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審美眼の謎:ハーブ&ドロシー、イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ、なんでも鑑定団

2013-07-15 14:17:40 | コラム的な何か
映画『ハーブ&ドロシー』と『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は、ともに現代芸術をテーマとして扱う映画だが、どのように整合するだろう。



ハーブ&ドロシーは、現代芸術を愛する老夫婦の話である(遂に旦那さんの方は亡くなってしまったのだが)。

この映画のストーリーは以下。

ハーブとドロシーは趣味で現代芸術の作品を買い集めていた。彼らが買った作品は、いつの間にかどんどんどんどん増えて、遂に彼らのアパート全体が作品に埋もれてしまった。それをいよいよいくつかの美術館に寄贈することにしたのだが、それが予想もつかないほど、とんでもない量だったのである。

ふたりは主にミニマルアートやコンセプチュアリズムの作品群を集めてきた。彼らが作品を買い始めたとき、まだそれらは大した評価を受けていなかった。作家は皆お金に困っており、ハーブ&ドロシーのように積極的に作品を買ってくれることを大いに喜んでいたという。

その後、そうしたアートは傍流から主流へと変化し、ふたりが集めた作品は値段にすればとんでもない額になる。しかし、彼らは決して作品を売ろうとしない。

夫であるハーブはかつて郵便局員として働いていた。当時もその後も言うまでもなく、収入は多くなかった。しかし夫妻は買える範囲のもので、置ける程度の大きさのものをひたすら拘って収集し続けた。そこに「信念」としか言いようのないものが垣間見える。

彼らは自分たちが美しいもの、強い印象を受けるものを選び出し収集し、たまたまその後、それらが主流のアートとなったである。

映画は(2本作られたのだが、そのどちらも)彼らの「審美眼」と「信念」を積極的に評価する。



他方、イグジットの方は、この前者の映画とは相当趣旨が異なる。

アメリカで古着屋を営むフランス系アメリカ人のティエリー・グエッタは、何でもかんでもビデオカメラで録画する癖がある。

ひょんなことから、「グラフティ」と呼ばれる路上の建造物に違法・合法問わず絵を書く(落書きする)活動に身を投じる若者の映像を撮り始める。

最初はただひたすら録画していただけだったが、グラフティ界の大物(かつ正体不明)のバンクシーに勧められ、ドキュメンタリー作品に加工する。

ところがあまりにも技術とノウハウと才能がなかったグエッタは、それをうまく加工できず、バンクシーが代わりに加工することになった。

そのうち、グラフティは単なる違法行為からメインアートとしての評価を受け、作品群がとんでもない高値で取引されるようになる。

バンクシーは、グエッタに対して映像を撮るよりも、むしろグラフティ活動をしてはどうかと勧める。

その後、周囲の活動家の後押し、宣伝などによって、どういうわけか単なるカメラ小僧でしかなかったグエッタは、アメリカで大成功してしまう。しかし、グエッタの芸術家としての能力は「本物」なのだろうか?ただの模倣の模倣なのだろうか?実際に彼がやっていることはスタッフに適当な指示を出すことくらいなのでは?と映画は示唆する。

このドキュメンタリーはバンクシーによる作品ということになっている。

彼はグエッタの「誰かの模倣の模倣のような作品」が、宣伝と市場原理のなかで大金を生んでいく様子を皮肉る。ただの違法行為だったグラフティが急にメインアートとなり、なんでもかんでも高値が付いていく。むろん、作家が直接そのお金を手にするとは限らない。それは法的には、違法行為の産物であったり、単なる「ゴミ」でしかなかったりするからである。

グラフティを評価する「審美眼」が本当に真っ当なものなのか、とグラフティの作家であるバンクシー自身が観客に問うのである。



ミニマルアートとコンセプチュアリズムは、もちろん、グラフティよりも前のムーブメントであり、これらをごちゃごちゃに論じるべきではない。

けれども、はっきりしているのは、「みんなが良いって言うから、良いんだよ」というわけにはいかない、ということである。

そんなことは当たり前のようだが、実際、それは矛盾している。

例えば、一万円札は価値があるが、それはみんながそれを信じているからだ。

そして、それは実際にモノと交換できる。

たとえグエッタの作品の由来がどんなにインチキなものであったとしても、それを皆が評価すれば「価値」がある。なぜなら価値とはそういうものだからだ。

だから、「みんながダメだと言っても価値がある」というのは、ただそれは主張する人個人のなかで価値があるか、さもなくば、潜在的にみんなに評価されうる、ということを意味する。



芸術はどんなかたちであれ、資本主義から無縁でいることは現在不可能だ。

どんなものでも、人々がそれにお金をいくら払うかで生産に必要なコストが変わってくる。

確かに完全に引きこもりの状況で、妄想だけで生産し続けるタイプの「アウトサイダーアート」もあるが、そうだとしても、その後、人の手に渡れば資本主義の只中に放り込まれるのである。



以上のように、作品の価値を資本主義のなかでの評価と結びつけるなら、それは基礎づけとしては不安定になる。

というか、「美」に関して基礎づけなどあるのだろうか?

それはあまりにも古典的すぎる問いだ。

私はそんなことを言いたいのではなくて、いくら基礎づけがなかったとしても、自分が感じる「良いもの」を信じられるのかどうか、それが資本主義のなかでどうなろうと、信念を持てるのかどうか。客観的に見れば、作品それ自体よりもその「信念」の方が問題なのではないか、と思えてしまう。

つまりはどういう風に生きたいか、どういう作品と生活したいのか、ということに尽きるし、そのことに筋が通っていれば、それ自体で完成しているのではないか、と思える。

それは「なんでも鑑定団」の理念とは対極にある。何でもかんでも値段に変えて、それが普遍的に価値に基づいているかのように言うことは、どれほど説得的で意味のあることなのか?