それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

小説「博士の愛した数式」:科学者および科学への尊敬と愛を感じるから、良しとしたい物語

2013-07-24 17:45:12 | コラム的な何か
授業のあと、さらに補講などというものをやらなければならず、長い休み時間が出来てしまった。

私が授業している大学は、所属している大学とは違っている。おかげで大学生協がどこにあるのかもよく知らない有様だった。

補講に備えておやつでも食べてやろうと思い、職員の人に場所を聞いて生協に向かった。

生協は小さくこじんまりとしていて、食べ物と本が同じ場所で売っているという、あまり見たことのないタイプのお店だった。

しかし、どういうわけか本の配置がとても見やすく、私は気が付くと文庫本を物色していた。

イギリスでとてもお世話になった後輩が教えてくれた作家、梨木果歩の小説がすぐに目に入った。

彼女から梨木の本を借りてから、自分でも買ったり、図書館に行ったりした。それほどお気に入りになった。

その梨木の本の隣に小川洋子の「博士の愛した数式」が置いてあった。

一旦は無視した私だったが、なんだかどうしても気になってしまい、飲むヨーグルトを手にしたあとで、もう一度その本のところまで戻り、一緒にレジに持って行った。



理系男子のことが書いてある、という点が私の心に引っかかっていた。

なにせ付け焼刃的に科学史をやたらめったら集中的に勉強した私であるから、小説家がどのように理系男子を描くのか気になったのである。

あらすじはこうだ。

主人公は30歳手前の家政婦。派遣された先は、元大学教員で専門が数学だった老人の家だった。

彼は事故で記憶が80分しかもたないため、主人公は常に新しい家政婦さんとして彼と過ごすことになった。

しかし、彼女の小学生の一人息子のことがきっかけとなり、主人公はこの老人と数学の世界の魅力に徐々に気が付いていく。



この小説には起伏がない。

私が勝手に作り出した「何気ない日常を取扱いながら、細かな洞察と描写によって人間の本質へ迫るアプローチ」の小説群に、この小説は属する。

一見して「この小説は毒にも薬にもならない」と捉える人はいるだろうと思う。

日常系の小説には、触ると壊れてしまうような儚さへの敏感さや、どこまで付きまとう影のようなものへの感性が定番だと私は思う。

けれど、この小説にはそれがあまりない。

だから主人公の何気ない日常は、設定の「老人の記憶が80分しかもたない」ということ以外、あまり外的な圧力に曝されない。

主人公の送ってきた半生はなかなか厳しいものだったが、そこから生じるストレスは、この小説では言うほど出てこない。

それを「薄さ」と思う人もいると思う。

けれども、それゆえ際立つのが「老数学者の人柄、異常さ、温かさ」である。

研究者のフェティシズムと行動の異常さが、ユーモアたっぷりに描かれている。

この小説からは数学者への尊敬と愛が感じられる。

私はその点に大いに好感を持ったのである。

多くの研究者に共通する異常さは、簡単にバカにできる。

どう捉えても異常であり、必ずしも好ましいものではない。

私も本当によく彼女から異常さを指摘される。物事の捉え方がどうしてもズレているのである。

私の場合、他の人にとって当たり前のことをそのまま認識できず、一から頭のなかで再構成しなければいけないらしい。

けれど、それも含めて科学という世界に入ってしまった人間の性は、悲しくもあるが愛らしいものでもある。と、この小説は主張する。

もちろん、そんな無邪気さは数学なら良いが、武器に転用できる領域になると、話はかなり変わってくる。

とはいえ、これだけ愛のある視点ゆえに、私はこの小説を称賛したいと思う。