それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

林真理子って誰?:再帰性の高まりのなかで無意味になる存在

2013-07-06 23:28:12 | コラム的な何か
日本は再帰性が過剰に高まっている社会だと私は常々思っている。

自分が集団のなかでどう見られているのか、集団は社会のなかでどういう位置づけなのか。全体と個の関係を問い続け、そこから個を修正し続ける。その速度がどんどん増していると私は感じている。

林真理子という名前を久しぶりにテレビで聞いた。

私は1980年代に生まれた。私の世代では、林真理子という存在はすでに歴史上いたらしい人物として、田中康夫などと一緒の箱に入っている(田中は長野県知事になったから、一度その箱から出てきているが、林はずっと入ったままである)。

林真理子の生き方は親から少しだけ聞いており、主にその情報でイメージが構成されてきた。

欲望とコンプレックスと真正面から戦い、負けと勝ちを繰り返している人(そして、ご自身では勝ったと言っているらしい)、というイメージである。

自分が自分であるために勝ち続けなくちゃならない。というのは尾崎豊の歌詞そのものであり、私の世代では古くて可哀そうで、そして真似してはいけない手本として認識されている。あるいは、それ以上に「意味のない存在」になりつつある。

バブルが崩壊して以降の世代の、次の世代。それが私が属する世代だが、社会に対するある種の怒りを持った上の世代に対して、我々の世代は怒りや諦めを通り越して、バブルの世代を笑っている。

欲望とコンプレックスと戦い続けることは、勝っても負けてもそれらに支配されていることと同じであり、病気そのものである。

林は自分が病気の症状、それもかなりひどい症状を自嘲出来ていないところに、我々の世代の認識との埋めがたいギャップがある。

われわれの世代は林真理子は知らなくても、中村うさぎは知っている。

中村うさぎは、同じように欲望とコンプレックスに支配されながら、それを「病気」として認識し、その症状を意図的に売りにしてきた。

我々はそういう中村の生き方をその客観性ゆえに、そして病の偏在性ゆえに「正常」と見なし、面白い生き方と捉えている。

林真理子には、病に対する客観性がなく、それゆえ、彼女はつまるところ格好がひどく悪く、共感できず、われわれの世代にとっては話題にすることに意味が無いのである。

これは再帰性が過剰に高まっている日本の社会のなかでこそ起きていることなのではないかと私は思う。

私は林真理子を批判したいのではなく、社会の変化が彼女を無意味な存在にしつつある、ということを指摘したいのである。

再帰性の高まりのなかで、誰もがあらゆる生に関する全体像を求め、性急なまでに自己完結しようとする。

それがいいことだとは思わない。

ただ、林真理子の生き方がそれよりマシだとはちっとも思わない。