心理研究所※リンクを興して具体的に展開されている。

またその活動の姿勢として着眼すべきは、当会の基本理念として「MUST化はしない」ということを第一に掲げていることである。もちろん厳密に言えば「MUST化はしない」ということも「MUST化しない」ということになり、堂々巡りの循環論法になるが、ここで論理学を論じてみてもあまり意味がないだろう。
つまりは、特定の宗教、イデオロギー、信条を絶対視せず、批判精神を許容しつつ、合意の上で、全体としてよりベターな方向性を目指していくということである。
人類の歴史をたどってみれば、過去から現代に至るまで、どのような宗教、イデオロギー、信条にしろ、それらを絶対視することによって、必然的に排他的感情が生じ、戦争や恐怖政治が繰り返されてきたということは明らかである。

だから会の活動(講義やワークショップ)も、完全に個人の自由意思を尊重している。そのせいか、会員も老若男女、職業を問わずさまざまな人々で構成されており、その雰囲気は極めて風通しがよく、明るさに満ちている。

なんだか、サングラハ教育・心理研究所の広報活動のような記事になってしまったが、これも別に依頼されてしていることではなく、私の自由意志で行っているのだ。だから、私の言動がピント外れであることもあり得るが・・・

さて本題に入ろう。

私の所属する既成仏教団体、曹洞宗は全国1万6千箇寺を擁する巨大な教団である。曹洞宗は、日本仏教史、ひいては人類史においてさえ、燦然と輝きを放つ「道元禅師」を開祖としていただいている。
開祖、道元禅師は言うまでもなく、正伝の仏法「坐禅」を宣揚された。
その坐禅は自利行であると同時に利他行の坐禅である。
しかるに、曹洞宗門の現状はどうであろうか。
痛切な自戒の念も込めてあえて一言言わせていただくなら、はたして「坐っているのか」。
坐っていなかったら、それに変わる利他行にいそしんでいるのだろうか。
私は何も、日本古来の先祖儀礼(葬式・法事)を軽視しているわけではない。それがたとえ形骸化されたものであっても、人々がそれによって安心(あんじん)している以上は、立派な利他行である。しかし現代、そうした従来の型通りの儀礼では、精神的な充足を得られない人が増えている。
彼らは心の支えを、既成寺院にではなく、新興宗教を含む「在家教団」や、在家出家を問わず著された「宗教書」の類、ちまたに蔓延する「癒し」、「スピリチュアリズム」、「占い」といったものに求めているのではなかろうか。
または、金銭至上主義への追従、快楽主義への逃避、エゴイズムを肥大化させることによって、刹那的退廃的な生に、自己の病を隠蔽しようとする傾向が見られるのではないか。
以上の傾向は、なにも他人事ではない。私自身の中にもいささかなりとも見出せるし、一般論として断定はできないが現代宗侶の中にも、そうした問題は内在化されているのではないだろうか。

住職の仕事は決して楽ではない。
現実問題として寺の住職をしていれば、住職には十の職があると言われるほど、仕事は多岐にわたり、一般から想像されるようなスローライフを送っているわけではない。所帯を持てば、在家の人々と同じような苦労を味わう。それもまた大乗の精神に基づけば、否定し去られるものではない。
だが、やはり僧侶である以上は、人並みの人生における喜怒哀楽を含んで、さらに一歩を進めなければなるまい。そこにだけ安住することは、僧侶の堕落であり、アイデンティティーの崩壊である。

完全な在家の家庭から、仏縁あって15才の時、この世界に身を投じた私は、これまで周囲の先輩宗侶の温かい庇護があって、いまこうして一箇寺の住職をさせていただいている。在家の視点をあわせ持った私が公平な目で感じるのは、曹洞宗の僧侶の方々は、誠に心優しい方が多いということ。また、人間的魅力のある方も多くいるということである。だが、残念なことに僧侶としての魅力を持った方が少ないのだ。それは、やはり一歩先へ進む姿勢が乏しいからである。自分たちが先陣を切って、現代の精神的支柱にならんとする気概が感じられない。
それは自分にも言えることだが、それでも私は自己の抱えるこうした傾向にようやく気づき始めた。だからこそ、岡野守也先生の主宰するサングラハ教育・心理研究所の会員となり、学びと実践を始めたのだ。先生は、宗門でもその活動の実績が評価されたのか、曹洞宗内においても講演を依頼されることが時折あるようだ。だが、先生の展開する活動に具体的に参画する宗侶は少ないようである。
それは、推察するに先生の経歴や立場にも起因するのかもしれない。私のような在家出身者にとっては、まったく取るに足らないことであるのだが。
まず一つは、出家ではなく在家であるということ、さらに一つは、元牧師であるということ、にあるのではなかろうか。おそらくは在家の主宰する研究所の活動に賛同できるものか、といった尊大さ、あるいは、元牧師であるということへの不信の念、違和感がそこにあるのかもしれない。

