それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

全力コミュニケーション

2010-06-27 07:59:38 | 日記
過去を振り返る間もなく、新しい生活は僕に順応せよと迫ってくる。

今日はフラットメイトのデイビッドが「友人にパブで会うんだけど来る?」と突然のお誘い。

デイビッドはもう物理学でDPhilを終えた、いわば僕の先輩である。

「英語の練習しなきゃなあ、環境変わったし」と思い悩んでいた矢先だったので、天啓と思い、ついていくこと。

パブについてみると、大きなスクリーンでサッカーを放映している。

しかし、相手はすでにビーチで何やらやっているらしく、僕らがそこへ向かうことに。

ビーチにつくと、ピアスだらけのお姉さん(ちょっとおばさん)が出迎えてくれて、友達は彼女のことだった。

僕のいる街は左翼の街であり、ヒッピーの街である。そういうわけで、彼女はまさにリアル・ヒッピー。

そして、そこに集まってきた他の友人たちも皆ヒッピー。

ヒッピーだらけ、ネイティブだらけ。英語が難しい。リスニングが困難。

一時間ほど経って、ようやく耳が慣れ始めてきたが、何を話していいのか謎のまま時間が過ぎ、デビッドとともに帰宅することに。ビーチはとてもきれいな夕暮れを過ぎ、すでに真っ暗だった。

僕のいる街の繁華街は、日本のそれとはやはりちょっと違う。緊張感がある。

だから、コミュニケーションというコミュニケーションが重要だ。

デイビッドとの会話もそうだが、リスニングのミスは自分の生活に関わる失敗を招きかねず、とにかく必死である。

大学内で暮らしているときは、別に何も感じなかったし、アジア人ばかりだったから、不自由もなかったが、今はちょっとずつ、僕に英語生活に慣れよ、という圧力がかかってきている。

そういうつもりで留学したわけではなかった、とは流石に言えまい。それこそ留学なのだろう。そうやって大人になるのでしょうか?

ともあれ、研究とともに、僕は全力でのコミュニケーションという課題に取り組んでいます。