短期間に稼ぎだすことを信条とする金融は、本来的に倫理を備えているものだろうか。倫理にこだわれば、儲ける機会を逃す。儲けようとすれば、倫理は邪魔になる。これが金融に従事する人たちの正直な感情であろう。
Dobson, John, Finance Ethics: the rationality of vietue(金融の倫理:道徳の合理性), Rowman & Littlefield, 1997(ISBN 0-8476-8401-6(cloth); 0-8402-4(paper)という本がある。この本にはH.Alordの書評がある(http://www.oikonomia.it/pages/genn/recensione.htm)。
Alordは、書評の中で、カトリック世界で取り組まれるようになった「金融倫理」の理論化の試みを紹介している。
経済における倫理といっても様々なものがある。企業論理、職業倫理、いずれも、社会の信頼を得るために不可欠なものとして当事者たちには十分理解されている。しかし、金融の倫理については、建前的にはその重要性を語りはするが、本音のところで、避けて通りたいものとして考えられてきた。つまり、金融の倫理については、その他のビジネスの倫理に比べて著しく理論化が遅れていると、Alordはいう。
金融を扱う人たちは倫理にこだわってこなかったし、倫理を強調する人たちは金融知識に乏しいというのが実情であるというのである。
Alordによれば、こうした中にあって、フランスにおけるカトリックの世界で、「金融の倫理」という観念の開発が叫ばれるようになった。1994年にフランス大蔵省の2人の官僚によって、『近代金融システムとクリスチャンの倫理規範』(フランス語)が出された。これは、「正義と平和を求める司教会議」における金融行政担当者たちの一連の議論をまとめたものであった。この本に刺激されて、ジュネーブにはカトリックの立場から行う「金融監視センター」が設立された。
『金融と共通利益』(Finance and the Common Good)という雑誌の発刊も企てられている(英語とフランス語)。
こうしたカトリック側の理論は、利己心と富の最大化を前提にして組み立てられた金融論を、金融システムで現実に起こっている事象をきちんと説明できないものであるとする点に立脚したものである。
ビジネス・スクールで教えられているような原理主義的金融論のもつイデオロギーは、金融当事者を引き裂き、金融システムの健全な機能を損なってしまうと、カトリック世界では論じられるようになった。単なる技術論ではなく、倫理を土台とする金融論を構築しないかぎり、金融システムはちゃんと機能しなくなるというのである。
さて、Dobsonは、金融の倫理を求めることは、金融の世界で生きる人々に対する制約ではなくて、全員が幸せになるための条件であると強調する。Dobsonが依拠するキーワードは「道徳的倫理」(virtue ethics)である。
この言葉で彼は、カント(Kant)の「至上命令、良心の絶対無条件的道徳律」(categorical imperative)を超えようと試みている。
面白いことに、こういう論点を提出するDobson自身が、米国の有数のビジネス・スクール、カリフォルニア工科大学(Caltech)スクールの金融論担当教授である。
彼は、クーンのパラダイム転換論(Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions)をもじって、「金融パラダイム」という言葉を使っている。
エッジワースは、「道徳科学への数学の応用」(Edgeworth, F. Y., "Essay on the Appliation of Mathematics to the Moral Sciences", 1881)の中で、「すべての主体が利己心のみで行動させられているという点が経済学の第一原理である」と断定した。この第一原理がさらに彫琢されて金融経済論にも使われていると、Dobsonはいう。利己心は、ますます狭く解釈され、人々は少額よりもより多額の報酬を求め、ときには詐欺、欺瞞という手段すら必要悪であると見なすようになってしまった。経済活動の動機を、もっぱら、狭い利己心のみに求める立場は、その他の豊かな動機を理論から放逐してしまった。こうした理解方式を彼は、「金融のパラダイム」という(p.1)。
このパラダイムがあまりにも強力すぎて、それに反対する考え方はこれまではきっぱりと退けられてきた。すでに現実に破綻しているにもかかわらず、このパラダイムは、なお強力に生き続けていると、彼はいう。
このパラダイムに固執するかぎり、市場の参加者たちは、相手から騙されるかも知れないという恐怖感に駆られて、短期即効的な高金利を貸し手は要求する。いきおい、借り手は十分な投資ができなくなる。Norman Bowieというビジネス道徳家がいた。