まず出家・在家にこだわることについて反論したい。
出家、僧侶であることを威張ったところで、現状、いまの僧侶は本来の意味での「出家」をはたしているのだろうか。家族を持ち、財産を持ち、少なくとも9割以上の宗侶が、在家と同じ生活をしていると言っても過言ではない。一般的な出家以上に、出家によほど近い生活を送っている在家の方もいる。ここでこうした反論が予測される。われわれは仏戒を授かっているから、やはり違うのだ。または、基本ラインとして道元禅師も出家主義を標榜しているから、在家より少なくとも一段上であるのだという意識。しかしこれは悪しきDogenisumであろう。道元禅師の都合のいいMUST化である。自分にとって都合のいい箇所でMUST化を図っている。そんな主張をするのであれば、道元禅師の言われるとおりの如法の修行を進めてから言って欲しい。フェアではない。私は普段の檀務においても、自分があくまでも立場として上に置かれているに過ぎないことを、つねに内省する必要があると思う。上座部の出家とは違うのだ。また道元禅師の主張する出家とも明らかに違う。如法の出家を貫いている僧侶がどれだけいるだろうか。おそらく宗侶の0,1%もいないはずだ。
であるならば、道元禅師を自分の都合の良いようにMUST化することは避けるべきであろう。これもまた、わが身を振り返り、厳しく自問自省して述べている。

また、先生が元牧師であるということ。ここで、誤解を恐れずに言えば、先生は牧師を辞めてもイエスへの愛を捨てたわけではない。むしろ、いわゆるキリスト教の組織から離れたことで、その愛はさらに深まり純粋さを増したのではなかろうか。これはもとより私の推察なのであるが。
また、同時に、釈尊や大乗仏教の祖師、ひいては道元禅師から良寛和尚に至るまで、そうした仏祖に対して、先生が抱く敬愛の念ははかり知れない。とても中途半端な宗侶の及ぶところではない。
私は昨年ワークショップに参加して、散歩中に先生にはじめて尋ねたのは「先生が元牧師であったことについて」だったと記憶している。そのときに先生は「従来のキリスト教の神話的なイエスの解釈に限界を感じたので牧師を辞めました」と言われた。だがその後でハッキリと、「しかしイエスとその教えを捨てたわけではないのです」と言われた。今でも、その言葉が忘れられない。
もしそのとき、「イエスの教えには限界を感じて、大乗仏教に転向した」といったような事を言われたら、私は間違いなく先生の活動に賛同しないであろうし、会員にもならなかったであろう。
愚見だが、歴史的な経緯で不幸にもキリスト教は教条主義化し、イエス、その人の、純粋な精神は歪曲化された形で解釈されて伝わってしまったように思うのである。これについては思うところも多々あるものの、もとより本文の趣旨から離れるのでこれ以上は述べない。
先生は、いわゆる一般的なクリスチャンという言葉ではくくれないが、イエスを全身心で愛していると言えると思う。これもまたその辺の中途半端なクリスチャンが抱くキリストへの愛の及ぶところではない。

私は、そのあり方に全面の信頼を寄せるのだ。
ただ、そこは仏教、道元禅師をMUST化している宗侶には共感しづらいかもしれないのだが・・・。

私は、これまで、いわゆるクリスチャン、あるいはキリスト教の聖職者と少なからずご縁があった。それは、現実においても、また思想や著作においても、である。真摯なクリスチャンに、共通して言えることがある。それは、彼らが、キリスト教という組織的な環境にあっても、極めて利他的な性格を失っていないということ。彼らにとってはいわゆる異教徒と呼ばれる存在の私に対してさえ、友愛と敬意、慈愛の念は篤い。それが、いわゆる神の愛に基づいた他律的なものであるにしても、時として大きな感動を覚える。客体としての神が命ずる他律を超えた、自律的な内なる神に突き動かされているのではないかと思わされることもある。
元牧師である岡野先生にも、おそらくそうした極めて高邁で利他的なキリスト教の精神が、自然その人格を醸成したのではないかと思うのである。
翻って、自身を自問すれば、果たして具体的な利他行として、なにかしらの奉仕をしているだろうか。ひいては既成仏教は、どんな利他行的アクションを展開しているのだろうか。強いてキリスト教の聖職者の活動と比較すれば、完全に劣っている。あのSVA(シャンティ国際ボランティア会)も、過去に曹洞宗は見捨てたのだ・・・。宗門あげて環境保護を訴えるのもいいが、一過性に終わり将来的な展望がまったく見えてこない。ほかにも宗門内部政治の腐敗構造など唾棄すべき点を挙げれば切りがないが…ここはいたずらに宗門批判をしても仕方なかろう。
個々の寺院の、なにより個々の僧侶の意識の変革が先決であり、その灯火が徐々に輪となって広がれば、宗門全体がベターになっていくはずなのだ。

長くなった・・・。
私は何が言いたいのか。
曹洞宗侶は現状に甘んじずに、まず一歩前へ踏み出すこと。
そのためには自己の拠って立つところをMUST化するのは避けるべきである。
これと「信」の問題は、似ているようで実は決定的に違うと思うのだ。これについては長くなるのでここでは触れない。

学びと研鑽を深め、ちょっと背伸びしてやれることをする。
自分にできるやれるだけの自利利他行の実践。
そして大乗理念への原点回帰!

