それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

映画「地上5センチの恋心」:フランスの下流社会の愛らしさ

2013-07-26 21:53:37 | コラム的な何か
この映画を観て、私はイタリア人の友人バレのことを思い出さずにはいられなかった。

というのも、まず第一にこの映画の原題(=主人公の名前)は、バレがSNS上で使用している名前だったからである。

バレがこの映画からその名前を取ったのか、それとも他のところから取ったのかは分からない(彼女に聞いてみたい)。

それ以上に、この映画の中心的な舞台である主人公の女性のアパートが、イタリアのバレの家にとてもよく似ていたのである。



この映画は、いわば中年の女性のシンデレラストーリーである。

主人の女性オデットは夫に先立たれ、すでに成人した息子と娘とともに暮らしている。

オデットの暮らしはとてもつつましい。昼間はデパートで、夜は内職で生計を立てている。

子供たちの問題、アパートの近所づきあいでの問題、仕事の問題。彼女は色々辛いことを抱えている。

けれど、そんな彼女をある作家の小説が支えていた。

ある日、その作家のサイン会に行くチャンスを得て、彼女はいよいよその作家と会う。

そして、作家とオデットをめぐる不思議な運命が動きはじめる。



映画のなかでこの憧れの作家の小説はまさに大衆小説で、階級で言えば下の人たちが読むもの、として批判されている。

その言い方はいかにもフランス的な皮肉に満ちた言い方で、オデットはまさにこの階級に属している。

職業はもちろん、部屋のファンシーな装飾や趣味に至るまで、下流社会の一種のデフォルトになっている。

下流とは言え、貧困層ではない。が、中産階級でも知識階級でもない。

バレの家もまさにこれだった。

もちろん、それはイタリアの話だったのだが、とてもよく似ていた。

ファンシーな部屋の装飾、アパートの変な(異常な)ご近所さん、仕事が見つからない子供たち、いずれも僕がイタリアで見た光景そのものだったのである。

ただ、はっきり言っておきたいのは、バレのお母さんはかなりのインテリで(何せラカンの心理学を大学で勉強していたのだ)、バレもなんだかんだ言って、複数の言語をほぼ完璧に使い分けられるのであるから、教養に関してはかなり高い。

けれども、彼らの生活ぶりはまさに映画のそれとそっくりだった。



しかし、階級がやや下であるということが駄目だとか悪趣味だとか言う人がいれば、それは大いに間違っている。

その階級の文化はそれ自体で価値がある。

そして、いつ何時、その文化が上流階級の文化にカウンターパンチをお見舞いするかは分からないのだ(例えばアメリカのヒップホップ)。

何より、日本人から見れば、この「地上5センチの恋心」に登場する部屋や暮らしぶりは、(映画であるから、というのもあるけれど)やはり「おしゃれ」なのである。

無論、イタリアで僕が見たバレとマンマの生活と趣味も最高だったのである。



この映画はとにかく愛らしい。

まず主演のカトリーヌ・フロのたたずまい、雰囲気、容姿が本当に愛らしい。

アメリ的な「空想演出」もかわいい。

さらに劇中に出てくるチョイ古のヨーロッパの音楽(例えばフレンチ・カンカン)がとても良い。

だが、それ以上にそれに合わせて踊る役者の動きが素晴らしい。

特にカトリーヌ・フロの踊りはキレキレだ。

この人の演技ですべて持っていかれてしまう。

セリフのフランス語の調子も耳に心地よい。

この愛らしさこそ、ラテン語圏の愛らしさなのだ!