Dobsonは、彼の、「すべての社会構成員が利己心のみで行動してしまえば、結果的にはすべての人々の利益を損なってしまう」という言葉を引用している。
Dobson, John, Finance Ethics: the rationality of vietue(金融の倫理:道徳の合理性), Rowman & Littlefield, 1997(ISBN 0-8476-8401-6(cloth); 0-8402-4(paper)という本がある。この本にはH.Alordの書評がある(http://www.oikonomia.it/pages/genn/recensione.htm)。
Alordは、書評の中で、カトリック世界で取り組まれるようになった「金融倫理」の理論化の試みを紹介している。
経済における倫理といっても様々なものがある。企業論理、職業倫理、いずれも、社会の信頼を得るために不可欠なものとして当事者たちには十分理解されている。しかし、金融の倫理については、建前的にはその重要性を語りはするが、本音のところで、避けて通りたいものとして考えられてきた。つまり、金融の倫理については、その他のビジネスの倫理に比べて著しく理論化が遅れていると、Alordはいう。
金融を扱う人たちは倫理にこだわってこなかったし、倫理を強調する人たちは金融知識に乏しいというのが実情であるというのである。
Alordによれば、こうした中にあって、フランスにおけるカトリックの世界で、「金融の倫理」という観念の開発が叫ばれるようになった。1994年にフランス大蔵省の2人の官僚によって、『近代金融システムとクリスチャンの倫理規範』(フランス語)が出された。これは、「正義と平和を求める司教会議」における金融行政担当者たちの一連の議論をまとめたものであった。この本に刺激されて、ジュネーブにはカトリックの立場から行う「金融監視センター」が設立された。
『金融と共通利益』(Finance and the Common Good)という雑誌の発刊も企てられている(英語とフランス語)。
こうしたカトリック側の理論は、利己心と富の最大化を前提にして組み立てられた金融論を、金融システムで現実に起こっている事象をきちんと説明できないものであるとする点に立脚したものである。
ビジネス・スクールで教えられているような原理主義的金融論のもつイデオロギーは、金融当事者を引き裂き、金融システムの健全な機能を損なってしまうと、カトリック世界では論じられるようになった。単なる技術論ではなく、倫理を土台とする金融論を構築しないかぎり、金融システムはちゃんと機能しなくなるというのである。
さて、Dobsonは、金融の倫理を求めることは、金融の世界で生きる人々に対する制約ではなくて、全員が幸せになるための条件であると強調する。Dobsonが依拠するキーワードは「道徳的倫理」(virtue ethics)である。
この言葉で彼は、カント(Kant)の「至上命令、良心の絶対無条件的道徳律」(categorical imperative)を超えようと試みている。
面白いことに、こういう論点を提出するDobson自身が、米国の有数のビジネス・スクール、カリフォルニア工科大学(Caltech)スクールの金融論担当教授である。
彼は、クーンのパラダイム転換論(Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions)をもじって、「金融パラダイム」という言葉を使っている。
エッジワースは、「道徳科学への数学の応用」(Edgeworth, F. Y., "Essay on the Appliation of Mathematics to the Moral Sciences", 1881)の中で、「すべての主体が利己心のみで行動させられているという点が経済学の第一原理である」と断定した。この第一原理がさらに彫琢されて金融経済論にも使われていると、Dobsonはいう。利己心は、ますます狭く解釈され、人々は少額よりもより多額の報酬を求め、ときには詐欺、欺瞞という手段すら必要悪であると見なすようになってしまった。経済活動の動機を、もっぱら、狭い利己心のみに求める立場は、その他の豊かな動機を理論から放逐してしまった。こうした理解方式を彼は、「金融のパラダイム」という(p.1)。
このパラダイムがあまりにも強力すぎて、それに反対する考え方はこれまではきっぱりと退けられてきた。すでに現実に破綻しているにもかかわらず、このパラダイムは、なお強力に生き続けていると、彼はいう。
このパラダイムに固執するかぎり、市場の参加者たちは、相手から騙されるかも知れないという恐怖感に駆られて、短期即効的な高金利を貸し手は要求する。いきおい、借り手は十分な投資ができなくなる。Norman Bowieというビジネス道徳家がいた。
Dobsonは、彼の、「すべての社会構成員が利己心のみで行動してしまえば、結果的にはすべての人々の利益を損なってしまう」という言葉を引用している。