曹洞宗侶に熱あれ!光あれ!

そのためのはかり知れないほどのヒントが、サングラハ教育・心理研究所にあると考えている。

最後に、今回の島根県の布教講習会に岡野先生を招聘した、実行委員の宗侶の方々の慧眼と熱い思い、その実行力に、謹んで深い敬意を表したい。


<追 記>

思わず熱く激しい文章になってしまいました・・・
その理由は、少なからず、心ある宗侶の方々が、多かれ少なかれ私と同じ思いを抱いているのではないかと思うからです。
ですが、全体としては冷めている宗門の現状に、忸怩たる思いを通り越して内心、諦観の念を抱いているのではないでしょうか。
今回の記事はそのような思いを代弁する意図がありました。
道心堅固な方におかれては、周囲のことはいい、自分がしっかりと精進していればいいじゃないかとお考えの方もおられましょうが、この時代の問題は自分だけのことではないように思われます。
言わずもがな、現代はまさに危機的な状況です。
私は幸いにもサングラハ教育・心理研究所という絶好の機会と、大乗の理想にまい進する岡野先生という師を得ました。
ですが、これもまた強くお勧めはするもののMUST化しようという気持ちはサラサラなく、どんな形であっても宗侶一人ひとりの意識が変わり、全体としてベターなベクトルに向かって大きな流れとなることを熱望するのです。

独りより、二人がいい、二人より三人・・・大衆の威神力となって欲しい。

宗門の中には、例えば私の敬愛してやまない南直哉老師のように、既成仏教のあり方に危惧の念を抱き、サンガを結成したり、超宗派の僧侶のミーティングや、在家・出家を問わない活動を展開されている方もいます。
南師においては、並外れた知性と論理力をもち、感嘆するほどの言葉の力を持ち、そして何より道心堅固な方で、このような方がいることは、宗門の宝であり、わたしとしても大変心強く思っております。
ですが反面、やはり、宗侶としての自覚が強いためか、私としては師の言語活動に、道元禅師のMUST化、あるいは仏教のMUST化を見てしまうのです。方向性としては極めて純粋で、正しいのですが、大乗精神を一般化するという観点において言えば、そこに私は限界を感じてしまいます。

そして、何より道元禅師のMUST化をすることで私が危惧するのは、宗侶としての自分を苦しめてしまうこと。つまりは、自虐、自己非難に陥りやすい。純粋な人であればあるほどに悩むはずです。
現実問題として、道元禅師の時代の出家のあり方に戻ることは私たちにはできない。この事実をまずしっかりと見据えることが大事なのではないでしょうか。そして、だからと言って決して開き直るのではなく、また、いたずらに自己非難するのでもなく、また道元禅師の教えを他を批判したり、自らの正当性を主張するために用いるのではなく、自分がそこに説かれた仏法から何を抽出して我が物とするかがすべてではないかと思うのです。いや、むしろそれを含んで超える。
道元禅師もまたその時代の人です。普遍的なことを述べていることもあれば、時代の制約を出られないこともある。釈迦も、イエスも、孔子もまたそうであると思います。
不遜な言い方を恐れずに言えば、偉大な過去の教えを含んで超えるあり方を目指すべきなのではないでしょうか。
大乗仏教もゴータマ・ブッダの教えを内包しつつ超えています。
これは仏教学を少しでもきちんと学ばれた方には分かることです。

であるならば、一見いい所取りにみえるかもしれませんが、サングラハ教育・心理研究所の掲げる、統合的な視点の方が、より一般化、普遍化しやすいといえましょう。現代は、ひとつの教えを盲目的に信じる時代ではありません。私にはそう思えます。
(言語化されたものを)決してMUST化はしない。
私はこの姿勢を貫こうと思います。それが私にとっての殉ずることです。

以上、長々と駄文を書き連ねましたが、在家出家を問わず、拙ブログを読んでくださっているみなさんに、私の思いがほんの少しでも届けば望外の喜びです。

長文にお付き合いくださった方、誠にありがとうございました。

またサングラハに関わる方の中に、拙文を読んでくださった方がいらっしゃったら、一言でも感想のコメントをお寄せくださいましたら幸いです。
その一言が、「力」になります。

<再追記>

岡野とは何者だと思われる宗侶の方に一言。
多少なりとも仏教学や宗学、あるいは思想書を読まれている方が、ご存知であろう出版社「春秋社」の敏腕(想像…)編集長としてお勤めになっていました。
牧師を兼務されながら、あれだけ良質な仏教書、思想書を多数世に送り出した。
私も春秋社にはお世話になった口です。
先生のその懐の深さと、博識には脱帽します。

また、さらに付け加えれば、岡野先生は臨済の門風、秋月先生のもとで数十年参禅された居士であるということです。
先生の人格からは、長年の参禅に裏付けられた確かな風光を感じます。

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